第96話 Double Sin 5
濃密なムスクの残り香が、愛の脳裏に、麻生の酷薄の顔を思い浮かばせた。思い出した恐怖に身震いが出る。
「ラブさん、上に何か羽織るものでも持ってきましょうか」
愛の震えを、肩が剥き出しになっているドレスを着ているせいかと勘違いした彩が、後ろから声を掛けた。
「大丈夫よ、彩ちゃん」
顔色が変わった愛には気づかず、オリーは呑気にエレベーターホールを見回している。
「なんか、ここ空気が悪くない?趣味の悪い香水かなぁ」
オリーがいつもの軽い調子でそう言いながら、手首をくるりと回すと、不思議と、ムスクの香りが消えて、空気が軽くなったような気がした。
「エレベーターが来たよ。さ、出陣!」
どこまでも陽気で捉えどころのないこの男は、吉原ではスマートな遊び方をする太客で知られているが、誰も素性を知らない。
ホテルの玄関に、リンカーンのリムジンが止まると、ドアマンがドアを開けて、愛たちが車に乗り終わるまで、頭を下げ続けた。このドアマンは、愛と彩が昨晩ホテルにタクシーで到着した時には、見向きもしなかったくせに、この態度はどうだ。オリーは、やっぱり貴族なんじゃないかという気がしてきた。
リムジンに乗り込むと、彩が革張りのソファーや、バーカウンターに歓声を上げた。品の良いベージュのレザーシートに、磨き上げられたシャンパングラスが、気後れしそうな豪華さを醸し出しているが、さも慣れたように愛はふるまった。
「ラブちゃん、景気づけにまずは、軽く乾杯しよう」
ドンペリニヨンのロゼのボトルを、オリーが慣れた手つきで開けて、シャンパングラスに注いでくれた。バーのイルミネーションを反射して、きらきらとしているフルートグラスの中で立ち上がるロゼの気泡を見ているうちに、愛の中でざわついていた感情がほぐれて、いつもの勝気な性格が戻って来た。ドンペリを一口飲んで、気軽な風を装って、オリーに訊ねる。
「オリー、今日は、忙しいのにありがとう。お仕事、大変なのに来てくれたんでしょ」
「仕事は好きでやっているから、全然大変とは思わないけど、うちの親分が酷くてねぇ。機嫌が悪いと直ぐに私たちを弾き飛ばしたり、切り刻んだりしようとするから、大変なんだよ。先代には、私の父親も、いまだに焼かれてるくらいだしね」
しまった、訊くんじゃなかった。しくじると飛ばされるとか、絶対に法の反対側の職業の人間だ。切られるとか焼かれるとか、どうやら、オリーはかなり激しい組織にいるらしい。皆が彼の素性を深堀りしなかった理由が分かり、愛は「知らぬが仏」と祖母が昔から口癖のように言う諺の意味を今更になって学習した気がした。彩も完全に目が泳いでしまっている。
「あ、到着したね」
オリーは、気にした風もなく、どこまでも呑気で、颯爽と車から降りて、愛をエスコートするために、手を差し出した。オリーの手を取ろうとする愛の手は、ショックで震えていた。
「武者震いだね、ラブちゃん。今日は吉原の記録を塗り替えて伝説を作るからね」
オリーの言葉に、愛は、今日にいたるまでの道のりを思い出した。ラインでの営業やデコレーションやスタッフの衣装の用意も全部自分でやってきたのだ。検非違使の麻生も、反社のオリーも関係ない。今日だけは、あたしが完璧なお姫様になるんだ。車から降りて、オリーにエスコートされて、常連客からの祝いのフラワースタンドが犇めいている店の前の階段を登る愛には、もう一切の迷いも恐れもなかった。
