川沿い





和夫と優子の出会いは、大学の体育の授業。


科目はテニスだった。


あとで考えると互いに一目惚れだったが、最初はともに別の相手と男女ペアを組んだ。


だからはじめてダブルスのペアを組んだのは、5回目の授業のとき。


桜はもう散っていた。


でもその日、テニスの授業が終わって、和夫は数理解析、優子はミクロ経済学の教室へ行く途中まで、あれこれ話した。


LINEを交換してほしいと頼んだのは、和夫の方。


優子は快く教えた。


だが、そこからの道のりは意外と長かった。


2人とも早く彼氏・彼女の関係になりたいはずなのに、なぜか断ってしまったり、勇気が出なかったり、ちょうど信号が青になったり。


付き合うまでに9ケ月かかった。


付き合った1週間後が、バレンタインだった。


優子は並んで買った伊勢丹のチョコをプレゼント。


和夫は、チョコの入った紙袋を右手で持ち、左手は優子の手を握る。


そしてこのまま、夜の東京を一生歩いていたいと思った。


同棲するようになったのは、自然な流れ。


木造ボロアパートの2階。


広さは2DKで、どんなに仲が良くても1人だけの時間も持ちたい2人にぴったり。


確かに築年数は古かった。


でも、昔の流行歌に出てくる川が窓の下を流れて、とても風情があった。


ただ、契約するときに問題となったのが保証人。


同棲することは、2人ともまだ両親に伝えていなかった。


親のすねをかじっている学生のくせに。


そう言われるに決まっているからだ。


結局、女友達と一緒に住むからと優子が自分の親にウソをついて、保証人になってもらった。


引っ越した最初の晩。


ピカピカとは言いがたいけど、2人だけの城。


ここから自分たちの人生が始まる気がして、2人ともなんだか照れた。


しかし、1週間後の真夜中。


和夫は優子にゆり起こされた。


「なんか……聞こえない?」


耳をすませたが、部屋はしんとしている。


「なにも聞こえないけど」


「ほら」


再び耳をすませると、確かに音が。


廊下の辺りから、ピチャピチャと水滴の落ちるような音がするのだ。


その音は、だんだん近づいてくる。


自分たちの部屋の前でピタッと止まった。


思わず和夫は優子の手を握りしめる。


五分ほど経過しただろうか。


音はしなくなった。


聞くと、優子は引っ越し初日からあの音を聞いているのだという。


「毎晩?」


和夫が尋ねると、優子はおびえた目でうなずいた。


翌日の夜も、あの音がした。


次の夜も。


音は階段を上がったあたりから始まって、ゆっくり近づいてくる。


水滴の垂れる音と同時に、廊下をすっているような音も聞こえる。


なにかを引きずっているような。


その次の夜、和夫は音が部屋の前で止まったときに、思いきってドアを開けた。


ひょっとすると、びしょ濡れのノラ犬が入りこんでいるのかもしれないと思ったのだ。


しかし、なにもいなかった。


「いやぁぁぁぁーーーー!」


背後で絶叫がした。


優子だった。廊下を指さしている。


見ると、階段のあたりから自分たちの部屋のドア前まで、水の線ができていた。


それ以後だろうか、優子の様子がおかしくなった。


突然、泣き出したり、笑い出したり、そうかと思えば、自分の指に噛みついたり。


しゃべっている内容も支離滅裂というか、ちょっとしたことで火がついたように怒り出したりした。


情緒不安定な彼女に振り回され、和夫も頭が変になりそうだった。


再度の引っ越しも考えたが、さすがにお金がない。


だがある日、優子が2階の窓から飛び降りた。


幸い、足の骨折ですんだが、もし窓の下に流れる川まで転がっていたら、それだけではすまなかったに違いない。


黙っているわけにもいかず、優子の親へ連絡した。


治療費のこともあった。


田舎から飛んできた優子の両親の怒りは当然。


和夫は平身低頭して謝ったが、許してもらえるはずがない。


ウソをついただけでなく、「大事な1人娘にケガをさせた男」と思われたのだから。


優子は大学を休学し、田舎へつれもどされることになった。


新幹線へ乗りこむとき、松葉杖をついた優子は振り返りもしなかった。


がらんとなったボロアパート。


運良く県人会の寮に空きが出て、和夫は移れることになった。


引っ越しの日になり、ダンボールを下へ運んでいると、廊下をはさんだ、向かいの部屋のドアがうっすら開いた。


その部屋に住んでいる「麻生さん」という老婆だった。


70〜80歳くらいか、薄ら笑いを浮かべて、相手を見下したようなしゃべり方をする人。


和夫は引っ越した初日に、粗品のタオルを持参して挨拶したきり、なんとなくさけていた。


しかし顔を合わせるのも、もう最後。


「お世話になりました。引っ越すことになりまして」


軽く頭を下げた。


するとドアがキーと開けられて、「麻生さん」が出てきた。


「あら、こないだ引っ越してきたばかりじゃなかった?」


「一緒に住んでた彼女の具合が悪くなったんです。で、仕方なく」


「若くて貧乏だと、すぐストレスがたまるのよね」


自分だってボロアパートに住んでる身だろうが、というセリフがのどまで出かかったが、ふと聞いてみた。


「たまに真夜中、水がポタポタ垂れてるような音が聞こえません?」


「聞こえるね」


驚いたことに、「麻生さん」はそう答えた。


「え? あれ、なんの音ですか?」


「さあね。でも、あんたたちの前に住んでたカップルも、1ヶ月もたなかったね」


そして、「このアパートの大家から聞いたのだが」と断りを入れて、こんな話をした。


昔々、地主の息子に恋をした女がいた。


愛し合った結果として、女は妊娠した。


しかし地主は2人の結婚を認めず、手切金を女の前に積んだ。


受けとる気はなかったが、勘当をチラつかされた息子の方が弱気になる。


これまでどおりの甘ったれた暮らしができなくなる、そう考えた息子は、女の腹をけり、流産させようとした。


その場は周りの人が止めてくれたが、女は生まれてくる子供の不幸な人生を予感して、寒い冬の日、冷たい川に腰までつかって流産させた。


女は金をうけとり、その金でアパートを建てたという。


「たぶん、赤子が川からはい出てきたんじゃない?」


そう言って「麻生さん」はケタケタ笑った。





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