第29話 急襲

「はい、獅童しどうです」


 という獅童刑事の声は沈んでいた。


「獅童さん、私です。佐藤です」


 痛む右手をかばいながら、俺は左手で持ったスマホを右耳に充ててそう言った。


「ああ、聞きましたよ。車で事故を起こしたそうですな」

 ため息交じりで獅童はそう言い、「佐藤さんの方もきっと、ただの事故じゃないんでしょうな」

 と続けた。


「そうなんですよ。不確定情報ではあるんですが、私の車に何か細工をしたものがいるんじゃないかと思っているんですが・・・」


「おそらく、そうでしょうな」


 俺が話し終えるより先に獅童はそう言い、再び電話口で深いため息をついた。


 様子が変だ。


 いつもの獅童らしくない。


「あの・・・」

 と俺はおずおずと口を開き、「獅童さんの方でも何かあったんですか?」

 と訊いてみる事にした。


 短い沈黙があったが、獅童は、

「そうですな」

 とあっさり答えた。


 やはりそうか。


「何があったかお聞きしても?」

 と俺が重ねて訊くと、


「ああ、まあ、実はねぇ・・・小林がやられたんですわ」


「小林さんって、初めて私の家に来た時に一緒にいた、あの方ですよね? それで、小林さんが『やられた』というのは?」


「それは・・・」


 と言ったまま黙る獅童の声に、俺は獅童が、どう説明したものかと思案している様に感じられた。


 これでは判らない。


 小林刑事の生死さえ分からないではないか。


 電話の向こうの獅童は、いつもズバズバと核心をついた言葉を発していた獅童とは到底思えない。


 小林刑事はもしかしたら・・・


 そう俺が思っていた矢先、獅童が口を開いた。


「小林は、死亡しました」


「・・・そうでしたか」


「私の目の前で、警視庁の庁舎から飛び降りましてね」


 獅童の言葉に俺は言葉を失った。


「それは・・・、もしかして・・・」


 ようやく俺がそう声を絞り出すと、獅童は、


「以前、佐藤さんも言ってたでしょう。黒いモヤがどうしたの、奇声を上げながら自殺をしていただのと」


「ええ、確かに・・・」


「小林も、まさにソレですわ」


 俺は自分の身体が震えているのが分かった。


 ・・・まだ終わっていなかったのか!


 ここ最近、あまり自殺者が多数出ているという報道を見なかったせいで、俺はもうこの一連の騒ぎは終息に向かっているのだと思っていた。


 俺達が犯人捜しをしているのを嗅ぎつけた「敵」が、俺をこんな目に遭わせたのだとすると、いくら「敵」が大きな組織だったとしても、これ以上目立つ事件は起こさないだろうと、俺自身が頭のどこかでタカを括っていたのかも知れない。


「あの日のアイツはね、およそ小林らしくなかったんですわ」

 と獅童が話し出した。


「この一連の事件を調査している中でね、佐藤さんの話も踏襲しながら情報を整理した結果、おかみも一枚嚙んでいる事が分かりましてな」


 おかみ・・・、つまりは、警視庁のトップや政治家達も噛んでいたという事だろう。


「小林はね、ああ見えて正義感の強い男でしてな。私が『慎重に動くべきだ』と言うのを、あいつは『証拠を揃えて、立件すべきだ』と色々動いていたんですわ」


 獅童の話はこうだった。


 小林刑事はその日の昼、獅童と昼食をとった後に「相談がある」と言って警視庁舎の17階にある道場へと誘ってきたそうだ。


 食後の運動でもするつもりなのかと思いながら小林について行くと、エレベーターを降りた小林刑事の周囲に黒い霧のようなものが集まりだし、それはやがて小林刑事の頭部をすっぽりと覆う形になったという。


「おい小林・・・、お前その頭の周りのは・・・」

 と獅童が声をかけた時には、


「何です? 何かありますか?」

 と言いながら、頭の周りをキョロキョロと見回す余裕もあったらしい。


 獅童が「気のせいか?」と思った途端、小林の顔はみるみる虚ろになってゆき、緩んだ口元から「なー・・・」という声が漏れだしたという。


 それはまるで鼻歌の様でもあり、獅童に何かを訴えようとしている様でもあったらしい。


「おい、どうした?」


 獅童がそう声をかけた時には、小林はフラフラと廊下の奥へと歩き出し、徐々に歩調を速めて、突き当りの窓に向かって体当たりをしたのだとか。


「おい! 小林!」


 驚いて小林刑事の元へ駆け寄ろうとした獅童の方を振り返りもせず、小林刑事は窓を開けて、そのまま窓の縁に足を掛けて乗り上げ、獅童が小林の元へと到着するかしないかというタイミングで、小林の身体は窓の外へと姿を消したのだそうな。


