第95話 Double Sin 4
それから数日間、愛は恐怖のあまり、家から出られなかった。部屋から出るのも怖かった。警察に酷い取り調べを受けたショックではないかと憤慨した祖父母が、警察を訴えようとしたが、愛にとっては迷惑でしかない。今回のことで、愛側から何か動きがあれば、あの蛇のような男の耳に入るのは間違いない。もう二度とあいつには会いたくない。
愛が祖父母を止めると、今度は、心療内科を予約しようと言われたので、自分は大丈夫だということをアピールするために、ずっと休んでいた仕事に行くことにした。出社すると、受付でも、廊下でも、オフィスでも好奇の目に晒された。愛が警察署から戻った日の翌朝には、総務人事部から「事故」という通達が社内メールで本社の全社員に届いていたので、愛に対して同情を見せる社員がほとんどだった。それでも、井上や日野のように、愛に対して疑いを向ける者や、ただの好奇心で色々と訊きたがる野次馬も少なくなかったので、さすがに、いつもは注目を集めるのが好きな愛も、昼休みになる前には疲弊してしまった。
「愛ちゃん、大丈夫?早いけど、人が少ないうちに、お昼に行かない?塩屋部長もいいって言ってくれてるし」
良美が気を使って、早めのランチに誘ってくれた。良美が連れて行ってくれたのは、いつものランチに行く店のあるエリアよりも、少し歩いて表通りから奥に入ったカフェだったので、知っている顔に出くわすこともない。ずっと心の中で恩着せがましい不倫オバサンと馬鹿にしていた先輩の変わらぬ態度と細やかな気遣いに激しい罪悪感を感じた。
「良美さん、すみません」
「何が?」
「その、色々と気を使ってもらって」
「それだと、すみませんじゃなくて、ありがとうでしょ。愛ちゃんは何も悪くないんだから、謝ることもないって」
小柄な愛よりも更に小さいアラフィフの良美は、人のいい笑顔で答えた。愛の母と、そう年の変わらない良美だが、生き方は全く違う。良美は、部長の塩屋と何年も不倫関係にあるが、愛の母は愛が中学生になる前に再婚して、再婚相手と、連れ子の娘二人のいる家庭の主婦に収まっている。
「あの二人の話を真に受けている人は誰もいないから、気にしなくていいわよ。何かあれば、すぐに塩屋部長か総務人事に言えばいいし、組合でもいいし。亡くなった人の事は悪く言いたくないけど、中野さんって、事勿れ主義で、あの二人を放置し過ぎていたから、あそこまで増長したんだろうって、皆で話し合ってね。塩屋部長も、若い社員の離職率をどうにかしないとって真剣に思っていて、これからは、もっと働きやすい環境になるからね」
良美の話を聞きながら、事態は愛にとって、どれほど悪くないのではないかと安堵していた。
良美がお勧めというのでオーダーしたスモークサーモンとクリームチーズのカスクート が運ばれてきたので、話が一時中断した。近辺の食堂やカフェに精通している良美の言う通り、香ばしいバゲットにクリームチーズがよく合って美味しい。
「美味しいですね、ここのランチ。栗ちゃんにも教えてあげないと。そういえば、今日、彼女を見てないなぁ。お休みでした?」
「栗田さんは、今日は、あのプロジェクトの面接で帝都支社よ。松原君と梶原君もね」
良美の言葉を聞いて、さっきまでの愛の中のほんわりとした気持ちが、急速に硬質なものに変わっていった。自分が苦しんでいたというのに、さっさと出世の道を目指して帝都支社に行った同期の三人の態度は許せない。仲良し同期は、フリだけだったんだ、と愛の中で憎悪が膨らんでいった。そして、全員、面接なんか落ちてしまえばいいと心の中で、三人の失敗を願った。数日後、栗田と松原がプロジェクトメンバーに選ばれたという人事メールが本社の社員達に送られてきた。
その後、栗田の仕事が、同期で本社に残った梶原と愛に、松原の仕事は、和久田と一年先輩の社員に振り分けられた。同じ仕事をする上で、今まで以上に愛と梶原の話す機会が増えたことや、愛と梶原が、栗田と松原に会いたくないという理由で同期社員達の集まりを避け出したことも重なって、急速に二人の仲が進展していった。
数か月後、高村愛は、梶原と同棲を始めた。梶原は、背が高く手足の長いモデルのような体形だったので、会社ではかなり目立つ存在だった。女性社員には人気があったので、交際が始まった頃、愛は幸せだった。ところが、愛と同棲を始めて半年も経たない頃、梶原は突然会社を辞め、毎日、パチンコに出かけるか、家で飲んでいるかのどちらかというロクでもない男になってしまった。愛は、まだ同じ会社に勤めていたが、愛の給料だけで、アパートの家賃と二人分の生活費を捻出するのが、日に日に難しくなり、同僚達にランチや、飲み会に誘われても金欠で、毎回断っていたので、もう誘ってくれる人もいなくなっていた。
