アイリーン・モア灯台の謎(本当に海は荒れていたのか?)

上松 煌(うえまつ あきら)

アイリーン・モア灯台の謎(本当に海は荒れていたのか?)

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 ぶち当たる颶風に、1899年12月築の真新しい灯台塔すら軋む気がする。

カンテラをたずさえて真夜中の螺旋階段を上がる。

塔の下部からは絶え間なく薄気味悪い叫びやつぶやき、そそのかすような囁きが湧き上がって、たった1人の彼にまつわり、手すりから身を乗り出させて破滅に導こうとするのだ。

最年少のジェームズ・デュカットはそうした霊たちの悪意や呪いや誘惑にビクビクしながらも、3日に1度はやってくる業務を忠実に実行しようとする。

最上部に鎮座する巨大なフレネル・レンズはすぐ下にある水銀盤に浮く形になっていて、それを回転させるために鎖で分銅が吊られ、歯車の回転とともに落ちて行く錘をまるでカッコウ時計のように、3時間ごとに巻き上げるのだ。

これを水銀槽式回転機械といい、1900年当時の灯台灯はどこでも重力を使ったその形式だった。


 島ごと大地を覆すような大嵐が10日夜半から続いている。

時折、60メートルを越える怒涛が、まるで叩き潰すかのように灯台の先端部まで跳ね上がって、石造りの頑丈な建物を揺るがし、すべてを海に葬り去ろうと企てる。

「あ、ああ、き、聞こえるでしょ? 悪霊どものわめき声。ああ、ぼくたちを呪ってるんだ。いつもそうだ。お、恐ろしすぎる。昨日も鎖を巻きに塔を上がると、忌まわしい言葉を投げつけて来るんだ。飛び降りろってさ。飛べば嵐の外に抜け出せるって。マッカーサーさん、なんとかしてくれっ。あっあ、あんたぁ、キャプテン(船長=沈着冷静な人物の代名詞)だったんでしょっ」

青ざめたジェームズ・デュカットが苛立ったキイキイ声を張りあげる。

灯台員の勤務は6週間交代だから、彼は本来なら4週間もまえにスコットランドに戻っているはずだった。

「落ち着け、ジェームズ。そう、いかにもわしは輸送船の船長さ。北欧の有名な魔の海を越えたこともある。ひどい海だった。だが、戦争よりはマシだ。魔物どもは銃も大砲も撃たんからな」

老いてなお意気盛んなウィリアム・マッカーサーが軽い笑いに紛らす。

「しっかし、耳がつぶれそうだよ。もう、足掛け3日も荒れっぱなしだ。まぁ、新米のジェームズにはきついだろ。おれはまだ6週だが、アタマが変になりそうだよ」

灯台長のトーマス・マーシャルは20歳を越えたばかりのジェームズに同情的だ。

灯台要員3人は6週の勤務期間を終えると、定期船で本土に帰れる仕組みだが、この時のように船が2回来ないとなると2週間ごとに1人づつの交代のため、哀れなジェームズは10週、40代で屈強なトーマスが6週、優秀な船長として名を馳せた60代のウィリアムは8週の超過勤務になってしまうのだ。


 堅固な鎧戸を叩きつける荒れすさんだ波しぶきは、あたりを濃いグレーに塗りつぶし、このアイリーン・モア(大きい島)にとどまる者を忌み嫌う悪霊どもの雄たけびが重苦しく地を這い、石造りの建物に篭って恐ろしげなつぶやきを繰り返す。

古来より、この島に住み着く者はなく、羊飼いは芝草を求めて羊を放つものの島には決して泊まらない。

一時期、ある司教がこのフラナン諸島辺境の島に僧院を建てて隠遁したが、彼の死後、悪霊どもは開放されて更に呪詛を強めたと言われている。

「ああ、呪いだ。ぼくたちは最早、この島を逃れ出ることはない。おお、お終いだ。毎晩毎晩、不気味な霊たちが入れ替わり立ち代り、枕元でワメくんだ。生きては帰さないと……」

恐らく嵐が過ぎない限り気分を変えることは出来ないだろうジェームズの嘆きが重くくぐもる。

(やっかいだな。神経衰弱に陥っているのでは?)

経験上、ウィリアム・マッカーサーはそれを疑うが、口には出さない。

「ジェームズ。神の降臨がマレなように悪霊の存在もない。波音や風が人語にまぎれるのは、多分、この灯台の下に見えない洞窟があるからだ。わしはそうした土地にも行ったことがあるから、よく知っている。風のいたずらさ。永遠に過ぎない嵐などないから仕事のことを考えろ。これだけ荒れると点検だけでも1日がかりになるはずだ」


 人々の生活から隔絶された孤島での灯台勤務は、他人が想像する以上に厳しく孤独だ。

2週に1度、物資と6週ごとの交代要員1名を乗せた補給船は来るが、海が荒れれば接岸できずに帰ってしまう。

そして、たとえ翌日が好天であっても2週間たたなければ来ることはないのだ。

灯台守たちは耕作には向かない石ころだらけの畑を耕し、波静かな日を待って魚を釣り、乳とチーズを得るためにヤギを飼い、貯めた雨水で生活し、海に糞尿を捨てる。

昼間は昼間で通りがかる船の船名を確認し、気象を観測して記録し、霧が出れば霧笛を鳴らし、投光レンズ磨きに励み、荒々しい風で常にどこかが壊れるから破損箇所を探し出して修復し、塗装を塗りなおす。