「そんなことが・・・」


 獅童の話を聞いた俺は、そう口にしたまま何も言えなかった。


 俺は今までに3人の自殺を目撃した。


 これまで漠然と「黒いモヤ」に憑りつかれた者の末路を知っているつもりでいたが、今の獅童の話の様に、黒いモヤに包まれる前からの一部始終を聞いたのは初めての事だった。


 黒いモヤはどこにでもあり、それは何の前触れも無く人間を包み込み、そして死へと導く。


 鮫澤教授の言う様に、これがいわゆる「酸化グラフェン」などという、炭素をベースにしたものの仕業には到底思えなくなってきた。


 電磁波で操る事が出来るといっても、一緒にいた獅童は何の被害も無いなんて事があるのだろうか。


 いや、もしかしたら獅童も何かの影響を受けているのか?


「あの、獅童さん」


 俺はたまらず口を開いた。


「まさか獅童さんは、自分の周りに黒いモヤがあったりしませんよね?」


 俺の質問に答えたのは、およそいつもの獅童とはかけ離れた高い声で、


「らーらーらー!」


 と、まるで歌を歌おうとしてでもいるかのような声だった。


「獅童さん!」


 俺の声は、ガチャンという音にかき消されて自分でも声を出せていたのかどうかが分からなかった。


 受話器から聞こえるのは、遠くから聞こえる人々の騒めきで、その中でひときわハッキリと聞こえたのが、


「自殺だ! 飛び降り自殺だ!」


 という、若い男の声だった・・・


「そんな・・・」


 俺は、目の前が真っ暗になるような錯覚を覚えた。


 酷い眩暈めまいがして、手に持ったスマートフォンを病室のベッドの上にポトリと落とした。


 あの獅童刑事が・・・


 俺の耳には、獅童の最後の声がこびりついていた。


 目を瞑ると、すぐ傍で獅童のあの「らー、らー、らー!」という、まるで歌っているかの様な声が木霊こだまする気がした。


 強く目を瞑り、その声を振り払おうとしたが、暗闇に響く呪いの唄の様に、その声は俺の耳から離れなかった。


「くそっ!」


 俺は吐き捨てる様に、両手を自分の両脚にたたきつける事しか出来なかった。


 骨折している右手首に激痛が走り、「うう!」っと声が漏れた。


 ズキズキと痛む右手を身体に抱き寄せながら、動かない自分の身体に苛立ちを感じていた。


 その時、ふと俺は違和感を感じて顔を上げた。


 視界に映るのは薄暗くなり始めた病室の中の景色だった。


 しかし、さっきまでまだ明るかった部屋が、急にこんなに薄暗くなるのは変だ。


「ヤバイ!」


 俺は咄嗟に頭を振ってベッドの下に転げ落ち、自分の頭に忍び寄っているかも知れない黒いモヤの有無を確認しようとした。


 俺の身体はベッドの下から天井を見上げるような形になった。


 スマートフォンもベッドから滑り落ち、その際に俺の身体が触れたのか、電話は切れた様だった。


 俺が見上げた先には、うっすらと黒い霧のようなものが宙を舞っており、何度も見たその黒モヤの姿に、俺は目を見張った。


 とうとう俺も、が来たのだと悟った。


 ・・・しかし、その場でじっとしていると、黒いモヤは徐々にその姿を薄くして、いつの間にか消えて無くなった様に見えた。


 俺の心臓の鼓動は早鐘の様に鳴っている。


 呼吸も荒くなっていた。


 俺は何度も深呼吸をし、その場でじっと宙を見上げていた。


 やがて呼吸が整った時、俺は痛む身体をかばいつつ、ゆっくりとベッドの上に身体を乗せた。


 室内を見回したが先ほどの薄暗さは無かった。


 室内のどこにも、あの黒いモヤの姿は見当たらない。


「いったい、何故なぜ・・・」


 俺はそう呟きながら、落ちたスマートフォンを拾うのも忘れて、ベッドに横になった。


 俺は自分が本当に生きているのか、確認する術がないものかと辺りを見回していた。


 しかし、ズキズキと痛む右手首が、俺がまだ生きている事を示していた。


「ふふっ」


 と、無意識に笑いがこぼれた。


 それは嘲笑にも似た笑いだった。


「まだ生きてるんだな・・・」


 突然やってきたあの黒いモヤ。


 なるほど、こういう感じで近付いて来るのか。


 そして獅童も同じ様な状態だったに違いない。


 おそらくあの黒い霧のようなものは、空気中のどこにでも居て、、ああして姿を現すものに違いない。


 そしてそのトリガーに成り得るものの一つが、俺が発した強いストレスの様な感情。


 そしてもう一つ・・・


 俺は床に落ちたスマートフォンを見つめながら、


「電磁波に影響されるってのは、こういう事か」


 と呟いたのだった・・・

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