そんな時、駅前のスナックで、会社帰りに3時間ほどカウンターの後ろで水割りを作って出すだけの手伝い的な仕事をするつもりで時給の良い夜の仕事を始めた。ところが、持ち前の物おじしない明るい性格で、すぐに店の客の間で人気者になった愛に、ママが客商売に才能があると絶賛してくれ、時給がすぐに上がった。段々、夜の仕事の実入りの方が、昼の仕事の手取りよりも良くなっていったために、困窮生活から脱出するために、会社を辞めて、スナックの仕事時間を増やした。このころには、梶原は完全に愛のヒモのようになり、アルバイトを見つけようというフリさえしなくなっていた。
「あれから一年しか経っていないのに、何もかも全部変わっちゃった」
煙草を深く吸い込んで、手に持っていた赤いエナメルのヒールを思いっきり地面に叩きつけた。スナックのバイトから、更に時給の高い仕事を見つけようとした挙げ句がキャバクラだ。もう嫌だ。何で、あんな何の役にも立たない男のために、ここまで苦労をしているのか、意味が分からない。あいつを追い出す。あいつを自分の人生から、完全に切り捨てて、今日貰った報奨金で、きちんとした靴を買おう。嫌な気分にさせる安物のヒールを投げ捨てて、立ち上がった愛は、そのままの勢いで裸足でアパートに帰った。
その日、梶原はアパートに帰って来なかった。
その後も、梶原が作った借金返済のため、愛はキャバクラ勤務を続け、何か月も連続で指名とドリンクで首位をキープし、ナンバーワンキャストの座を不動にした。梶原は、相変わらず、アパートに帰る気配もなかったが、愛の中では既に終わった関係なので、姿を見せたら、荷物を引き取ってもらおう、くらいに考えていた。
今月は、愛の誕生日なので、自ら行方をくらました昔の男に割く時間はない。キャストのバースデーイベントは、店にとっても、キャバ嬢にとっても一番の稼ぎ時だ。イベント用のポスターやスタンド看板、案内などに使われる写真撮影や、当日の酒類のセレクトなどはもちろん、ボーイに着せる愛の写真をプリントしたTシャツや、オリジナルのデコレーションなどの確認など、愛は完璧な日にするために、全て自分で仕切った。客の数を呼ぶために3か月前から周到にご無沙汰になった客も含めて、ラインでのさりげない営業も続けてきた。当日の出張ヘアメイクも自腹で手配した。何人もの常連客がお花のデリバリーを約束してくれた。同伴は、単価の一番高いオリーに頼んだ。完璧だ。
帝都一の歓楽街吉原で、今一番勢いのあるキャバ嬢ラブのバースデーイベントだ。店側も一晩で億単位の売り上げを見込んでいる。当日は、全てのキャストはヘルプにまわる。絶対に完璧なバースデーになると愛は信じて疑わなかった。
当日は、この日のために宿泊していたホテルの部屋で出張ヘアメイクが髪とメイクを仕上げてくれた。胸元のビーズ刺繍が豪華なシャンパンゴールドのドレスに袖を通し、きちんと爪留めされたビジューの甲飾りのついたヒールを履くと、これまでにない自信がみなぎってくるように感じだ。
「ラブさん、すごい素敵。完璧なお姫様です」
出張ヘアメイクの彩の言葉が、愛のいつかの記憶を擦ったような感じがしたが、思い出そうとする前に、すぐに部屋のドアをノックする音に打ち消された。オリーが店側が手配したリムジンで迎えに来てくれたに違いない。
「オリーよ。ちょっと早くない?」
「めちゃくちゃ乗り気なんですよ」
彩と軽口をたたきながら、ドアを開けると、テーラーメイドの上質な上着の胸元に薔薇をつけた気障男ではなく、吊るしの背広を着た男が二人立っていた。
「高村愛さん、お久しぶり。ちょっと聞きたいことがあるんだけど、入らせてもらうよ」
あの刑事だ。千台警察署に愛を連行した深瀬と、もう一人、愛くらいの年齢の若い刑事の二人が立っていた。
「ちょっと待ってください。中野さんの事故のことで、今更、何なんですか。話すことなんかありません。今日は大事な日なんです。帰って下さい」
強引に入ろうとする深瀬を止めようとドアを押し返そうとするが、深瀬の隣にいた若い刑事が足をドア枠とドアの間に差し込んで愛を阻止した。
「高村さん、今日は、中野さんの事故ではなくて、あなたの交際相手の梶原さんのことです。今日の未明に、梶原さんと思われる遺体が見つかったんですよ。身元確認と、その後で、お話を伺えませんか」
「は?」
一瞬、深瀬が言ったことが理解できなかった。中野ではなく、梶原のことを聞きたいと言ったのか。いや、その前に、何かひどく恐ろしいことを言わなかったか。
「今、何て言いました?」
「梶原さんの遺体が見つかりました。身元確認をお願いします」
若い方の刑事が愛に向かって言った。
