一度きり(女性)
🔴その男とは一度きりのつもりだった。
深夜のスーパーで、声をかけてきた男。
彩子はフルーツを買おうとしていた。
IT企業で働く彼女は、どちらかと言うと、朝が苦手。
ただ朝食は食べないまでも、フルーツは口に入れるようにしている。
先週はシャイン・マスカットだったから、今週はグレープフルーツにしようかな。
そんなことを考えながら、フルーツ売場を何となく眺めていたときだった。
「かわいいですね」
「はい?」
「いや、あなたじゃなくて、そのグレープフルーツ。ピンクがかってて、シナモンみたいだ。『シナモン』って知ってます? キャラクターの。オレ、見た目によらず、シナモン・グッズ集めてて……」
スラリとした体。
肌がキレイ。
悪くはない。
一瞬だけ、そう思った。
男は聞かれもしないのに、まるで空気の読めない美容師のように話しかけてきた。
深夜のスーパーとはいえ、会社帰りのサラリーマンやOL、学生カップルなどが買物中だ。
周りを気にせずナンパする男を、不審げにチラチラ見ている。
当然、ナンパされている彩子の方も。
「お店の中で、やめてください」
彩子がか細い声で言うと、男はこう切り返してきた。
「だったら外へ行きましょ。お茶でも飲みませんか?」
男についていったのは、スーパーというごくごくありふれた空間で、極めて非常識な誘い方をされたからだろうか。
お茶のつもりだったが、彩子はいつのまにかアルコールを頼んでいた。
自宅へ招いたのは、むしろ彩子の方。
もちろん一度きり。
男自身、こう言っていた。
「オレは彼女を作る気はない。付き合っても、どうせ悲しませちまうし。お互いにいいと思った。それだけでいいじゃん」
だから男が帰ったあと、彩子はLINEをブロックした。
しかし、3日後。
駅の改札を出て、横断歩道で信号待ちをしているときに、また会った。
待ち伏せしていたのか、とは聞けなかった。
男は前回と同じようにペラペラしゃべり、彩子も平然と返した。
その夜、彩子は思いがけない言葉を聞く。
「ちゃんと付き合いたい。彼女になってくれ。『Yes』は?」
「考えとく」
こぼれそうになる笑みを、彩子は懸命にこらえた。
沼ったのは、いつまでも「Yes」の返事をしなかったからかもしれない。
はたから見れば完全に付き合っていたが、彩子は「こいつは彼氏ではない」と何度も自分に言い聞かせた。
そうすると、なぜか興奮した。
激しいケンカをしたあとも、いつも興奮する。
彩子は自分の言い分が認められないとかんしゃくを起こし、しょっちゅう家を飛び出した。
期待に反し、たいていの場合、男に放っておかれた。
わめきながら戻ると、いきなりベッドに押し倒され、口をふさがれた。
物理的な意味でも、別の意味でも。
男の胸の下で感じたもの。
彩子はそれを愛だと感じた。
ほころびが生じたのは、男に「おろせ」と言われたとき。
彩子も覚悟はしていたつもりだったが、実際に体内に生命を宿すとあきらめきれなかった。
なんとかして男に「Yes」を言わせようとした。
しかし男は、最後までその言葉を吐かなかった。
中絶。
男は付きそいもしなかったし、金も出さなかった。
それでもいい。
彩子はそう思っていた。
だが手術が終わり、医者にどうしてもと頼みこんで、ビニール袋に入った胎児を見せてもらったとき、自分でも気づかないうちに「違う! 違う!」と叫んでいた。
別の展開もありえたかもしれない。
もし男が彼女に寄りそっていたら。
しかし、男は離れていこうとした。
その、ほんのわずかな最初の気配を感じとったときに、彩子の心にわき上がったもの。
奇妙なことだが、それは「独占欲」と呼べるものだったかもしれない。
1日、連絡がとれない。
3日、連絡がとれない。
5日、連絡がとれない。
1週間、連絡がとれない。
自宅へ押しかけ、インターホンを連打する。
それでも、出てこない。
朝まで待って、出勤する男をマンション前でつかまえた。
横には、見知らぬ若い女。
男はコソコソするどころか、彩子へ罵声をあびせ、アスファルトの上を引きずりまわした。
道端でハッと目が覚めたとき、男はもういなかった。
彩子は血だらけの足で電車に乗り、男の職場である高層ビルへ向かった。
血のついた服を着て、髪を振り乱した女がエントランスから走りこんできたのを見て、ギョッとしたサラリーマンもいたに違いない。
高速エレベーターが51階に着き、ドアが開く。
彩子の手に握られていたのは、刃渡り20cmの包丁。
男へ料理を作ってあげようと買いこみ、一度も使われることなくしまわれていたもの。
昨晩、家を出るときバッグへ入れた。
暴力を振るわれるかもしれなかったから。
実際、彩子は血だらけになっている。
今こそ使え。
おろしたての包丁を。
彩子はどこか現実味のない意識のまま、フロアを走り回り、男を見つけ出した。
はるか下からサイレン音がかすかに響く中、その尖った先が男の胸に突き刺さった。
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