第92話 Double Sin 1
(高村愛の記憶)
深夜の寝静まった商店街に、ヒールで歩くコツコツという音が響く。そして、それが、カツンという金属が当たる音に変わった。
「うそっ、もうヒールがダメになってるじゃん。この間、おろしたばかりなのに」
高村愛は、履いていた赤いエナメルのヒールを見た。片方のヒールの先のゴム部分がすり減って、中の金属の芯が見えていた。もう片方も、かろうじて残っているが、明日には同じような状態になるだろう。
「何で、いつも、こんなことになっちゃうのかな」
愛は、ヒールを脱いで、目の前にあった銀行の前の階段に座り込んだ。最近、人気の海外の安売りサイトで買ったものだが、写真で見たものより安っぽいし、届いた時には、甲の飾りのビジューの一部はもう壊れていた。値段が張るものは、ガラスビーズは爪留めされているが、1500円もしないような靴では、接着剤で簡単に張りつけてあるだけの代物だ。
数分前までの高揚した気分が、くたびれた安物のヒールを見ているうちに、どんどん沈んでいくのが分かった。今日は今月の売り上げナンバーワンの表彰を受けた。指名もドリンクも両方でトップの売り上げだったのだ。入店から三か月だが、今の店では、常にナンバーキャストと言われる売れっ子だ。先月ナンバー3に上がり、今月はトップだったので、お祝いに今日の客がエノテークを何本も開けてくれた。あの客は、今時、胸元に薔薇を飾るような、ありえない気障オヤジだけど、大半の客と違って、お行儀がいいし、気前の良さが桁違いだ。年齢の割に体つきもいいし、顔も整っているので、あわよくば愛人にしてもらおうというキャストが何人もいる。
「でも、あいつ、隠しているけど、絶対に貴族よ」
この国はおかしい。貴族ばかりがいい思いをして、自分達のような市民は馬鹿を見る。貴族に生まれれば、どこでも傅かれて大した努力もしないで、社会の上層部で、のうのうと生きることが出来る。それなのに、自分は、こんな時間まで毎日、安物のハイヒールをはいて、ろくでもない男と酒を飲んで、落ちぶれていく日々だ。
「足、痛い」
窮屈なヒールに何時間も押し込まれて、むくんだ足元を見ながら、ほとほと嫌気がさしてきた。今、十代や二十代に大人気の海外の安売りファッションサイトで、二束三文で売られている、ビジューの取れた赤いエナメルのヒールが、自分のように思えた。
「出だしはいつもいいんだけどなぁ」
独り言をいいながら、煙草に火をつけた。振り返ると、いつもそうだ。最初は順調そうに見えて、いつの間にか、色んなところで衝突をして、敵を作っては逃げ出して、また同じことを繰り返す。何一つ、長く続いたことがない。習い事にしても、勉強にしても、仕事も人間関係も。学生時代も、社会人になってからも、ずっと同じことを繰り返している気がする。
今の仕事は、母親や祖父母には、絶対に言えたものではないが、稼ぎは、会社員をしていた時に比べれば3倍以上だ。それでも、こんな安物ばかり買って、情けない思いをしている。愛は、紫煙を吐きながら、今までのことを考えた。
大学時代に始めた就活は、快活で喋るのが得意な自分は、どの面接でも手応えを感じたが、結果は惨敗だった。外国人の娘で、コネもない自分では、帝都の中心部ではともかく、地方都市での就職は思いのほか厳しかった。愛としては、帝都の中心部に出たかったが、祖父母が高齢になっていて、何かと不安があるので、同居を続けて欲しいと言われていた。ようやく、母校の就職課が勧めて、採用してもらった地元の企業では、強烈なお局社員が六人もいて、そのうちの四人が社内不倫をしていて、不倫をしていない方の二人は、新人社員を虐めて憂さ晴らしをしているようなモラルの低さだった。若い女性社員の離職率があまりに高いので、会社は苦肉の策で地元の大学と提携した。大学側は、就職で苦戦している学生を受け入れてもらい、会社側は離職する社員の穴埋めというWin-Win関係を作っていたので、愛の母校の学生たちが応募すると、建前上の面接はあったが、ほぼ即採用という暗黙の合意があった。