それに加えて夜間、灯台灯の回転を維持するための分銅の巻上げがある。

これは灯台の最上部まで階段を昇り降りする手間と時間があるから、ほとんど寝ずの番になるのだ。

この苦行は嵐が来れば、昼夜を問わない。

毎日、フル回転の活躍だが、これでもかなりマシになったほうだ。


 以前は灯台守は2人制だった。

それがある悲惨な出来事のために3人に増やされたのだ。

その舞台になったスモールズ灯台はウェールズから遠く離れた岩礁に建てられた文字通りの小さなもので、常駐する2人の灯台員の仲の悪さは有名だった。

トーマス・ハウエルとトーマス・グリフィス。

名前は同じでも気の合わない彼らは4週をともに過ごし、灯台管理の業務にあたるはずだった。

しかし、不慮の事故でグリフィスは亡くなり、ハウエルは慣例どおり水葬にしようとして、はたと気づく。

証拠の死体がなくては、当局はきっと自分が殺したものと疑うだろう。

なにせ、2人の対立は周知の事実だ。

そこで自作の棺桶を作り、烈風に飛ばないよう塔の外壁に棚を打ちつけて安置した。

いくらもたたないうちにグリフィスは腐敗し始め、獰猛な風は棺の一部を吹き飛ばして腕をむき出しにした。

窓のすぐ外に見えるそれが、毎日、風の作用で招くように動く。

それでもハウエルは超人的な意思力でたった1人、灯台業務を維持し続けた。

だが、任期が終わり、待ちに待った迎えの船が来た時、彼はすでに正気ではなかったのだ。


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 アイリーン・モア灯台の灯台長トーマス・マーシャルは業務日誌に次のように記している。

『1900年12月12日。灯台守としての20年間で、見たこともないような大嵐に遭遇している。我々は波しぶきが塔の高さを超えて打ち付けるのを見た。ジェームズ・デュカットはなにかにひどく腹を立てている』

あえてボカして書いたものの、ジェームズの怒りの矛先がなにに向いているのか、トーマスにもわかっていた。

若くて経験の浅い彼には10週もの灯台勤務は無理があるのだ。

嵐が過ぎるまで続く霧笛と回転灯の維持は、昼夜を12時間ごとに分けて2人で担当するが、この灯台の場合、神経をすり減らすのはそれだけではない。

ウィリアム・マッカーサーの言うように灯台の下には、恐らく知られていない洞窟がある。

古来より恐れられている陰鬱で不気味で破滅的な魔の叫びは風の反響で、その証拠に吹き抜けの灯台塔の内部が最も恐怖を掻き立てる凶悪なわめき声が聞こえる場所だった。

次いで食事室、厨房、各自室、トイレ、ヤギ小屋と、塔から遠ざかるにつれて悪霊の呪詛は小さくなって行き、外に出ると聖歌隊の合唱のように「ひひゃあぁ~あぁ~あ~おあおぉ~うわぁぁあ~ん」と響くだけになる。

ま、その響きだけでも夜などは十分、怖気をふるうものなのだが……。


「灯台長さん、こんなことってある? 昔から『嵐は2日』って言うのに、もう丸3日だよっ」

憔悴して、口を開けば愚痴ばかりのジェームズがヒステリックに頭をかきむしる。

無理もない、と思いながらも言葉はやっぱり叱責になる。

「女々しいぞ。灯守精神はどうした? たかだか3日の嵐でもう音を上げるのか?」

我慢の限界に近いジェームズは耐え切れずに、子供のように泣き顔になった。

「灯台の仕事なら辛いと思ったことはありません。だけど、だけど、毎日続く魔物どもの呼び声。聞き続けて70日になるんだ。もうダメだ。耐えられない、ぼくはきっとヤツラの思い通りに、灯台塔から飛び降りてしまうんだ」

震える肩をウィリアム・マッカーサーが老人らしい思いやりでそっと抱く。

「なぁ、おい。今夜の分銅の巻上げはわしが代わろう。心配するな。年寄りは寝不足に強いんだ」

 トーマスはため息をついて頭を振る。

嵐が過ぎない限り日ごとに状況は悪くなっていくだろう。

気味悪い悪霊たちの呪詛は絶えることがなく、永遠にすら思える風と雨と波しぶきの轟きは彼らを疲弊させ衰弱させ、心の片隅に常に、あの恐ろしいスモールズ灯台発狂事件を思い起こさせるのだ。

「そうだ、ジェームズ。おまえに勇気をやろう」

しばらくして、トーマス・マーシャルが名案を思いついてニッコリする。

「さぁ、急いで」

2人をせかして食事室から自室に連れ込み、作り付けのキャビネットからなにかを取り出した。

興味深そうに覗き込むジェームズの前になにやら中近東製の箱を置き、もったいぶってフタを開ける。

「どうだね? トルコの宝剣だ。これでおまえは魔王すら寄せ付けないぞ」

金銀宝石で神秘的に飾られた1フット(約30センチ)ほどの短剣はブーメランのように湾曲していて、形からすでに魔術的なものが感じられた。

「すごい……」

呆然としたジェームズは口の中でつぶやいたきり、手も出せないで突っ立っている。

「こうして体の前でベルトにはさむ。そう、そうだ。いいぞ、おまえは立派な勇者だ。この剣を与えるから、それに恥じない自分を保て」

トーマスが手ずから手挟んでやると、ジェームズ・デュカットはおずおずしながらも輝くような笑みを向けた。

「ああ、あ、ありがとうございます。な、なんと言ったらよいか……本当に感謝しかありません。最高で最大の勇気をいただけました。もう、愚かなぼくには戻らないと誓います」

「良かったなぁ、ガンバレよ。ああ、なんだか目からしずくが垂れるぜ」

ウィリアムは健気な言葉に心を動かされて鼻をすすっている。


 が、実はトーマスもウィリアムも知っているのだ。

これは中近東のみやげ物だ。

本来は身分や権威、富の象徴としての特別のものだったが、今はその意味が薄れ、形だけを模した模造品で、もちろん魔を調伏する力はない。

それでもトーマスはとっさにこれを使って、ジェームズの中にある本来の勇気を呼び覚ましたのだ。


 彼は12日の業務日誌の末尾にこう書き加えた。

『暴風雨は明日も去らないだろう。異常な波が寄せている。その向こうを霧笛を鳴らしながら通り過ぎていく客船の明かりが見える。ウィリアム・マッカーサーはジェームズに涙していた』

しかし、これは違和感ある一文だ。

表面的に読めばウィリアムの記述といい、一見、状況を的確に表現しているかに見える。

が、『霧笛を鳴らしながら通り過ぎていく客船の明かり』?