その夜、愛は、吉原の一夜の記録を塗り替える、一億五千万円を超える売り上げを叩き出した。オリーがドンペリのヴィンテージで七段のシャンパンタワーのオーダーを入れてくれたのが大きかったが、それぞれの客も、普段以上の金額を落としてくれた。これまでの努力が報われた気がして、愛は幸せなバースデーを過ごすことが出来た。その後も、当日は来れなかった客達がお詫びにと、プレゼントや花束を持ってきて、普段よりも高額な酒を頼んでくれたので、週の売り上げの記録も伸ばした。名実ともに、愛が吉原のキャバ嬢の女王になったと誰もが思った。
幸せな週と週末が終わった月曜日の早朝、愛の携帯が鳴った。二日酔いのせいで不機嫌になる愛に、震える声で祖母が、愛の母が未明に息を引き取ったことを告げた。
祖母の電話を受けてから、母の葬儀までの愛の記憶はぼやけていた。幸せの絶頂からの落差はあまりに激しく、母の身に起きた凄惨な事故が愛の中で受け入れ切れていなかった。母はひき逃げされた。犯人はいまだに捕まっていないという。猛スピードの車に数百メートルも引き摺られた後では、いつも明るく美人だと評判だった母の見る影はなかった。
葬儀の間中、愛は遺族席の後ろで、ぼんやりとしていた。葬儀は母の再婚相手が手配した葬儀会社が全て仕切ってくれたので、愛も祖父母も何もすることがなかった。葬儀の受付も、現在の住まいの近所に住む仲の良い主婦達が引き受けてくれて、まるで面識のない弔問客を見るにつけ、母が遠い世界に住んでいたように感じた。再婚相手は、愛と祖父に丁寧に挨拶をしてくれたが、二人の連れ子の義姉達は、愛が葬儀場に姿を見せると、愛の前にいた親戚の女性に話しかけるふりをして、わざとぶつかってきて、その後はまるで無視だ。
葬儀が滞りなく終わり、後は出棺を待つのみという時になって、数人の黒服のSPに囲まれた明らかに貴族と思われる恰幅の良い紳士が、遠目にも品の良さが分かる令嬢と共に現れた。遺族席の前で会釈をし、静かに焼香を済ませた二人に、愛の前に座っていた祖父母が駆け寄って行った。紳士と祖父母が何かを話した後に、顔をベールで覆った令嬢が綺麗な礼を祖父母にした。そして、遺族席に座る母の再婚相手と連れ子の姉たちにも同じような礼をすると、義父と義姉達が立ち上がり、媚びへつらうように頭を下げて礼を述べ始めた。
愛が遺族席の最後列で、ぼんやりとその様子を見ていると、祖父母が愛を手招きした。立ち上がるのも億劫で、ぼんやりとしたまま座っていると、令嬢が愛に向かって歩いてきた。
「愛さん、お久しぶり。この度は心よりお悔やみ申し上げます。落ち着いたら、必ず、我が家に立ち寄って頂けますか。何かお力になれることがあれば、いつでも仰ってね」
令嬢がそう言って、愛の手を握って来た。この声と時代劇のような話し方には覚えがある、そう愛が記憶を巡らせていると、一緒にいた紳士が、愛の肩を励ますように軽く摩ってくれた。
「伯爵、そろそろ出ませんと」
二人を取り囲むようにして、周りに立っていた男達のうちでリーダー格のような男が紳士に声を掛けると、二人は軽く頷き、また祖父母たちに会釈をして立ち去った。
愛は、頭の中が激しく混乱して、何が起きたのか理解が追い付いていなかった。あの紳士を黒いスーツの男が伯爵と呼んだ。伯爵ってどこかで聞いた気がする。どこだったんだろう。短い間にあまりにも色々なことが起き過ぎて、頭の中が全く整理できない。
落ち着こうと深呼吸していると、すぐに出棺が告げられて、愛たち遺族が火葬場に向かう時間になった。葬儀場を出て車に乗り込もうとしたところで、二人の男達が、愛に声をかけた。
「高村愛さん、この度はどうも」