愛がそんな会社に入社した日の早い午後、新入社員達と入社式に参加した社長や役員との昼食会があった。昼食会と言っても、老舗の仕出し弁当を皆で一緒に食べるという程度だったが、愛は持ち前の性格を発揮して、社長や役員たちにお茶のお替りを勧めてアピールをした。役員たちには評判が良かったが、そのうちの一人が愛のことを褒めちぎったことで、逆に愛の名がお局達に知られることになり、最初から目をつけられた。もちろん、彼女たちの間での評価は、浮ついた生意気な子。
数か月経った日の昼休みだった。虐め常習犯の二名とは全く逆で、不倫社員の四名のお局たちは、良くも悪くも訳ありだったので、社員を虐めるどころか面倒見が良い先輩達だった。愛や他の新人社員とも壁を作らず、良好な関係を築いていた。そのうちの一人の良美は、同じ部署のアラフィフの大先輩で、後輩社員達をランチや食後のコーヒーに連れ出してくれたり、人数が少ない時は、奢ってくれたりした。その日は、先輩社員に仕事のミスを指摘され、入力を訂正していたため、遅めのランチになった愛と、出先から帰ってきた良美とのランチ時間が重なったので、良美が近くの蕎麦屋に誘ってくれた。
愛の勤める会社のある地区は、オフィス街ということもあり、ランチに利用しやすい価格のカフェや食堂が多かった。今日の蕎麦屋は、昼時は、セットランチに小さな蕎麦かうどんがついて値段も安いので人気の店だ。込み合う店内で、良美が「仕事は慣れた?」と話しかけた。
「仕事は問題ないんですけど、人間関係が難しいですね」
愛が、先ほどまでの入力訂正を棚に上げて言うと、良美は、同情を顔に浮かべた。
「ああ、あの二人ね。愛ちゃんは、若くて可愛いし、幹部連にも人気があるから、どうしても気になる存在なんじゃないの」
「それでも、嫌みが酷すぎますよ。井上さんは、ちょっとした間違いでも、ヒステリーを起こして、一日中、文句を言い続けてくるし、日野さんは、何もしていないのに、睨んできて、更衣室で、わざとぶつかってくるんですよ。あの体形ですから、あたし、ふっ飛ばされました。この間も・・・」
聞き上手な良美につられて、文句が止まらず、ランチセットが運ばれてからも、食べ終わって、食後のコーヒーが出て来ても文句を言い続けた。良美も、かなりうんざりしてきたようで、突然、話題を変えてきた。
「愛ちゃん、帝都支社のプロジェクトの話、聞いた?」
「何ですか、それ?」
良美の説明によると、愛のいる本社は名前だけの存在で、まだ三十代の社長の息子が率いている、帝都支社こそが、売り上げの六割を稼ぎ出している花形らしく、本社勤務ではなく、帝都支社転勤が栄転とみなされているらしい。その帝都支社が、この秋から
「愛ちゃんと同期の栗田ちゃんは、参加希望を上司に出したそうよ」
「え、あの栗ちゃんですか」
栗田は、同期入社の八名のうち、お笑い担当のような存在で、本人はマロンと呼ばれたがっているが、どうしてもその地味な顔立ちと服装のせいで、栗坊とか栗ちゃんと呼ばれると、自虐ギャグを飛ばすような気のいいぽっちゃり女子だ。
「栗ちゃん、見た目の割に意外に野心家だったんだ。社長の息子でも狙ってるのかな」
「あの子は、英語科の出身で、今でも英会話スクールに行って勉強を続けているそうよ。得意の英語を使った仕事をしたいって上司に訴えたんだって。まぁ、若いから、色んなチャンスのある帝都の方がやり甲斐があるわよね」
明美がコーヒーを飲み干して「さ、もう行きましょ」と愛を促し、その話は終わりになったが、愛の頭の中では、栗田のことでいっぱいになった。栗田個人とは特別に仲が良いわけではないが、八名の同期は、定期的に飲み会をしているのに、将来はどうしたいとか、全くそう言った話はしていなかった。
「栗坊のくせに」
デスクに戻る前に、隣の部署に配属になった別の同期の和久田に訊くと、梶原と松原も応募していた。八名の中で、将来の幹部候補と囁かれている西野だけが帝都支社勤務だったが、西野から話を聞いて、梶原と松原は帝都支社勤務への思いを強くしていたらしい。どうやら、プロジェクトのことを知らなかったのは自分だけのようだ。
「社内メールでお知らせが来たでしょ。それで栗ちゃんと松原君と梶原君は、大喜びで応募したみたいだよ。応募条件に社歴は問わないってあったから」
