第8話 看護ヘルパー婆さんの悲惨なあがき
田辺婆さんは、私に宣戦布告をした。
「私は、あんたみたいな若い人がいているだけで、腹がたつねん。
あんた、偉そうに椅子に座って仕事をしていただろう。このベビーセンターは、椅子に座って仕事をするときは、看護主任の許可が必要なんだ」
本当なのだろうか。椅子に座るのに許可が必要? そんなの初耳である。
それとも、婆さんヘルパー田辺の私に対する単なる足引っ張りの嫌がらせなのだろうか。
無理もない話だ。雑用とはいえ、荷物運びはいつも私に指名がかかり、その間、田辺は、仕事以外のお茶くみ当番ー看護師相手に製氷機から盗んできた氷でお茶を入れ、看護師相手の機嫌をとっているーをして遊んでいる状態である。
こんなことが長続きするはずがない。年齢的にいっても七十代の田辺は、確実に解雇されることは、目に見えてわかっている。
雑用とはいえ、遊んでいる人に給料を払う余裕はない。
そんな日が三週間続いたある日、私は婦長室に呼び出された。
「今日で勤めて一か月になるね。ところで、あなたに対して妙な噂が流れていることをご存じかな?」
私はキョトンとした顔で、ハアと返事をした。
私は、看護師の指示通り、荷物運びと掃除をこなし、一度も逆らったことなどなかった。そんな私が妙な噂など、たてられる筈はない。
「川島さん、あなたは看護師の食べる駄菓子の残飯を持ち帰っているのではないかという報告が出てるんだ」
私はピーンときた。
田辺婆さんの仕業ではないか。田辺婆さんは、いつも駄菓子の置いてある給湯室で、製氷皿から盗んできた氷をお茶に入れ、看護師相手の機嫌をとっている。
いつもの田辺節というより、一種の精神病なのだろうか。
田辺婆さんには、もう荷物運びや掃除の仕事は回ってこない。このままだったら、解雇されることは時間の問題である。
「いや、決してそんなことはありません」
「今から、看護主任を呼んで確認させてもらう」
私と同い年の太り気味の看護主任が、やってきた。
「まあ、私もその現場を見たわけではないから、わかりません。
でも、看護師全員から怖い顔でにらむ変な人が入ってきたという苦情がでて、困っています」
どういうことだ。
怖い顔でにらまれていたのは、私の方だ。
来る日も来る日も、なぜか私だけに荷物運びがまわってくる。
この前など、三千万円相当の相当重い医療器具を運ばされ、破損したら弁償などと脅されたばかりである。
田辺婆さんの中傷に違いない。
先輩の上村曰く、田辺婆さんは婦長室に
「私の後輩上村さんは、私の仕事の妨害ばかりする無能者です。
覚えも悪く、荷物運びをするにも痩せた体で体力はない。私は上村さんとは一緒に仕事ができません。だから配置替えをして下さい」
婦長の一言「いや、田辺さん。あなたの行き場はベビーセンターしかありません
それが致し方ないなら、辞職して頂いても構いませんよ」
私と同い年の太り気味の看護主任は、切羽詰まったような顔で言った。
「川島さん、どうしてどうしてあなたはそんな噂を立てられるの?」
「どうして」と言われても、答えようがない。
怖い顔でにらまれているのは、私の方である。
私にだけ、荷物運びを強要されるのはおかしい。
まるで、私だけが加害者で、看護師全員が被害者のようである。
私は、やっと答えを見つけた。
「私は若干近視なので、にらんでいるように見えるのかもしれません」
すると、看護主任は妙な質問を始めた。
「禁止だからにらむ? それは誰に言われたの。お母さんに?」
なんだ、母親とどういう関係があるんだ。
ひょっとして、家庭環境を探っているのだろうか。
私が怪訝な顔をすると、婦長はたたみかけた。
「川島さん、あなたはどきどき独り言を言ったりする癖がある。
それが人から見たら、変に思われるのよ。できたらやめた方がいいわ」
私は返事をしたが、憮然として看護主任と共に、一礼して婦長室を後にした。
婦長室のドアを閉めた途端、私と同い年の看護主任は、不意にニヤリと薄ら笑いを浮かべた。
「今のは少しむっとしたのでしょう。でも、川島さんは私たちと年齢も近いし、私たちにとっては主に荷物運びなどに利用できますので、そのつもりで頼みます」
利用できるだと!?