振り向くと、刑事たちだった。売り上げの記録を塗り替えるのに必死で、約束した日に警察署に梶原の身元確認に行っていなかった。あれから五日も経っている。
「あの、今はちょっと見ての通りで。あたしのお母さんが事故にあって」
愛が説明しようとすると、深瀬が片手を上げて愛を制した。
「うちの管轄の話なんで、知ってますよ。こちらにも事情がありましてね。今すぐにでも、一緒に署に来て欲しいところですが、状況はお察ししていますから、明日の午前中に、必ず来てもらえますか」
深瀬が、そう言って愛が火葬場に行くのを許してくれた。あの失礼な刑事たちにも、一応、人の心はあったようだ。母の柩を運ぶ霊柩車の後を、祖父母と一緒に葬儀会社が手配してくれた車に乗ってついて行った。霊柩車のすぐ後の車には、母の再婚相手と姉二人が乗っていて、その後に、彼らの親族の乗った車、愛たちの車と続いて、まるで生前の母との距離のようだった。
火葬場の待合室で軽食とコーヒーが出されたが、普段なら寝ている時間の愛は全く食欲がわかず、静かに祖父母の横で座っていた。再婚相手と連れ子の姉たちは、僧侶や他の親族たちと話をしている。あと一時間か、遅くとも一時間半ほどで解放されるようなので、今日は店を休まなくて済みそうだ。我ながら、ろくでもない娘だなと愛は思ったが、高等科を卒業するまでは定期的に会っていた母だったが、最近では年に二回会う程度で、二人の生活にも、心の中にも距離があったと言うのが事実だ。ただ、すっかりと気落ちをしている祖父母を見るのはつらかった。
愛は思考を先刻の「伯爵」に戻して、今までの経緯を冷静に考えようとしていたが、隣に座っていたはずの祖父が、苛立ったように立ち上がって、母の再婚相手と口論を始めたので、それどころではなくなった。祖母と立ち上がって、祖父の腕をつかんで落ち着かそうとしたが、祖父は激高して、母の再婚相手に殴り掛からんという勢いだった。連れ子の姉の一人が、警察を呼ぶと携帯をかざして叫び出すと、葬儀で読経をしてくれた僧侶が、祖父と再婚相手の間に入ってくれた。
「貴方達は、自分がどういう日に諍いをしているのか分かっているのか。故人の魂の昇天を妨げるようなことは止めなさい」
再婚相手の家が檀家をしている寺の和尚らしく、義姉と親族が、頭を下げて詫びながら、再婚相手を部屋の反対側に引っ張っていった。愛も祖母と一緒に、祖父を座らせて、温かい紅茶を渡して落ち着かせようとした。学究肌な祖父は、いつも理知的で、アカデミックなディベートは好むが、声を荒げるようなことは今まで一度もなかったので、愛は祖父の激高した姿にショックを受けていた。僧侶に諭された後は、祖母と静かに紅茶を飲んでいた祖父をじっと見ていると、それに気がついた祖父が「愛の心配するようなことは何もない」と言って、目を逸らした。後で祖母に事情を訊くしかないようだ。
その後すぐに、母の骨上げをする時間を係員が知らせにきた。炉から出てきたお骨を入れた骨壺は、再婚相手の方に引き取られることになるようで、祖母は、こっそりと残った小さな骨をきれいな刺繍が入った白いハンカチに包んで自分のバッグにしまった。祖母の上品な趣味のハンカチを見て、愛の脳裏に何かがフラッシュバックした。
そうだ、あれは、速水凪子だ。あの時、綺麗な刺繍のハンカチを愛に手渡してくれた、あの女だ。直接話しかけられたのは、十年前の一回だけだったが、あの声と喋り方と所作は間違いなく、西都公達学園高等科で見た「完璧なお姫様」と呼ばれた速水凪子伯爵令嬢のものだった。
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