『異常な波が寄せ』る暴風雨の海域を、しかも数日前から嵐が停滞する場所を、回避もせずに客船が通過するだろうか?

そして、トーマスはこの光景をどこで見たのか?

嵐になれば鎧戸はすべて閉じられてしまうから、灯台最上部の回転灯から見たものなのだろうか?


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「2週前も4週前も嵐で補給船は来なかった。今度の20日はどうかな? ジェームズもおれたちも、無事にスコットランド本土でクリスマスを迎えられればいいが……」

男盛りで頑健なトーマス・マーシャルの言葉もなんとなく悲観的になる。

13日になっても嵐は過ぎないどころか、さらに破壊力を増した気がするからだ。

一旦、嵐に封じ込められると途端に船の航行はめったになくなり、夜も昼も霧笛を鳴らし、灯台灯を回転させなければならない苦役のみが課せられる。

閉塞感に打ちひしがれる彼らをさらに打ちのめすのが、新鮮な食料の不足だ。

艦船勤務でも同様だが、限られた範囲に閉じ込められた生活の楽しみはどうしても3度の飯になり、飯の美味い艦は強いとさえ言われるのだ。

この灯台でも食事当番にあたった者は、工夫を凝らして少しでも美味いものを提供しようと努力するのが常だった。


「マーシャルさん。ちょっと来て欲しい」

ウィリアムのためらいがちな声にすぐに振り向く。

「わかってる。食い物だろ?」

2人でため息をつきながら、厨房の隣の食料庫に移動する。

冷蔵庫はもちろん、電話もラジオも普及していない時代だ。

灯台員たちの食中毒や腐敗による疫病を防ぐため、冬でも5週間分の備蓄しか許されていない。

シワだらけで半ば凍ったジャガイモ・ニンジン・タマネギ・ニンニクが少々、干し肉の小さな塊とカチコチのパンとビスケット。

緑が鮮やかなのはピクルスの瓶だけだ。

「この状況では定期船の来る20日までは持たない。……で、え~と、まぁその、つまり提案があるんですが……ね」

その言葉にトーマス・マーシャルは顔をゆがめてそっぽを向く。

なにが言いたいか、すでにわかっているのだ。

「ポーリーかね?」

「ええ。まぁ」

ウィリアム・マッカーサーもつらそうに目を伏せる。

「つぶして食わないと食料が尽きちまうんで」

短い言葉の語尾がちょっと震えた。

ポーリーは乳を飲みチーズを作るために大切に飼っていたヤギだ。

1900年1月3日、最初の灯台守といっしょに赴任して、口は利けないけれど日々の業務のつれづれを慰めてくれたかわいい仲間だ。

それが1年もたたない今、冷酷非情な判断を下さなければならないとは……。

「……致し方ない……だろうなぁ。ジェームズが哀れでならない。あの短剣をやって以来、歯を食いしばって自分を抑えてる。せめて美味いものでも食わせてやりたいよ……」

泥沼から遮二無二、足を引き抜くような苦渋の声だった。

トーマスは強いロープを手早く自分の腰に結びつける。

「い、いや、灯台長さん。わしが行きます。あんたになにかあったら大変だ」

思ったとおり、ウィリアム・マッカーサーが大慌てでとめてくる。

「ダメだね、ウィリアム爺さん」

こういう場合、スコットランド人はワザと親しげに呼びかけるのだ。

「おれは40になったばかりで体は至って健康さ。あんたを信用しないワケじゃないが、こういうときは適任が行くべきだ」

トーマスはそれ以上、有無を言わせずロープを渡し、ウィリアムはその端をしっかり握る。

幸いヤギ小屋は居住区の東の端だから、荒れ狂う西風からは陰になる。

それでも細めにドアを開けたとたん、雷鳴が轟き、土砂降りの雨と風と波しぶきが部屋中を蹂躙した。

真昼間のはずなのに、外は濃い灰色に覆われ、身を切るような氷点下の世界だ。

「それじゃぁ、いいかね。マーシャルさん。壁沿いに行って、なにがあっても壁から離れるな。危険なら、強く短く3度引いてくれ。わしが全身全霊を賭けて引き寄せる」

「あ、ああ。わかった。頼むよ」

ちょっとだけ笑みを見せて、トーマス・マーシャルは夕方のように薄暗い大嵐の中に姿を消して行った。


 永遠に思える時間を、ウィリアム・マッカーサーは神に祈り続けて待った。

生涯でこれほど死に物狂いに祈ったのは初めてだろう。

神経がけずられるようなもどかしい時間の果て、血抜きした気の毒なポーリーを袋に入れたトーマスが幽鬼のような姿を現した。

身にまとったオイル・スキン(帆布に防水油を塗った作業用の上着)は乱れて濡れそぼり、凍えた体の動きはゾンビのようにおぼつかない。

青ざめ、生気を失った顔に張り付いたような眼差しがまばたきもしないでウィリアムを見つめた時には、さすがのキャプテンも背筋に迫るものがあった。

だが、トーマス・マーシャルの報告はさらに混乱させるものだった。

「おかしい。……これは本当に嵐なのか? いつもの西風じゃない、風が真上から来るんだ。上から真下におれを叩きつけようとする。もし、悪魔が存在するなら、あれは悪魔の息吹だ。おれたちは魔物に魅入られているんだよ」

「馬鹿なっ」

言下に強く否定したが、うそ寒い思いはぬぐえない。

若造のジェームズ・デュカットの言い分ならまだしも、トーマスは経験も分別もある男だ。

灯台長になる前は船乗りとしても優秀で、滅多なことは口にしない信頼できる人物だ。

その彼が言うところの、自然現象としてあり得ない真上からの風とは、一体なんの作用なのか?


