第8話 Survivor(4)

 ひとりで歩くには、まだリハビリが必要だった。

 その日も藤巻謙治郎は、病院内にあるリハビリ室へと車椅子で向かい、リハビリ室内では歩行器を使って歩く練習を繰り返していた。


 主治医によれば、驚異的な回復力だという。普通の人であれば、まだ寝たきりであり歩くことどころか立ち上がることも難しいはずだといわれた。

 すでにひとりで立ち上がるということは出来るようになっていた。立ち上がるというと脚の筋肉を意識しなければならないというのが普通の考えであるが、古武術の稽古を長年やり続けてきていた藤巻の考え方は違っていた。骨を整えるのである。立ち上がる際は骨を意識して、足の踵の上に膝から下の骨を乗せ、その上に骨盤を乗せる。あとは背骨を意識し、最後に頭を乗せる。こうすることによって、筋肉を使わずとも簡単に立ち上がることが出来るのだ。

 これは古武術の世界では常識的なことなのだが、西洋医学が中心となった現代医療の現場では意味不明の絵空事のように捉えられていた。そのため、藤巻の言葉を誰も信用しようとはしなかった。しかし、藤巻はまだ立ち上がるのは無理だという医師たちの言葉に反して、いとも簡単に立ち上がるということをやって見せたのだった。


 藤巻が自分で立ち上がれるということを見せたことによって、藤巻のリハビリスケジュールは大幅に変更された。当初予定されていた起き上がる、立ち上がるといったリハビリはすべてスキップされ、歩行訓練のフェーズへと移行されたのだ。

 藤巻はリハビリ室でひとり、リハビリに励む毎日を送った。早くひとりで歩けるようになりたい。その気持ちもあったが、何よりも誰か人に会いたいという気持ちもあったのだ。


 未だに藤巻は隔離された状態であった。看護は看護ロボットがすべて行っており、主治医である篠原さくらともタブレット端末を使ったビデオ通話でしか会話をしたことはなく、この病院に入ってからは誰とも顔を合わせたことはなかった。

 リハビリ室も藤巻がリハビリにやってくる時は無人であった。藤巻がリハビリを行うのを手助けするのはすべてロボットであり、藤巻がリハビリしている様子はすべてロボットを通してリハビリ担当医が見て、ロボットを通して指示を出したりして来ていた。

 はやく生身の人間と会話をしたい。その気持ちが、藤巻のリハビリをする精神力の糧となっているといっても過言ではなかった。

 その日も、藤巻は歩行器を使った歩行訓練を行い、驚くべき回復力だと担当医たちを驚かせていた。


 ドンという衝撃音と共に、建物が大きく揺れた。

 それは立っていられなくなるほどの揺れであり、藤巻は慌ててリハビリ用の歩行器から手を離した。歩行器の足の部分には車輪がついており、揺れに合わせて右へ左へと勝手に動いている。


「地震か?」


 藤巻は独り言を呟きながら近くにある壁まで、ゆっくりと歩いた。

 一人で立つことは出来るのだが、まだ歩くのは無理だという話をリハビリ担当医にされたばかりだった。

 しかし、藤巻は歩いていた。ゆっくりではあるが、一歩一歩確実にリハビリ室の床を踏みしめるようにして歩いた。火事場の馬鹿力というやつなのだろうか。

 何かが倒れる音がした。振り返ると、先ほどまで藤巻が使っていたリハビリ用の歩行器が横倒しになっており、天井からは鉄製の大きなパイプのようなものが垂れ下がっている状態となっていた。

 もし、藤巻がまだ歩行器と一緒にいたら、あの鉄パイプによって押しつぶされてしまったかもしれない。

 そのことを想像し、藤巻は顔から血の気を引かせた。

 緊急の館内放送が流れた。入院患者、病院スタッフは直ちに建物の安全な場所に避難するようにとの指示が伝えられている。

 安全な場所とは何処なのだろうか。それが藤巻にはわからなかった。長いこと入院をしているが、病院内は自分の病室とリハビリ室の往復しかしたことがなかった。


 再び強い揺れに襲われた。今度は強い縦揺れだ。

 藤巻はすぐ近くにあった手すりに掴まり、揺れが収まるのをじっと待った。

 突然ブザーのような音が鳴り響き、リハビリ室のドアが開け放たれた。

 誰かが助けに来てくれたのかと思い、藤巻は安堵の表情を浮かべてそちらへと視線を送ったが、そこには誰もいなかった。

 どうやら、大きな揺れなどを感知すると自動的にドアが開くような仕組みになっており、それが作動しただけだったようだ。

 揺れが収まるのを待って、藤巻はゆっくりながらも歩き、リハビリ室を出た。


 廊下には、誰もいなかった。

 何かが燃えているような焦げ臭さが漂っている。

 火事でも起きているのだろうか。藤巻は最悪のシナリオを想定しながら動いた。

 リハビリ室を出て、廊下を左に折れたところに受付がある。それは自動運転の車椅子に乗って、ここへ来る際に通ってきた道だからわかっていた。

 ガラス張りになっている受付の中を覗いてみたが、やはりここにも誰もいなかった。

 普段看護師が使っていると思われるパソコンのモニターには、黒い画面に緑色の文字で『Emergency』とだけ表示されている。

 一体、何が起きているというのだろうか。


 藤巻は誰もいなくなった受付の脇を通り抜け、非常口と書かれた矢印の方向へと進むことにした。

 矢印に従って進んでいくと、階段があった。しかし、階段の下からは黒い煙が吹き上げてきている。どうやら、火災は下の階で発生しているようだ。

 藤巻は入院着の袖で口を押さえながら、別の非常口を探すために移動をした。

 全身からは汗が噴き出していた。こんなに歩いたのはいつぶりだろうか。長い入院生活では、ほとんど寝たきり状態だった。そして、ようやく歩くためのリハビリがはじまったと思ったら、この状況だ。藤巻は汗を拭きながら、手すりにつかまって移動を続けた。

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