第15話 ホスト飛雄との出会い
「実は僕、昔の話ですけどね、客に売掛金を踏み倒されたことがあるんですよ。
それで、二百万円僕がかぶることになって店に払いましたよ」
ええっひどい話。でも、これがホステスだったら風俗行きである。
だから、男は得なのだ。
「でも、今の店では客の売掛金は、一週間以内に店の経理部が回収にいくことになってるんですよ」
私は同情を感じた。少し酔いがまわってきたのだろうか。もの悲しい気分である。
「ひどい話ね。あなたって、結構苦労人なのね」
飛雄はうなずいた。
「この仕事って、そういった苦労人じゃないと成功できないと思うんですね。
もし客が『実は私、二週間くらい風呂に入ってないの』と言われたら、どう思います?」
私は思わず顔をしかめた。
「ここで顔をしかめるのは、裕福な人と相場は決まっている。でもそれでは客とのコミュニケーションははかれない。
僕にそれを告白してくれたことは、多少ならずとも僕という人間を信用してくれている証拠。だから、僕はその期待を裏切ってはならない。
子供同志のような無邪気な信用の糸を、自ら切るようなことをしてはならないと思うんですよ。その人のもつ心の痛みを、理解できるようにならないとね」
なるほど、それが女性を惹きつけるコツなのか。
そして、心に痛みをもつ女性が、その痛みを吐き出しにくるところなのか。
「でも、気持ちを理解できるだけでは、解決策にならない。
たとえば、そういう場合はウェットティッシュを渡すとかして、新たな生き方を教え、新たな人生の道を作ってやらなきゃならないという心構えでいるんですよ」
だから、女性はホストにはまっていくわけか。
「そして、その次来店されたときは、無水シャンプーを渡すくらいの配慮がなくてはね。あまり大っぴらに言えない悩みを、ホストを打ち明けることで解決策が得られるのなら、そのホストに依存するのは当然の結果でしょう」
私は感心した。これでホストと客の間に共依存関係が生まれる。
客は精神的支柱をホストに求め、ホストは当然のことながら金を女性に求め始める。このバランスが平衡に保たれているうちは、健全なのであるが、女性がホストに求め始め、無理な大金を払うとそこからバランスが崩れ、悲惨な結果となる。
ホストにはまった若い女性が五百万円の借金をつくり、ホストが女性の母親の家にまで請求に行ったという話を聞いたこともある。
「でも、そういう店って高いんでしょう」
「そうでもないですよ。最低料金消費税も含め、一時間六千六百円ですよ。
チャージ料が四千円、ドリンクが客とホストの分も含めて二千円。
なかには、ホストのドリンクを客と半分こにしようとするちょっぴり図々しい客もいますがね。でも少なくともつけを踏み倒したりはしないので、悪質な客ではないから、店側も渋々ながら承認していますけどね」
「私、お酒弱いの。ドンペリとか飲めないわ」
「別に、お酒を飲む必要はないですよ。ウーロン茶かコーラで楽しんで頂けるなら、それで十分ですよ」
私は、居酒屋に一人で行って飲みすぎるよりは、ホストに行ってウーロン茶を飲んだ方が、有意義なんじゃないかと思った。
第一、居酒屋の十倍以上の料金なので、飲みすぎる心配もないし、いろんなホストと話すことで社交性が身につきそうである。
「それじゃ、僕はこの辺で。あまり飲みすぎないようにね。
あっこれ僕の名刺、渡しときます」
飛雄は、そういった去って行った。
私は、久しぶりに学生時代の友人同士のような、心地よい友情を感じた。
私は翌日、飛雄に会いにクラブシャインに行った。
「わあ、嬉しい。まさか来ていただけるなんて」
飛雄は喜んで隣に座った。
「ねえ、ご主人の方は大丈夫?」
「大丈夫も何も、私は独身よ。バツ一です」
「わっごめんなさい。失礼なことを聞いちゃった。お詫びにしるしに、僕からドリンク一杯プレゼント」
「本音をいうと、僕もその方が健康的だと思うな。まあ友里さんの健康を考えるならね」
飛雄は、いつのまにか腰に手をまわしてきた。
「また、僕の失敗談を話していいかな。
僕、先月、肝臓を壊して休んでたんだ。だから給料はゼロ。
こういう世界って、固定給が一切ないんだ。売上の四割が給料なんですよ」
固定給が一円のないなんて、不安定な世界。
しかし、学歴や過去の経歴など一切関係なく、敬語が使え、多少の礼儀作法さえあれば、誰でも入れる世界でもある。
「狭き門から入れ。広き門は誘惑や滅びが多いであろう」(聖書)
まさにその通りである。
「はじめまして。つかさです。僕、現役大学生の四回生、経営学部ですといっても、去年留年しちゃったから、今年は目いっぱい稼いで卒業しなきゃ」
初対面にも関わらず、皆、私に笑顔で話しかけてくれ、おしぼりを差し出してくれる。
二十歳前後の男の子ばかり。でも、握手を求められて悪い気はしない。
ここだけは、まるでタレントになった気分だ。
私は満足して店を出た。
飛雄の言うとおり、六千八百円の代金である。
私は今度は、新聞配達をすることにした。
幸い、学生時代一年間経験があるので、即決採用だった。
しかしなんといっても肉体疲労に襲われ、仕事から帰ると寝てばかり。
出歩くのは、せいぜい近所の商店街くらいである。
夏の炎天下の新聞配達をすると、冬になると風邪をひかなくなるという大きなメリットがある。
雇用形態も、契約社員ではなく、リストラもなく安定はしている。