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 それでも犠牲となった哀れなポーリーがもたらした美味い新鮮な肉は、3人を大いに力づけ喜ばせていた。

ウィリアム・マッカーサーはヤギ肉のクセを良く知っていて、臭みを消すためにスパイスの効いたデミグラス・ソースを巧みに使って煮込んだから、味気ない干し肉に慣れた舌には天国の晩餐にすら感じられたほどだった。

元気をなくしていたジェームズ・デュカットの喜びようといったらなかった。

「ああ、すごいっ。すごく美味いよ。これが干し肉なんて、マッカーサーさんは天才だねっ。最高だ、一足先にクリスマスが来たみたいだなぁ」

「あははは、たんと食え。これは干し肉でも特別いいヤツさ。こんなこともあろうかと取って置いたんだ」

言いながら、ジェームズが気づくのではないかと疑う。

だが、信じきっている彼は素直に舌つづみを打つだけで、真相に気づく様子はなかった。


 彼らの顔に優しく穏やかな笑みが戻り、暖炉の温もりに輝いて見える。

美味い食べ物が、やっと人心地をつかせてくれたのだ。

彼らはそれぞれに首をたれ、神への祈りの言葉をつぶやいた。

だが、心配事は払拭されたわけではなかった。

幸いに薪だけは豊富にあって安堵感を与えてくるが、トーマス・マーシャルはいざとなったらイスやキャビネットを焚き付けにする覚悟を決めている。

嵐がいつ過ぎるか見当もつかない今、12月のスコットランドの気温では暖が取れなくなれば即、凍死を意味するからだ。

「12月13日。大暴風は一晩中続き、風はやや西北に変わった。ジェームズは落ち着いている。ウィリアムの祈りに合わせ、3人で神に祈った」

この日の記述にはポーリーのことは記されていないが、ウィリアムもトーマスもポーリーへの感謝を念頭に祈ったことは事実だろう。

こうして13日の晩は10日夜半の嵐の来襲以来、最も穏やかに過ぎようとしていた。


 明け方近く、今夜の分銅担当だったトーマス・マーシャルが嬉々として灯台塔を降りてきた。

「起きてくれっ。嵐はもうすぐ過ぎるぞっ。沖を船が通っていく。にぎやかな明かりがまるでリースの港みたいだ。さあ、ウィリアム、行こう、ジェームズ。灯台塔から見てみろっ」

打ち続く嵐に膿み疲れていたウィリアム・マッカーサーとジェームズ・デュカットが狂喜したのは言うまでもない。

3人は子供のようにはしゃぎながら、螺旋階段を駆け上がった。

いの一番に到着したジェームズが夜明け前の暗がりに目を凝らす。

「あっ、見える。ほら、あそこ。いや、ここにも、あっちも。本当だっ、よかった、バンザイだっ」

弾んだ声で言って1人でダンスを踊りだした。

じっとしていられないのだ。

「な、おれたちは前代未聞の大嵐に打ち勝ったんだ。これは記録に残るぞぅ」

トーマスの声は心なしか潤んでいる。

最後にやっとたどりついたウィリアムが、顔中に喜色をたたえて海を見渡した。

「え?……」

そのまま顔色を変えて絶句する。

見えない。

なにも見えないのだ。

確かに風は弱まり、跳ね上がる怒涛のしぶきも、降りしきる雨も、魔の凶声も一時期の勢いはない。

だが、見渡すかぎり、薄明るくなった夜明けの向こうに光はなかった。


「わしは頭が狂っているのか……?」

愕然と立ちすくむウィリアムの肩をトーマスが叩く。

「ウィリアム爺さん。快挙だよ。あんたは9週にわたって灯台を守り続けた最年長者ということになる。これはすごいぞ」

「あ……え、ええ。どうも……」

「あはは。ぼくなんか11週だよ。若造だけど腹が据わってるって、本土に戻ったらきっとモテるんじゃないかな」

「そうだな。その前にジェームズの周りには新聞記者が群がるぞぉ。いいさ、大いに宣伝してもらえ。灯台長としては鼻が高いよ。わははは」

とても異を唱えられる雰囲気ではない。

ウィリアム・マッカーサーは意識して彼らに合わせたが、疑問と不審は渦巻くばかりだった。


「おかしい。やや穏やかになったとはいえ、船が安全に航行できるような波ではない。それにリースの港の賑わいだって? バカな。こんな辺境の航路をそんなに頻繁に船が通るものか。彼らは幻を見ているんだ」

自室に帰って自問自答する。

ウィリアムの長い経験から言って、どうにも腑に落ちないのだ。

それでも喜びで意気軒昂になっている気持ちに水を差すのはどうかと思えるから、注意深くトーマス・マーシャルの過去の言葉の、ひっかかる部分をたどってみる。

気の毒なポーリーを袋に入れて戻ってきたあの時、彼は確かに、

「これは本当に嵐なのか? いつもの西風じゃない、風が真上から来るんだ。上から真下におれを叩きつけようとする」

と言ったのだ。

通常ではおよそあり得ない現象としての真上からの風。

そんな異常体験をしたトーマス。

しかし、これらの事象は、その実、彼が思い込んでいるだけだとしたら?

もっとはっきり言えば狂人のたわごととしたら?

問題は深刻になってくる。

なぜなら、短剣の一件以来、トーマス・マーシャルに信服しきっているジェームズ・デュカットも同時に同じものを見ているからだ。


 嫌な予感がひたひたと迫ってくる。

人間は案外弱いもので、自分の見たいものを自分に都合よく解釈して、それを真実だと思い込もうとする。

こうした非常事態では特にその傾向が強くなるのだ。

怖いのは、その願望と妄想は次第に冷静で正常な判断と正確な思考を失わせ、極端で突発的な行動を誘発しやすい。

後から考えれば、なんでそんなことを? というような愚行を大真面目で演じてしまうのだ。


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 日付は14日になっていた。

ウィリアム・マッカーサーは黙々と昼間12時間の分銅巻上げ作業に従事している。

3時間ごとに灯台塔に上がって、そのたびに海を見渡すが、小康状態になってやや見通しが良くなったた程度の海原にはどう見ても船の姿はない。

彼はため息をついて、真実をどのように伝えようかと思案するのだ。

長い螺旋階段を昇ってくる足音がする。

「マッカーサーさん、ぼくだよ。船はどう? 気になって来たんだ」

そのとたん、

「ひぃぁぁ~がはははぁあ~おぉわぁ~ぃ~いひひぃい~ぉぉん」

という、不気味なあざ笑うような狂声が湧き上がってあたりにこだました。

まるで魔物の邪悪な意思が表明されたような現象だったが、ジェームズ・デュカットは階段の途中で足を踏ん張り、腰の剣に手をかけて、怖気づこうとする自分を保ち続けた。

「ふん、魔物どもも喜んでる。案外かわいいんだ」

数日前までの彼とは全く違った反応にウィリアムの顔もほころぶ。

「おう、成長したな、ジェームズ。いいぞ、大人の対応だ」

言いながら、トーマス・マーシャルの与えた短剣が思った以上に良い感化をもたらしたことに舌を巻いた。

それと同時に強い洗脳を感じずにはいられなかった。

若くて純粋な魂は思い込みも激しい。


「なぁ、おい。正直に言ってくれ。本当に船が見えているのか? 本当ににぎやかに行きかっているのか?」

「えっ?」

ウィリアムの言葉にジェームズは世にも怪訝な顔をした。

「見えないの? ウソでしょ?」

びっくりしたらしく灯台灯の周囲に巡らされた分厚いガラス窓に駆け寄る。

「う~ん、え~と、ほら、見える。あそこ。ほら、あっちでも見える気がするよ。でも、今は霧がじゃましてあんまり見えないな。トーマスさんと見た時はもっと見えたんだけど」

「いや、見えないはずだ。荒れた海だけでなにもない。本当は船など通っていないんだ」

「ウソ……なにを言ってるの?」

絶句したジェームズはそれでも不審を払拭しようととりなしてくる。

「きっと目が悪くなったんだよ。大丈夫。ぼくとトーマスさんにはちゃんと見えてるんだから、心配いらない」

「おまえは経験が浅いからわからないだろうが、嵐はまだまだ危険なレベルだ。客船なんかが航行できる状態じゃない。それにこんな辺境を行く船は最初から少数だ。それはおまえもここで仕事をして知ってるはずだ」

「あ、ああ……まぁ」

言われてみれば確かに、明け方に見た船の数はメイン航路なみに多かった。

こんなことは以前にはなかったし、いきなり増えるのも不自然ではある。

「でも、きっとクリスマスが近いからだよ。さもなきゃ、航路が変わったとか。とにかく船が行き交っていたのは事実なんだ」

ウィリアムは珍しくイラついた顔を隠さなかった。

なお言い募ってくる彼の体をつかんで窓に押し付ける。

「よく見ろっ。船はいるのか? 明かりはあるのか? いいか、心を落ち着けてよく見るんだ」

「え? あ……う~ん。そういえば見えないなぁ。あれほどいたのに。……もう、通り過ぎちゃったんじゃないの? 今見えないのはそのせいだよ。多分、そうだ」

確信的だった返事が少し自信なさげに曖昧になる。

それでもジェームズはトーマスと見た今朝の情景が真実と確信して疑わないのだ。

「いや、今、おまえが見ている海が本物の海の姿だ。おまえは願望を目に見ていたんだ。いいか、灯台長の言葉に惑わされてはいけない。残念だが、あの人は少しおかしくなっているかも知れないんだ」

「なんだってっ?」

ジェームズ・デュカットが突き飛ばすように向き直った。


「なにを言うんだっ。バカなっ」

怒りで顔が赤黒く変わっている。

「おかしいのはマッカーサーさんだっ。マーシャルさんは信頼できる人だ。その人を悪く言うなんて。ぼくはあなたを軽蔑するっ」

「落ち着け、ジェームズ」

肩にかけようとした手が荒々しく振り払われた。

「ぼくにさわるなっ」

同時に腰の短剣を抜き放っていた。

みやげ物とはいえ刃はついているから、ウィリアムは無抵抗のポーズをして動きを止める。

「船の明かりについては、ぼくはトーマスさんの裁断を仰ぎたい。あの人が灯台長なのだから。さぁ、行け。先を歩くんだ。ぼくから見てどう見てもあなたは狂人だ。これから先、キチガイとして扱います」


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 トーマス・マーシャルは苦渋の表情を浮かべて頭を抱える。

ジェームズ・デュカットが灯台塔でのいきさつをすべて話したからだ。

「なんてことだ。長い友達のつもりだったのに、こんなことになろうとは」

「トーマスさん、わしも同じ思いだ。あんたは灯台守としての経験も豊富だし、分別もある。だが、この1件ではどう考えてもあんたが間違っている。嵐は弱まったもののまだまだ危険な状態だ。冷静になってくれ。あんたならこんな海に、断じて船は出すまいよ」

ウィリアムの言葉は噛んで含めるような調子になった。

トーマスは困惑して首を振る。

「いや、嵐は弱まっているし、船も問題なく通っている。現におれも確認したし、ジェームズも同じものを見ている。あんただけが見えないと言い張るんだ。あんたこそ、この現実を冷静に見るべきだ。つまり……」