じゃあ、私は看護師仲間の利用人でしかないのか?
冗談じゃない。私はボランティアで入ってきたわけではないんだ。
金で買われた奴隷じゃあるまいし、無料奉仕なんてする義理はないはずだ。
いや、たとえ利用人であっても、感謝しますとか、称賛や感謝の声があればこちらもやりがいがあるというものだが、怖い顔でにらむ変な人などという悪口まで言われ、挙句の果てに婦長室に呼び出され、精神異常者か犯罪の容疑者のような執拗かつ屈辱的な取り調べを受けるとは、言語道断な話である。
田辺婆さんが陰で看護師仲間に私の中傷を言い、私をいかにも悪者に仕立て上げようとたくらんでいることに違いはないのだが、あまりにも矛盾している。
こんな理不尽な職場で、長居は無用である。
私が婦長室の前のソファで座り込んでいるのを見て、同い年の看護主任は驚いたように言った。
「気にしないでね。まあ、今のはみな、独り言のようなもの。気にしないで」
人にこんな失礼な仕打ちをしておいて「気にしないで」はないだろう。
ということは、このようなことは再び繰り返されるという可能性、危険性があることは十二分に考えられる。
こんあことは、二度と真っ平ごめんである。ここは私の居場所ではない。
翌日、またやっかいな荷物運びが私に持ち込まれた。
とうとう、上村先輩が
「私がやります。いや、たまには私にもやらせて下さい」
と助け船を出してくれた。
いくら六十歳代とはいえ、上村もヘルパーの一員であることには変わりはない。
私にばかり負担をかけるのは申し訳ないという気持ちもあるし、こんなことが続けば、自分もいつ首を切られるかわからないという、不安感もあるのだろう。
翌日、私は休みであったが、朝八時過ぎ、なんと田辺婆さんから電話があった。
「(私が)やり残した仕事があっただろう。あんたはいいよ。休みだから」
という愚痴電話だった。
田辺婆さんは、一人前に荷物運びさえできないから、私に責任を押し付けようとするのだ。陰では看護師仲間に私の中傷を言いふらして私を貶め、その癖、表の顔では私に荷物運びを押し付け、責任を負わそうとする。卑怯なやり方である。
まあ、七十歳代の困った人とはいえ、私はそういった生き方をしたくないと痛切に感じた。
翌日、また相変わらずやっかいな荷物運びが私に持ち込まれた。
どうやら私は荷物運び専門に、利用されているらしい。
とうとう私の先輩ヘルパー上村が
「私がやります。いや、たまには私にやらせて下さい」
と助け船を出してくれた。
上村とて、高齢者であろうともヘルパーの一員であることには変わりはない。
私にばかり、負担をかけさせるのは申し訳ないという気持ちもあるし、また同時に老齢故、自分もいつ首を切られるかわからないという不安感もあるのだろう。
私は、これで負担から解放されてほっとしたが、それは束の間の安堵感でしかなかった。
上村先輩が荷物運びを始めると、私に仕事を命じた准看護師が、私のもとに走り込んできたのだ。
「川島さん、荷物運びはみな、川島さんにお願いします」
嫌がらせのつもりだろうか?
その准看護師は、私が昨日、婦長室に呼び出され「怖い顔でにらむ変な人が入ってきた。あんたはそのことについて、説明せよ」との執拗な尋問をされたことを知っていたのだろうか?!
陰では、私の悪口なんて言っている。
なのに、表の顔では厄介な荷物運びを持ち込んでくる。
いや、これは仕事ではなく雑用なので、金銭になるといった代物ではない。
私にばかり負担をかけて、それで平気なのだ。
看護師たちは医療のためとはいい、人の負担など考えようとはしない。
ただ、私を都合よく利用することしか、考えようとはしない。
私は、そのとき退職を決心した。
定時は十六時なので、私は十六時十分をベビーセンターを出た。
見ると、入口で看護主任と田辺の婆さんヘルパーが、私に一瞥しながら、ひそひそ話をしている。
話の内容は聞き取れるはずもないが、良からぬ内容だということは、二人の顔つきから一目瞭然で伺えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます