第28話 病室
「ここは・・・?」
目を覚ました俺の目に映ったのは、白い天井と、周囲を簡単に仕切るだけの水色のカーテンだった。
鼻につく医薬品の臭いがするあたり、おそらくここは病院なのだろう。
・・・そうだ。
俺は交通事故を起こし、その場で気を失っていたんだ。
誰かが消防署に通報して、救急車でここまで運ばれたのだろう。
・・・それにしても、ここはどこの病院だろう?
頭が固定でもされているのか、首がうまく動かせない。
視線だけをぐるぐると回してみると、上方向を見た時に、微かに白い布の様なものが見えた。
おそらく、頭を打ったところを包帯か何かで巻かれているのだろう。
今は頭痛は感じないが、右手首の辺りがズキズキと痛むのが分かる。
まるで骨が軋むような痛みで、力を入れて動かそうとすると、ピリッとした痛みが走り、その激しい痛みに俺は顔を歪める事になった。
「こりゃあ、骨折かな・・・」
俺は右手を動かす事を諦め、こちらも薬指の関節あたりに鈍痛はあるものの動きそうな左手で、自分の身体を触って状況を確認してみた。
どうやら服は脱がされて、サラサラした手触りのガウンか何かを着せられている様だ。
下着も着用していないあたり、もしかしたらMRIか何かの検査を受けたのかも知れない。
足を動かそうとすると、重だるい感じはするが、何とか動かせそうだ。
足の指を曲げたり伸ばしたりする事から始め、次いで足首を曲げ伸ばしする。
徐々に足周りの筋肉が温まるのを感じながら、次に膝を立てて曲げようとしたところで、左ひざに痛みが走った。
「うっ!」
と俺はうめき声を上げて足を元の位置にゆっくりと戻し、突然の痛みに驚いてにじんだ涙を左手の甲で拭った。
骨に異常があるというよりは、左ひざを捻挫したような痛みだ。
どちらにしても、この痛みはなかなかに
自力で歩行するのはまだ無理そうだ。
自分の顔や頭に触れてみると、顔には傷は無さそうなのだが、やはり包帯の様なもので頭が覆われている様だ。
「そうだ・・・、ナースコールとかは無いのか?」
俺は思いついてそう口にしたが、そもそもナースコールのボタンがどこにあるかも、今の俺の視界ではわからないのだ。
部屋の天井に設置されている蛍光灯は消えているが、窓からの明かりなのか、部屋は明るい。
おそらくは日中の時間帯なのだろうが、時計が見当たらないので正確な時間は分からない。
左手で周囲を探ってみたが、スマートフォンや私物がありそうなサイドテーブルのようなものは、左手の届く範囲には無い様だった。
「まいったな・・・」
俺はそう
今回の事故は、車の異常によるものだ。
駐車場を出る前や、走っている途中にも、何度もブレーキに異常が無いかを確認した。
にも拘わらず、幹線道路と交わる交差点の信号前でブレーキを踏んだ途端、まるでアクセルを踏んだ時の様な加速があり、車が交差点へと飛び出した。
事故を起こした時の記憶を辿れば辿るほど、自分自身の運転操作に間違いは無かったと確信できる。
ペダルの踏み間違いじゃない事は、俺がこの目で事故を起こす直前に目視で確認している。
車は決して新しくは無いが、まだ発売されて5年のモデルだ。
リコールの話も聞いたことが無いし、ディーラーに出している車検で異常を報告された事もない。
つまり、今回偶然に車の異常が発生したのか、又は何かの細工をされたという事しか考えられない。
となると、これは獅童刑事に報告しなければならない事案だろう。
誰かが俺の車に何らかの細工をし、今回の事故を意図的に引き起こしたのだとしたら、あのメールにあった様に、この件から手を引かなければ、今後更に恐ろしい目に遭うかも知れないという事に違いない。
マンションの駐車場から見えた、あの黒いパーカーの男。
もしかしたらあの男が俺の車に細工をしたのかも知れない。
しかし、それは俺もある程度想定済みだった事で、だからこそ駐車場で何度もブレーキを踏んだりして確かめていたのだ。
いったいどのうような細工をすればこのような事故を起こせるのかは分からないが、「敵」は俺が想像している以上に能力があり、組織力もあるという事なのだろう。
いつぞやの、東京都庁で佐々木と話した時の決意が、今は嘘の様に
佐智子を奪われた恨みを晴らす為にと勇んではみたが、今こうして動けなくされてしまうと、次に何をされるのかという恐怖が頭をもたげて来るのだ。
「・・・俺ってやつは・・・」
不意にそんな言葉が漏れた。「ほんと、ちっぽけな男だな・・・」
そう口にした途端、思わず涙が溢れだした。
それが、悔しさから来るものなのか、恐怖から来るものなのか、はたまた絶望から来るものなのかは自分でも分からない。
もしかしたら、自身の惨めさを思い知って、嘲笑の意味を込めた涙なのかも知れない。
その時、不意に俺の腹がぐうっと鳴った。
「何だよ、こんな時でも腹は減るんだな・・・」
苦笑しながらそうつぶやくと、カーテンの向こうで、部屋の扉が開く音がした。
「検温のお時間で~す」
という若い女の声が聞こえたかと思うと、俺のいるベッドを囲うカーテンがサッと開けられた。
「あら、お目覚めだったんですね」
と、歳のころ20代半ばに見えるナースがそう言ってベッドに近づき、腰をかがめてポケットから取り出した体温計を俺の左の脇に差し込んだ。
「あの・・・、私はどれくらい眠っていたんでしょうか?」
俺がそう訊くと、ナースは少し考える様な表情をしてからすぐに笑顔に戻り、
「佐藤さんが運び込まれたのが昨日の午後3時頃でしたから、丁度20時間くらい眠っていた事になると思いますよ」
「20時間ですか・・・」
思ったよりは時間が経過していなかったが、それでも知らぬ間に1日近くが経過していたらしい。
そして今の時間が午前11時頃だという事も、ナースの話で知る事ができた。
「あの、私のスマートフォンとか財布がどこにあるか知りませんか?」
俺がそう訊くと、ナースは下を向いて、ベッドの下を指さし、
「私物はベッドの下のカゴに入ってますよ」
と言って笑い、「はい、じゃあ体温計を抜きますね」
と言って、俺の左脇から体温計を抜き取った。
「37度2分。まあ、微熱ですね」
と言ったナースは、手に持った用紙に何かを書き込みながら、用紙にサラっと目を通すと「あ、そう言えば骨折と打撲で動けないんですよね」
と言って、ベッドの下からカゴを引き出し、
「着ていた服と財布と・・・、あとは茶色い紙袋がありますけど、スマホはありませんよ?」
と訊いてきた。
そうだった。
スマートフォンは電源を切って、茶色い紙袋に入れて持ち出したんだった。
「じゃあ、財布とその茶色い紙袋をお願いします」
と俺が言うと、ナースはテキパキとカゴの中から財布と紙袋を取り出して俺の胸の上に置いた。
「ありがとうございます」
と礼を言ってから、この病院の名前を聞き忘れていた事に気付き、「あ、ところでここは、何という病院ですか?」
と訊いてみた。
ナースは笑みを絶やさないままこちらを向き、
「船橋大学病院ですよ」
とそう答えたのだった。
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「はい、捜査一課です」
スマートフォンから聞こえたのは、少ししゃがれた男の声だった。
紙袋から取り出したスマートフォンの電源を入れると、留守番電話の通知があり、見てみると獅童から2度の着信があった事が分かった。
留守番電話は、一度目は何も録音されておらず、2度目は「例の件で進展があったので、お電話頂けますか」と、いつも通りの声でそう録音されていた。
どちらも獅童の携帯ではなく、警察署の固定電話から電話をしてきた様で、あいにく獅童の名刺を自宅に置いてきた為に、着信履歴に残っている警視庁本部の番号にかけてみたのだった。
「すみません。佐藤と申しますが、
俺がそう訊くと、電話の向こうで息を飲むのが分かった。
ほんの数秒だが沈黙の時間が流れ、俺は嫌な予感がした。
俺は
「あの・・・」
と俺が話そうとする声に
「どういうご要件ですか?」
と電話の向こうの声がそう訊いてきた。
俺は
「実は
と言った。
「ああ、それはアレですか。例の大量自殺の件で?」
と言う電話の声は、少しホッとした様に聞こえた。
何だろう。
それで、俺が警戒すべき相手ではないと知って安心したのかも知れない。
いや、きっとそうなんだろう。
俺の様な一般人でさえこんな目に遭うのだから、この事件を捜査する刑事に何の圧力も無いなんて事は無い筈だ。
「はい。その件なんですが、ちょっと深刻な状況になってしまいまして・・・」
俺がそう答えると、電話口の男は、
「
と返してきた。
今度はどうにも、つっけんどんな返答だ。
何も獅童刑事だけがこの件を担当しているという訳ではなかろうに。
とはいえ、知らない担当者と話すよりは、事情が分かっている獅童と話す方がいい。
「はい、それでお願いします」
と俺が応えると、電話口の男は、
「こちらの携帯電話の番号に連絡させればいいですかね?」
と言いながら、俺の携帯番号をメモしている様だった。
「はい。この番号にお願いします」
「ほい、了解」
俺の言葉に被せる様にそう言って、ガチャンという音と共に通話が途切れた。
何ともせわしないな。
俺はそう思ったが、電話に出た男が、
捜査一課といえば、殺人事件なども担当する部署だ。
殺人鬼を相手にする事もあるだろうし、常に生命の危険と隣合わせの仕事をしている筈だ。
自宅の事も心配だ。
鍵は閉めてきたとはいえ、こんな事が出来る「敵」が、俺の自宅に忍び込む事など造作も無い事だろう。
とはいえ、今の俺にはどうする事も出来ない。
「あ、そうだ。事故の後処理はどうなってるんだ?」
と俺はふと自分の事故について、その後どうなっているのかが気になった。
スマートフォンで千葉県警の番号を検索し、連絡をしてみる事にした。
「はい、こちら交通安全課です」
代表受付から回された電話に出たのは、ハキハキとした若い男の声だった。
「あの、昨日船橋市で交通事故を起こした佐藤というものですが・・・」
と俺が名乗ると、電話口の男はPCのキーボードを打っているのか、カタカタと音が聞こえてから、
「ああ、佐藤さんね。トラックと事故を起こして、船橋大学病院に搬送された方で間違いないですか?」
と訊いてきた。
「はい、そうです。先ほど目が覚めまして、事故の処理についてお聞きしたくてお電話させて頂いたんですが・・・」
「もうお身体は大丈夫ですか? 船橋警察まで来れるようでしたらお越し頂きたいんですが」
「それが・・・、ケガをして動ける状態ではなくてですね・・・」
「そうですか、では担当者をそちらに向かわせますので、病院のどちらにいらっしゃいますか? 病室などが分れば教えて頂けますか?」
「ああ、すみません。自分の病室もちょっと病院の方に訊いてみないと分からないので、もし宜しければ病院の受付でお聞き頂いても宜しいでしょうか?」
「分かりました。1時間後くらいになりますが、大丈夫ですか?」
「はい、私は大丈夫です」
「了解しました。では後ほど担当者が伺いますので、それまで病室でお待ち下さい」
そのまま電話が切られ、俺は病室で警察が来るのを待つ事になったのだった・・・
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「トラックの運転手に怪我はありませんでしたが、事情聴取をしたところ、あなたが信号無視で交差点に進入してきたという話なんですが、間違いはありませんか?」
病室にやってきた2人の男性警察官のうち、ヒョロっとした体形で背の高い方がそう訊いてきた。
「それは間違い無いんですが、実はブレーキに突然異常が発生しまして、止まるどころか加速をしてですね」
俺は事故が起きる前の事を二人の警察官に詳細に説明する事にした。
駐車場で車の動作を確認した事や、運転しながらブレーキを何度も確認した事を時系列で話した。
「そうですか。で、そこまで細かい確認をした理由は何なんですか? それとも、いつも細かい点検をしているという事なんですかね?」
なるほど、当然その疑問にたどり着くだろう。
これについて、どこまで話すべきだろうか。
元々の原因はあのメールだ。
いつも俺を監視しているかの様な内容のあのメールが、俺の不安を掻き立てたのは間違い無い。
マンションのエントランスに居た、黒いパーカーの男が俺を見ている様な気になったのもそのせいだ。
あの男は俺が買い物に行く時には既にあそこに居た。
その時は何も思わなかったが、あのメールを見た後にあの男を見ていたなら、俺はもっとあの男に不信感を持っていただろうし、もしかしたら声を掛けていたのではなかろうか。
しかし、買い物に行く前にあのメールを見ていなかった俺は、そこまでの不信感をあの男に抱く事が出来なかった。
この警察官は、あくまで交通安全を担当しているに過ぎない事を考えると、この話は適切ではない気もする。
そこまで考えて俺は、
「いや、最近は物騒な事件が立て続けに起きてましたからね。マンションの周りに怪しい人物がいるなんて噂も耳にしたもので、ここ最近始めた習慣なんです」
そう答えておく事にした。
「なるほど、車上荒らしは生活安全課の管轄なので、私達は関与できませんが、そういう事でしたか」
と妙に納得をした様子の警察官に、
「ええ、まあ・・・」
と曖昧な返事をした俺は、事故のその後について訊いてみる事にした。
「ところで、私はこれからどうすれば良いのでしょうか?」
「そうですね、まずは事故を起こした相手のトラックの運転手の他に被害者がいない事が分かったので、2者間で事故の処理を行う事になります。ただ、トラックの運転手の話だけだと、過失割合が全てあなたの方にのしかかってしまうので、あなたの事情聴取が済んでから調書を完成させる予定です」
「なるほど・・・」
「しかし、あなたの車両の故障が、事前に点検をしていたにも関わらず起きたという事であれば、いわゆる『やむを得ない過失』として、何等かの過失の軽減があるかも知れません」
「そうですか・・・」
「お互いの保険会社同士で話を纏める事が多いのですが、その際にこちらの調書の内容が基になりますので、こうしてお話を伺いに来たわけです」
「なるほど・・・」
何だか気の抜けた返事しかしていない自分が情けなくなるが、トラックの運転手は軽傷だったというし、他に被害者がいないというのは不幸中の幸いだ。
「では、とりあえずこちらも保険会社に連絡をしておいた方がいいのでしょうか?」
という俺の問いに、その警察官は首を振って、
「いやいや、保険会社には既に連絡はこちらから入れてます。あなたが病院に運び込まれましたので、現場の警察官が車検証の確認の際に保険証書を見つけたので、気を利かせたようです」
「そうでしたか・・・、それは何というか、ありがとうございます」
「とりあえず、お身体を直しつつ、動けるようになったら保険会社とも連絡を取り合って頂いて、被害者の方ともお話をされた方が良いでしょう。こちらにトラックの運転手の連絡先を置いておきますので、近いうちに連絡をしてあげてください」
そう言って軽く会釈をした二人の警察官は、病室を去って行った。
俺は痛む右手をかばうように肘を使って身体を起こし、枕元に置かれたメモ用紙を見ながら、スマートフォンでその番号にかけてみたのだった。
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