五十歳以上の男性が圧倒的に多い。そのうち、女子は私も含めて三人しかいない。
しんどいかわりに、安定はしている。
水商売のように、精神的に不安に追い込まれることはない。
私は、次第に飛雄に魅かれている自分を感じていた。
といっても、恋愛感情などあるはずもない。
ただ、一緒に楽しい時間を過ごしたいと思うだけだ。
初回から一週間後、飛雄のスマホ番号にダイヤルしてみた。
「ねえ、今日行っていい?」
「うわあ、来てくれるんですか。めっちゃ嬉しい」
飛雄は、心底、安堵したような温かみのある声を出した。
無理もないだろう。クラブのホストもホステスも売上第一主義。
固定給はなくて、売上だけが収入源である。
客が途切れたとき、呼吸が途切れるのと同じであるので、当然客を大切にする。
しかし、客はそれを自分に好意があると勘違いするケースが多い。
昔、銀座のクラブ経営をしていた山口洋子をうまく騙し、客をみな吸い取ってしまった京都祇園のクラブママがいた。
山口洋子の店にやってきて、三つ指をつきながら
「うちは何も知りませんのえ。いろいろ教えてもらわんと」と低姿勢で、数えきれないくらいの京都土産を渡すのだった。
「姉さんもうちも、京都出身でお偉いお方やと聞いてます。これからは、姉さんの妹分として、お仕えしとうおす」
などとあくまで低姿勢で、山口洋子から客のリストを聞き出し、なんとその客を自分の開店するクラブに引き入れたのだった。
「どういうことでしょうか。客をとらないお約束をしたはずですが」
山口洋子がびっくりして聞くと、祇園出身の開店クラブの女性は
「あんさん、なにを言うてはりますの。あんた何年商売してはりますの。生き馬の目を抜く銀座の夜のど真ん中で。
お約束? ようお言いやすわ。じゃあ、うちとあんさんがお約束したとして、うちの店長はそんなお約束をしてまへんで。これでよろしおまっしゃろ」
祇園出身ママの高笑いで、裏切られたという寂しさが胸を吹き抜けていった。
古き良き銀座の足跡が過ぎていこうとしていた。
しかし、山口洋子曰く
「裏切りというのは、裏切られた本人よりも、自分を信用してくれている裏切って金銭や名誉を得た人の方が、より孤独の檻の中に陥るものである。
いくら大金や名誉を得たようなものでも、そんなものは一過性のものでしかない。
それより、まるで子供が母親を慕うように、自分を無条件で信用してくれた相手の心を踏みにじるということは、二度と戻らない純な心を捨てることである」
そのせいだろうか。
祇園出身のママは、ホストクラブにはまっているという。
ホストクラブにはまるということは、その担当ホストにはまるということ、いわゆる担当ホストのために大金を使うということである。
シャンパンタワーなど百万以上もするけれど、いくら大金を費やしても、その場限りのショーのようなもので、自分のものにするなどという確証はどこにもない。
まさに幻の宴でしかない。愛のかけらすらも残らない。
女性はホストに愛想を求め、ホストはそれを金の都合にすりかえる。
愛想と都合の良さという愛の形をした幻を追いかけた挙句の果て、借金を背負い込む羽目になった女性も数えきれない。
不倫も幻の愛でしかない。
私は以前、好奇心から老舗カフェで「不倫の恋も恋は恋」というタイトルの本を読んでいる最中、年配のマスターから「不倫なんていうのは遊びや。あんた、こんなもの人前で読んでいると、売春でもしてると勘違いされるよ」
読んでみると、なんとも暗い地獄行きのような暗いムードが漂っていた。
そこには不倫という間違った道を歩んでしまった後悔の念と、引き返せない暗さ、地獄に引き込まれていく恐怖にも似た不安感を感じさせた。
私の友人にも不倫をしている女性がいた。
きっかけは上司と部下の関係という、あまりにもよくあるパターン。
彼女はそれまで、男性とつきあったことのない生真面目で平凡で女性だったが、それがかえって災いして二十二歳のときに、二十歳年上のワル男に引っかかってしまったのだった。
一度、不倫男と彼女が腕を組んで歩いてるのを見たことがある。
今まで口先三寸でいろんな女性をだましてきましたというのを物語っているような、おなかの突き出た中年男。ずるさと強引さが漂っている、俳優くずれのようなまあまあの男前。
彼女の亡き母親曰く「あれは人間のクズや」
親をも悲しませ、絶望させてもそれでも不倫の穴にはまるとそこから逃れられないのだろうか。
「君から僕を離れることはあっても、僕から君を離すことはない」
などという、一見優しそうなユルユルのセリフで三十年も彼女を縛り付けていたずるい汚れた中年男。
その末、中年男は家族に捨てられ、彼女と同居することになった。
これが、恋の成就といえるだろうか。
彼女は今、不倫の罰を受けているのだろうか。
中年といわれる年代になって以降、足は動かず、膝を曲げることもできないので和式トイレさえできない。
歯もボロボロ。年中喘息状態で喉は苦しく、それに加えて、脳の手術をしたばかりである。
幸い良性の腫瘍であったが、傷跡が残っているので、直射日光に当ることさえできない。
彼女とは最後に会ったのは、十年前のことであるが、これから先、会えることはなく、電話連絡のみであろう。
寂しい話である。
でも私は、唯一の青春の友達として、これからも彼女と付き合っていくつもりである。
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