彼はそこで探るように言葉を切り、ウィリアム・マッカーサーはそれにイラ立った声を上げた。

「わしが狂ってると言うのかね」

「いや、そこまでは言わない。だが、ジェームズに妙なことを吹き込まないでもらいたい。しばらく自室に篭ってよくよく考えてみてくれ。鍵をかけて閉じ込めるけど、食事の時は出してあげる。これが1番いい方法だと思うから悪く思わんでほしい」

ウィリアムはため息をついて黙る。

これ以上話しても平行線だ。

「わかった。部屋に篭ろう」


 この12月14日、トーマスは日誌を記載せず、その部分は空白になっている。

まぁ、書き残せるような内容ではないと思ったのだろう。

ジェームズ・デュカットは夜間の巻き上げ業務につき、トーマス・マーシャルは厨房で夕食の支度に取り掛かった。

ウィリアムはおとなしく自室に篭ったが、トーマスに対する黒雲のような不審と疑惑は抑えようがなかった。

「おかしい。あの人は時々おかしなことを言う。ジェームズも彼に引きずられて同じことを言うが、わしと一緒の時はありのままの海を見ていた。そう……そうだ、風が真上から叩きつけると言ったころから、トーマスはゆがんだ現実を見るようになった気がする」

その夜は魔物どもの凶声は甲高く、嗤いさざめくような不快なものだったが、灯台灯にいたジェームズが心を動かされた様子はなかった。

彼は張り合いを持っててきぱきと仕事に励み、3時間ごとに塔に昇るたびに窓を覗き、通り過ぎる船の明かりに満足の笑みを漏らすのだった。


 翌15日は霧に閉ざされたものの、風も波も弱まり、叩きつける雨だけが大暴風の名残を伝えていた。

「いいぞ。この雨がやみ、霧が晴れたら破損箇所の点検だ」

トーマスは上機嫌でジェームズとともに鎧戸を開けて回った。

2人は本当に強い信頼関係で結ばれたようだった。

トーマスはジェームズを頼りにし、ジェームズは嬉々として彼に従った。

昼近く、ウィリアム・マッカーサーが食事当番で厨房に入ったころ、雨はやっと小康状態になり、トーマス・マーシャルは日誌にこんな言葉を書き付けた。

『12月15日午後1時。嵐は終わった。海は穏やかだ。神はどこにでもおられるのだ』

そして待ちかねた彼はジェームズ・デュカットを連れ、オイル・スキンを着込んで外に出て行った。

12月10日夜から15日の今日まで、6日ぶりのことだ。

「ひどい嵐だったが荷揚げ用のクレーンも船着場もなんとか無事だ。だが、海蝕洞に入れておいた道具箱はすべて流されてる。110フィート(34メートル)の高さだったのになぁ」

「ここは崖が崩れてます。すごいな。ここまで波が来たんだ」

被害のありさまを点検しながら、ふと沖を眺めた時だった。

雨脚と霧の流れる間に間に、なにかがやってくる気がする。

「あれ? 船か? 霧の中をこっちに来るぞ。ジェームズ、おまえ目が良かったよなぁ、よく見てくれ」

トーマス・マーシャルにうながされて、一生懸命目を凝らす。

「え~と……う~ん。ちょっと待って。……あっ、補給船? ……でも、わからない。よく見えないんだ」

ジェームズの返事に、もどかしそうに言葉を足す。

「よく見るんだ。きっと補給船だ。だとしたらヘスペラス号だぞ。あっ、い、いや、見える。そうだっ、ヘスペラスだっ。やぁ、おおい、待ちかねたぞぉ~」

一瞬にして、喜色満面になる。

なんだか全身が震えてきて、不覚にも涙がにじむ気がするのだ。

「喜べっ。ヘスペラス号だっ。補給が尽きると思って早めに来てくれたんだ。さぁ、ジェームズ。これでやっと本土に帰れるぞっ」



               7


 これと同じ12月15日の夜半、この島に程近いヘブリディーズ諸島沖を通過していた貨客汽船アーチャー号は、首都エディンバラのリース港に入るために、方向転換をしようとしていた。

だが、どんなに目を凝らしても北東に見えるはずのアイリーン・モア灯台の明かりがないのだ。

この船の船長も冷静沈着な男だった。

航海士を呼び寄せて航路と現在地を計算し直させ、自分は双眼鏡で遥か海上をながめた。

それでも闇ばかりでなんの光もなかったため、こうした場合の対処として信号灯での交信を命じた。

「こちら、アーチャー号。なにかあったのか?」

「灯台灯が消えている。返事をしてくれ」

投光機のモールス信号にもなんの応答もない。

彼は奇妙に思ったが、このところ好天続きで、12月としては近年にないくらい穏やかな日が続いている。

暴風雨などによる灯台灯の破損ではなさそうだ。

考えられるのは窒素ガスと炭酸ガスを封入した最新式放電管のアクシデントで、3人の灯台守が一刻も早く明かりをつけようとやっきになっているのだとしたら、その仕事の邪魔をするのは得策ではない。

船長は目撃したことを航海日誌に書き付け、そのまま目的地のリース港に向かい、入港業務で少し遅れた12月18日、北方灯台委員会に報告した。

担当の係官は役人らしい想像力に乏しい男だった。

頭からよくある電球の破損だと決め付けていて、しかもその報告自体を忘れてしまったのだ。


 だが、ここで1つの矛盾に気づかなければいけない。

アーチャー号は好天続きの中を航行していて、船長は近年にはないくらい穏やかな海と認識しているのだ。

彼も決して未熟者ではなかった。

では、アイリーン・モア灯台が経験した6日に喃々とする大暴風雨は一体なにを指すものなのだろう?