そんなメールを見た記憶もあるような、ないような。ただ、何故か、同期には出し抜かれたような気がした。
「和久ちゃんは、応募しないの?」
「私は、こっちに彼がいるから、退職金が出る勤続三年を超えたら、結婚資金用に辞めるつもり。この会社、給料は少ないし、面倒くさいオバサンが多いけど、ボーナスは、そこそこ出してくれるから、実家住まいだと貯金できるでしょ。三年は我慢しようと思って」
和久田は、丁寧な仕事で先輩社員達からのウケがよく、前に出るタイプではないので、井上や日野からの嫌味攻撃もあまり受けていない。本社で生き抜くには、和久田のように、裏方的な仕事をして目立たないようにやり過ごして、退職金をもらって結婚退社か、栗田達のように帝都勤務を目指すかしかないのか。同期が、既にそれぞれの道に向かって動き出しているというのに、自分は毎日、井上と日野に嫌味を言われて、それどころではないのが、悔しかった。
口惜しさのあまり、意識がそちらに向かい、午後は仕事に集中できず、そんな愛に井上と日野のヒステリーが頂点に達した。あまりに酷いヒステリーに、隣の部署からクレームが来て、課長の中野が、愛を会議室に引っ張っていく始末になった。
「課長、ひどいです。何であたしが呼び出されるんですか。大声で文句を言っていたのは、あのオバサン達じゃないですか。毎日、嫌味ばっかり言うだけで、ロクな仕事もしてませんよ。あの人達のせいで、うちの会社の若い社員の離職率が高いって、あたし知ってますよ」
課長の中野は悪い人間ではなかったが、中間管理職の切なさを全身に纏った事勿れ主義者だった。
「高村さんの言いたいことは分かるけどね、ここは社会勉強、人生修行だと思って、折れることができる時は、折れてくれないかな」
「そんなのおかしいです。何で、何も悪くないあたしが譲らないといけないんですか。課長がそんな態度だから、あのオバサン達が増長するんですよ」
中野に必死に訴えたが、相手が悪すぎて、暖簾に腕押しだった。
「課長、あたしもう耐えられません。今、帝都支社で新規のプロジェクトメンバーの募集してますよね。あたしを、そっちに行かせてください」
ほとんど喧嘩腰で宣言したが、中野の反応は、愛の予想とは全く違ったものだった。
「高村さんでは無理じゃないかな。君は、千台大学の卒業生だよね」
「そうですけど、それが何か?」
「千台大学に限らず、どこの地方大学も少子化で学生数が少なくなっているからね。学生数が減ると、国の助成金も減る。そうなると、大学側は、学生集めに必死になって、就職率を上げようとするわけだ。ところが毎年、箸にも棒にもかからない学生が一定数いて、それを妨げる。そこで彼らは何をすると思う?地元の企業と組んで、そんな学生の受け入れ枠を確保するんだよ。君の母校の場合は、それがうちの会社。つまり、君は、そういう目で見られているっていう前提で、社内での言動を、よく考えた方がいい。井上さんや日野さんのヒステリーは、私と部長からも注意はするけど、実際に君は仕事の飲み込みは悪いし、間違いが多い。もう少し、謙虚になって先輩の教えに耳を傾けなさい。それから、和久田さんや栗田さんのように、教わったことは、きちんとメモを取って、自分で覚えようとすること。毎回、その可愛い顔で笑ったら、どんなに忙しくても皆が助けてくれると思ったら大間違いだよ」
愛は、心の中で小物だと思って馬鹿にしていた中野課長の口から出てきた言葉が飲み込めずにいた。
「ちょっと言葉が厳しくなり過ぎた。申し訳ない。ただ、今言ったことは、部内でも問題になりつつあるから、今一度、考えてほしい。明日、また、お互い冷静になったところで面談しようか」
そう言い残して、中野が会議室から立ち去った。残された愛は、怒りがふつふつと湧き上がってくるのを感じ、階段を降りようとしていた中野を追いかけた。許さない。あの男、小物のくせに、あたしに何て言った?箸にも棒にもかからない?飲み込みが悪い?
数時間後、階段の下で首の骨を折って冷たくなっている中野が発見された。
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