「い、嫌です。あたしは関係ありません。それに今から、あたしのバースデーイベントがあるんです。行けるわけがないでしょ」
「ああ、高村さん、あの会社を辞めて、今、吉原で一番人気のキャバ嬢なんでしたっけ?」
若い方の刑事が、小馬鹿にしたように言い、愛を苛立たせた。愛の後ろで彩が心配そうにオロオロとしているのが分かった。高級ホテルに似つかわしくない場違いな小競り合いをしていると、深瀬の後ろで、陽気なバリトンの声が響いた。
「ラブちゃん、ひどいなぁ。このオリーを迎えに呼んでおきながら、他の男を二人も部屋に呼ぶなんて、罪な女性だよねぇ」
しまった。オリーが来てしまった。
「オリー、これは、その、この人達はお客さんじゃなくて」
「うん、刑事さんでしょ。話は、後ろで聞かせてもらったんだけどね。あ、立ち聞きじゃないよ。貴方達、声が大きいから聞こえちゃってね。彼女の知り合いが遺体で見つかって身元確認してほしいって話でしょ。それ、絶対の絶対に今やらないと犯罪にでもなるのかな?」
突然現れた、いかにも上質なウールのスーツを着こなし、胸元に赤い薔薇をつけて、巨大なバラの花束を抱えた上背のある男に、何故か深瀬と原田も気おくれがする思いがした。全く殺気も何もなく、ただ、ニコニコと立っているだけの薔薇男に、熟練刑事の深瀬が圧倒されているのだ。原田に至っては恐怖さえ感じていたが、二人ともその理由が分からなかった。分からないだけに余計に恐怖が募ってくる。
「今、身元確認をして、ご遺体が蘇るのならともかく、今でも、半日後でも状況は大きく変わっちゃうのかなって聞いているんだけど」
薔薇男が首を傾げて、深瀬に返事を求めた。
「いえ、そういう訳ではありませんが」
「そうだよね。ご遺体が蘇っちゃったら、逆に大変だよね。じゃあ、一日だけ待ってあげてよ。今日、彼女、お誕生日で、せっかくおめかししているんだから、その辺りの事情は汲んであげてもいいよね」
薔薇男は、あくまでも笑顔だ。そして、愛の方を見て、続けた。
「ラブちゃん、明日はお疲れとは思うんだけど、刑事さんたちの面目もあるから、午後には、警察署に行ってあげてよ」
「はい」
「いい子だね。じゃ、そういうことなんで、今日のところは、二人とも引き取ってね?」
薔薇男がにっこりと笑ったかと思うと、二人は、ふわりとした風に包まれ、エレベーターの前まで押し返された。
「え?」
原田が狐につままれたような顔で、深瀬を見た。
「風の魔力だ。あの男、やっぱり貴族だったか」
帝都では、魔力持ちの貴族の数が、西都に比べて少ないため、一般市民が貴族に出くわす可能性が極めて低く、魔力に関する知識がほぼ皆無だ。深瀬は、西都の外れとは言え、公爵家の領地の出身だけに、祖父母や両親から聞いて四大魔力のことは知っていた。
「貴族が絡むと、検非違使が出て来るからな。そうなると厄介だから一旦、引くぞ」
「そうですね。あの薔薇男、明日には署に行くように高村愛に促してたし」
そう言いながら、二人の刑事は、上がって来たエレベーターに乗り込んだ。その数分後、同じエレベーターホールに、ヘアメイクを直してもらったゴージャスなドレス姿の愛が、薔薇男こと、太客のオリーと現れた。後ろにヘアメイクの彩もいる。
「ラブちゃん、その、刑事さん達との話の感じからして、もう終わった関係というのは分かるけど、お付き合いしていた人が亡くなったというのは、凄いショックだよね。もしも辛いようだったら、私からオーナーに伝えてあげるから、部屋で休んでる?」
オリーが心配そうに声をかけてくれたが、とんでもない。あの男のせいで、今まで、自分のものでもない借金を払い続けて、さんざん情けない思いもしたというのに、ここでイベントを取りやめたら、今までかかった経費が全て自分の借金になってしまう。死んでまで迷惑をかけられるのはごめんだ。
「オリー、ありがとう。でも、大丈夫だから。この数か月、あたしも店の皆も、本当に頑張って準備してきたから、今日は、皆をがっかりさせるわけにはいかないのよ」
「そうだね。じゃあ、帝都一のキャバ嬢のプロ根性を見せて、今日は、伝説を作るんだよ。私も協力は惜しまないから」
「ラブさん、頑張ってください」
オリーと彩の激励を笑顔で返す。今日だけは、あたしは完璧なお姫様だ。そう強く思う愛だったが、エレベーターホールに来た時に感じた不穏な何かが心の端に引っかかった。心の中に、滓のように沈んでいく、この重苦しい感覚。エレベーターを待っている間に、愛は、必死で思い出そうとした。
これは、あの男のオーデコロンだ。残り香さえ、粘着質に感じる麻生のコロンに、愛の全身に鳥肌が立った。あの男が近くにいる。
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