 一方、灯台へ物資と交代員を届けるはずだった補給船ヘスペラス号は、予定の20日に出航することは出来なかった。

またしてもあいにくの嵐で、すべての船舶は港を1歩も出られなかったからだ。

それでも流石に補給が尽きることが懸念され、クリスマス休暇が終わった26日、1週間前倒しで船は灯台に向かっていた。

この日も穏やかに凪いだ日で、海は遠くまで見渡せた。

船着場にはボートしか接岸できないためヘスペラス号は沖に停泊し、ジム・ハーヴィー船長はいつもどおり双眼鏡で灯台の様子を観察した。

ところが島の様子がおかしい。

いつもなら入り口のポールに歓迎を意味する旗が掲げられ、3人の灯台守たちが荷揚げクレーンのそばで帽子を振って挨拶してくれる。

それが今日はだれもいず、閑散としているのだ。

ハーヴィーは合図の汽笛を鳴らし、それでも返事がなかったため大砲を撃った。

が、なんの反応もなく、人の気配もない。

「恐らく食中毒か、悪くしたらなにかの伝染病かも知れん。だれか調査に行ってくれないか?」

伝染病と聞いて船員のだれもが尻込みする中、交代要員3人のうちのジョセフ・ムーアが名乗りを上げた。

彼はトーマスやジェームズとは知り合いで、特にウィリアムと懇意だったからだ。


 勇気あるムーアはたった1人で上陸し、施錠はされていないものの、きちんと閉ざされた門と入り口を抜けて施設内に入って行った。

灯台灯のフレネル・レンズはきれいに磨かれていて、争った跡や病気で苦しんだ様子もなく、ねじ巻き式の置時計が止まり、ベッド・メイクが少し乱れていたくらいでなんの問題もない。

ジョセフ・ムーアが手旗信号でそれを報告すると、ジム・ハーヴィー船長が自ら調査のためにやってきた。

さっそく手分けして、トーマス・マーシャル、ウィリアム・マッカーサー、ジェームズ・デュカットの捜索が始まったが3人の行方はわからず、ただ、ウィリアムのオイル・スキンだけが残されていた。

このことから、トーマスとジェームズが雨の中に出て行ったことが想像でき、2人は運悪く波にさらわれ、それを見たウィリアムが助けようとオイル・スキンを着るまもなく飛び出して行き、ともに海に没したのではないかという憶測が成り立つのだ。

ハーヴィーはそれをそのまま報告し、北方灯台委員会はそれを受け、最高責任者ロバート・ミュアヘッドが実際に島に行って調査書を作成している。


『彼らは12月15日土曜日夕食時まで勤務していた。海抜約110フィート(34メートル)の岩の隙間に固定されていた、係留ロープや接岸ロープなどが保管されている箱を波から確保するために降りた時、大波が岩の表面を駆け上がって彼らよりも高く行き、そして巨大な力で降り、彼らを完全に葬り去ったということである』

この結論づけは当時の人々を大いに納得させるもので、特に『彼らは12月15日土曜日夕食時まで勤務していた』という部分は多くの同情を引いた。

と、いうのは最初に灯台の調査に当たったジョセフ・ムーアも、彼自身の報告書の中でこう記述して、3人の真摯な勤務ぶりを伝えているからだ。

『台所用品はすべてとてもきれいで、これは彼らが立ち去ったのが夕食後しばらくであったことを示している』


 この大暴風の痕跡は滅多にないくらいすさまじいもので、それはすべて島の西側に集中していた。

ロバート・ミュアヘッドも記述している、海抜110フィート(34メートル)の岩陰に保管してあった大きな道具箱の類はすべて破壊されて投げ出され、海抜200フィート(60メートル)の芝土は33フィート(10メートル)にわたって滅茶苦茶に引き剥がされ、堅固な手すりはゆがんで折れ曲がり、物資を運ぶトロッコの鉄路は強大な力によってコンクリートからもぎ取られていた。

さらに1トンを越える岩が小石を転がすように押しのけられていたのだ。

そして奇妙なことに東側は道具箱の破片やクレーンのロープなどが散らばるだけで、大した破壊の跡はなかった。

島は東と西できれいに分けられたように、様相が異なっていたのだ。


               8


「おお、信号だ。え~っと、じょう……せん……を、きょ……か? お、おう、『乗船を許可する』と言っとるぞっ。さぁ、ジェームズ、急げ。ボートを降ろすんだ。ヘスペラスに乗り移るぞっ。ああ、クレーンがなんとか無事で本当に良かった。おい、おおい、ウィリアム、船が来たぞ~」

普段の彼にはあり得ないくらいの、今にも踊りだしそうな弾んだ言葉だ。

まるで天使に導かれて天国に至ったような喜びに、ジェームズ・デュカットも歓声を上げて全力を振り絞る。

クレーンがキリキリと軋みながら、波止場にボートを降ろして行く。

その音が意外に甲高く響いてウィリアム・マッカーサーの耳に届いた。

肉を切り分けながら、彼が不審げに首をかしげる。

「はて……?」

嫌な予感がする。

食事作りの手をとめて、わざわざ出入り口から辺りを見回す。

まだ降り続く雨と霧で見通しは悪いものの、風は穏やかで、高いうねりもやがて収まるだろう。

確かに好天の兆しは見えていた。


「おおい~。ウィリアム」

トーマス・マーシャルの呼び声にハッと硬直する。

悪い予感が的中した気がして、取るものもとりあえず船着場に走り寄る。

波止場にはすでにボートが降ろされていて、トーマスとジェームズが笑顔で手を振るが、波は未だに荒く、さらに恐ろしいことに彼らが船を出そうとする先にはなにも見えないのだ。

