一度きり(男性)
🔴その女とは一度きりのつもりだった。
ある夜。
友人と飲んだ帰り。
昭人は帰りの電車へ乗る前に、さっぱりしたものを食べたくなった。
居酒屋で油っこいものを食べすぎたせいだろうか。
駅前のスーパーへ寄った。
簡単に食べられて、口の中がさわやかになりそうなものを探す。
カット・フルーツの盛り合わせがあれば。
フルーツ売場を探し、ああ、あそこか、あそこか、と足を向ける。
一人の女性の姿が目に入った。
どのグレープフルーツにしようかと、悩んでいる様子。
白いセーターと茶色のロングスカート。
リュックを背負っている。
キレイな顔立ちだが、派手ではない。
いかにもキャリアウーマンといった感じ。
声をかけた。
「すみません。かわいいですね」
「はい?」
「いや、あなたじゃなくて、そのグレープフルーツ。ピンクがかってて、シナモンみたいだ。『シナモン』って知ってます? キャラクターの。オレ、見た目によらず、シナモン・グッズ集めてて……」
いつものやり方だった。
女のあっけにとられた表情を、無視するかのようにしゃべり続ける。
内容など適当だ。
しかし、昭人は自分のしゃべりがまあまあうまいと思いこんでいた。
たとえ勘違いであっても、自信はときに押しの強さにつながる。
困った顔をしながらも、相手の女が耳をかたむけているのを昭人は感じた。
しかし、ダメそうな気配も察知する。
スーパーで買物している客たちが、店内でナンパしている昭人へ不審そうな視線を向けてくるのだ。
もちろん、ナンパされている女の方へも。
実際、居心地の悪さを感じたのだろう、女はこう言って横を向いた。
「お店の中で、やめてください」
「だったら、外へ行きましょ。お茶でもおごりますよ」
切り返す。
さあ、相手はどう出るか。
女は少し考えて、「5分たったら、どっか行ってくださいね」と答えた。
バーか居酒屋へ入ろうと考えていたが、夜風が涼しかったので、路上で飲むことになった。
女はコンビニの棚からハイボールをとった。
ガードレールにもたれ、いろんな話をする。
仕事のこと、遊びのこと、恋愛のこと。
話しながら、相手が何を考えているか読みとろうとして、瞳の奥をのぞきこんだが、そのたびに女に目をそらされた。
しかし、家の場所を聞くと、「すぐ近く」と女は答える。
むしろ女から「来る?」と聞かれた。
あとはもうベルトコンベヤーに乗ったみたいなものだった。
一度きりのつもり。
女にもそう思ってほしくて、「彼女を作る気はない」とはっきり言った。
でも女のマンションからの帰り道、「そういえば、あの子の声って、オレの好きなタイプだよな」と、ふと思った。
鈴の鳴るような声。
リンリン。
翌日、ラインを送った。
スーパーでナンパしてきた男を、彼女がどう思ったかを知りたかったのだ。
だがブロックされていた。
いつもだったら、ここで終わっていたし、終わらせていた。
でも、もう一度だけなら、会ってもいいと思った。
最寄り駅で待った。
自宅の場所はわかってるけど、家まで行ったら完全に危ないヤツ。
でも、一度は体の関係があるのだから、最寄り駅で待つぐらいは許されるだろう。
ほんの少し声をかけて、反応がしぶかったら、それで終わりにしよう。
心のどこかで、昭人自身、終わることを望んでいたのかもしれない。
だが女は、彼の顔を見た瞬間、耳を真っ赤に染めた。
2人は付き合うことになった。
しかし、昭人は昭人。
なにも変わらない。
エリート証券マンの彼に言い寄ってくる人間は多い。
彼女への態度が徐々に雑になる。
自分でもわかっている。
最近、怒ってばっかだな、と。
と同時に、なにが悪い、とも思う。
あるとき、妊娠を告げられた。
過去にも、別の女に告げられたことがあった。
相手は女子大生だった。
そのとき昭人は、自分の意見を正直に言った。
するとその女子大生は泣きわめき、物を投げつけてきて、さらに道路へ出て騒いだ。
その狂気じみた態度を見て、なんとしてでもおろさせなければと彼は思ったものだ。
だから今回も正直に言った。
「おろせ」と。
女は「わかった」と言って、それ以上はなにもなかった。
ホッとした。
しかし、その日から女の態度が変わった。
重くなったのだ。
向けられる目、話される内容、後姿まで、すべてが黒い靄につつまれたようにどんよりしていた。
別れ時。
そう思った。
だが、堕胎した直後の女を捨てるのは、さすがに気が引ける。
徐々に離れる方法を選んだ。
まるで緑だった芝生が、少しずつ枯れていくように。
女は気づいてないように見えた。
中絶のショックがまだ尾をひいて、殻に閉じこもっているのだと思った。
時間がかかるかもしれない。
そんな気がした。
だから職場である高層ビル51階へ、女が髪を振りみだして乗りこんできたとき、昭人は硬直した。
彼がこの世で最後に見た光景。
それは、自分の胸に深々と突き刺さった包丁だった。
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