「よせっ、ダメだっ。トーマス、正気にもどれっ。ジェームズ、彼をとめるんだっ。なにをしているっ」

言う間にもボートは嵐の名残の強い引き波に引かれて岸を離れ、うねりに木の葉のように揉まれながらキリキリ舞を始める。

2人が必死にオールを漕ぐも、こうなったら転覆か座礁か沈没か、とにかく人間の力ではどうすることも出来ないのだ。

ウィリアムはとっさにクレーンのロープを引き降し、滑車を結びつけて投げる。

錘があれば綱は思い通りの場所に正確に届く。

「頼むっ。ロープをつかんでくれっ、おおいっ」

滑車は狙いたがわずボートのへさきに落ちているのに、彼らは拾おうともしない。

あらぬ沖に向かって狂人のように手を振り回し、嬉々としてわめきたてるばかりだ。

あたかもそこにヘスペラス号の船影が見えるかのような、確信的な行動だった。

足場の悪い磯伝いをウィリアムも狂ったようにボートを追い、ついに足を滑らせて海に落ち込んだ。

オイル・スキンすら着込んでいない体の動きを氷点下の潮水が阻害してくる。

「お、おい、ど、どこを……見て、る。ロープ、を……」

かすれたその声がどこまで届いたかはわからない。

くぐもった重い潮のつぶやきの向こうに、狂喜する魔物どもの喝采を聞いた気がした。

「ひゃあぁぁぁはぁ~ふふぅわぁぁあ~はぁはははわわぉ~ぅがぁはっはぁぁ~ああおおぉぉ~ん」


               9


 本当に嵐はあったのだろうか?

彼ら3人が約6日にわたって戦い悩まされ続けた大嵐は、本当に現実のことだったのか?

12月15日、最初にアイリーン・モア灯台の異変に気づいた貨客汽船アーチャー号をはじめ、近隣を航行したどの船長も嵐などなかった、としているのだ。

12月とは思えない良い日和が続いていて、近年にない静かで穏やかな海だったと、だれもが口をそろえる現実。

このつじつまを合わせるために、トーマス・マーシャルの業務日誌は偽物とする説すらあり、それを支持する人々もいるほどだ。


 このフラナン諸島のあたりは低気圧の通り道になっていて、冬場は台風坊主のような嵐がひんぱんに過ぎていくが、古来『嵐は2日』と言われるように長続きはしない。

足掛け6日も続くなどということは、例年にはないことだ。

それでも、仮説は成り立つ。

前線によって次々に形成された積乱雲は西風によって移動するが、たとえば最近話題の『線状降水帯』のように途切れることなく連なったしたら、暴風雨は2日ではやまない。

そしてその雲の中に短時間かつ強力な『ダウン・バースト』が発生したとしたら?

『ダウン・バースト』は局地的で暴力的な下降気流で、航空機を吹き落としたり、扇面状に吹き抜けて災害級の被害をもたらすもので、わずか4キロ以下の『マイクロ・バースト』といわれるものも少なくない。

トーマス・マーシャルが体験した通常ありえない真上からの風が、たまたま通過していた『ダウン・バースト』だとしたら、それは異常体験ではなく希少体験をしたということになる。

また、嵐の痕跡が西側にしかないということは、バーストの凶暴な風が扇状に西側に吹き抜けた裏づけになるだろう。


 やはり、暴風雨はあったのだ。

ただ、それが非常に限られた狭い範囲であったため、付近を通過していた船舶には好天続きとしか感じられなかったのではないだろうか?

海上はとても見通しが良いように思えるが、その実、渚から見る水平線は4~5キロ先であり、通常の船では10キロかせいぜい16キロ程度だという。

気象変化が局地的な場合、「こっちはドシャ降りなのに20メータ先はピーカン」などという現象は、我々もゲリラ豪雨などで経験しているところのものだ。

その気象現象が数キロ単位で起こったとしたら、3人の灯台員と近海を航行していた船長たちとの言い分は当然、違ったものになってくるはずだ。


 それでも3人もの人間が跡形もなく失踪し、死体すら上がらない事件はスコットランドのみならず、イギリス中の関心を集めることとなっていた。

そうでなくともミステリー好きの彼らは様々な憶測を取りざたし、この出来事を『アイリーン・モア灯台の謎』と名付けて推理や考察の対象としたのだ。

その中には現代人にはおよそ考えられないような大海蛇説や悪霊の連れ去り、政府のスパイによる拉致監禁、閉鎖環境での発狂による仲間割れ、灯台業務に嫌気がさしての逃走などがまことしやかに語られている。

1912年、ある作家によって残されたバラッド(抒情詩)には、

『そして、ぼくたちがやって来てドアを抜けた時

 ただ見たのはテーブルの広がり

 夕食の肉、チーズ、パン

 すべてが手付かずで、だれもいない

 まるで、彼らが食卓についた時

 味わうより前に緊急警報が鳴り

 彼らはすべてを残して立ち上がり

 テーブルの頭では、イスが1つ転がっていた』

と、見てきたようなウソが書かれているのだ。

一番最初に島に乗り込んだジョセフ・ムーアの『台所用品はすべてとてもきれいで、これは彼らが立ち去ったのが夕食後しばらくであったことを示している』という明快な記述があるにもかかわらず……。


 真実を伝えることの難しさは、世間の人々の野次馬根性に翻弄され、ゆがめられ、よりセンセーショナルな方向へと流動して行くことにある。

上記の様々な憶測を見るまでもなく、気象現象としての大暴風は気象学的説明がついても、大衆の求める事件の真相は決して事実・真実を希求するものではない場合があるのだ。

特に『~の謎』などとミステリー風味がつくと、途端に謎解きが人々の関心事になり、より複雑で難解で扇情的な事象が無意識のうちに作り出されてしまう。

笑ってしまうようなマンガティックな話が面白さゆえに興味を引き、人々の口の端に昇るうちに尾ひれがついて一人歩きして行くことは、現代の口裂け女やトイレの花子さん、小さなオジサンなどにも共通するものがある。

謎が謎を呼ぶ人間心理の謎。

これらをもし、トーマス・マーシャル、ウィリアム・マッカーサー、ジェームズ・デュカットらが知ったとしたら、当事者の彼らは果たしてどのように感じるのだろうか……?


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アイリーン・モア灯台の謎(本当に海は荒れていたのか?) 上松 煌(うえまつ あきら) @akira4256

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