第26話 視線

「何てこった…」


 俺はナチョスに譲ってもらったPCの画面から顔を上げると、長い息を吐いて目を瞑り、そう口にした。


 インターネットに接続されていないこのPCの操作は、不思議な事に俺を作業に没頭させた。


 秋葉原から自宅に帰ってからすぐにそのPCをセットアップすると、起動したWindows98の画面が映し出された。


 そう言えば、中学生の頃に使っていたパソコンの画面がこんなだったな。


 そんな事を思いながら、外付けハードディスクを接続し、データの読み込みを始めたのだが、俺の中学生時代の記憶とは裏腹に、ナチョスが組み上げたPCのスペックの高さのせいか、とてもスピーディにデータを読み込んでいった。


 データの内容は、柴田が外務省の官僚だった頃の日記の様なものと、ハードディスクに大量に保存されている政府の公開資料のコピーだった。


 更にその資料の日付に合わせて、当時の新聞記事の画像を貼り付けているものもあった。


 そしてそれらの情報は、一本の太い線に繋がっており、その太い線には【2001】【2002】…【2020】と西暦が刻まれていた。


 これは、言わば柴田が見つけた様々な陰謀に関する「年表」と言うべきものかも知れない。


 きっとナチョスが手伝ったのがこの表示方法なのだろう。


 これだけの資料を作れるだけの能力があれば、どこの会社でも重宝されるに違いない。


 彼の経歴については何も分からないが、このデータを見れば見る程、ナチョスの能力の高さを伺い知る事になる。


 そして、その資料を半分位見ただろうか。


 俺が顔を上げて時計を見ると、PCを起動してから既に、10時間以上も経っていたのだ。


「何てこった…」


 俺がそう口にしたのは、本当に夢中でこのデータに見入ってしまい、気がつけば足腰がギシギシと音を立てそうな程に凝り固まっていたからだ。


「風呂に浸かって、身体をほぐさなくちゃ…」


 俺はそう言うと、キッチン横にある浴室の自動湯張り機能のボタンを押した。


 湯の温度を41℃に設定する。


 少し熱めの風呂に入ろうと思った。


 そう言えば食事さえ忘れていたな。


 秋葉原から帰宅したのは昨日の夕方5時位だったろうか。


 帰宅するなりPCをセットアップし、外付けハードディスクを接続したのが夕方6時前だった筈だ。


 時計を見れば午前4時10分を少し過ぎたところだ。


 風呂に湯を溜めている間に、ベランダの窓にかかるカーテンを少し開けてみると、外はまだ真っ暗だった。


 サッシの鍵を開けて窓を少し開けると、もう冬の様な冷たい風が部屋に入り込んだ。


「う〜、もう11月も終わりだもんな」

 と俺は言いながらブルブルと身体を震わせ、すぐに窓を閉めてしまった。


 俺はリビングのソファにドカッと身を投げ出す様に座り、大きく深呼吸をしてから天井を見上げた。


 初めてあの「黒い球」を見てから、まだ1ヶ月半しか経っていないのだ。


 この、たった6週間の間に、いったい何人の命が失われたのだろうか。


 インターネットのニュースで報道されただけでも3000人以上だ。


 他にも人知れず自殺した者の数を入れれば、ざっと1万人はいるだろう。


 菊子の様に、自殺では無く事件に巻き込まれた者も居るだろう。


 俺が首都高で見た交通事故もそうだ。


 俺の隣を走っていた車が突然前の車のに追突し、ドライバーが車から降りた途端に首都高の高架の壁を乗り越えて飛び降りていった。


 あのドライバーが死亡した事は後で警察に聞いたが、追突された車のドライバーも軽い怪我を負っていた。


 同じ様な事故が他にもあっただろうと考えれば、菊子の様に不幸な結果になった者も多くいた筈だ。


 この様な被害者がどれ程居るかは分からない。


 しかし、1万人を超える死者が出ているであろう事は想像に難くない。


 1995年に起きた阪神大震災でも6400人以上の死者が出たが、今回の事件はそれ以上の死者が想定される訳だ。


 柴田の集めたデータの中に、こんな記述があった。


「新世界秩序」


 英語では「ニューワールド・オーダー」と呼ばれているらしい。


「世界の国境を無くし、人々がひとつの地球に住む同じ世界の住人になる」


 という大義名分だそうだ。


 とても平和的でハートフルなポリシーの様だなと俺は思ったのだが、柴田は全く別の視点で解釈していた。


 柴田の解釈では「世界を支配しようとしている者は、上層部に300人。その下に3000人。更にその下に3万人居る」そうで、その33300人が豊かな暮らしをする為に、「奴隷となる人間が5億人必要だ」と考えられているらしい。


 現在の地球におよそ60億人の人口が居ると過程すると、支配者達は、実に「9割の人間が邪魔な存在」だと考えているという事になる。


 そして、その「選民」によって「奴隷」にもなれないと判断された者達は、今回の様に「黒いモヤ」の様な法律では裁けない方法によって抹殺されているのだという事だ。


 昔は「戦争」によって人口削減が行われ、今は「病気」「自殺」によって人口削減が行われているというのが、柴田の見解の概要だった。


「5億人か…」


 俺がそう呟いた時、浴槽に湯が溜まった事を知らせる電子音が鳴った。


 俺は手でゴシゴシと顔を擦り、思ったよりも額に脂汗をかいている事に気付いた。


「まずは風呂だな」


 俺はゆっくりと立ち上がり、寝室のクローゼットから着替えを取り出して洗面所へと向かったのだった。


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 少し熱めの湯に浸かり、血流が全身に巡るのが分かる。


「ふう…」


 俺は深く息を吐くと、目を瞑り、再び柴田から提供されたデータの事を思い出していた。


 人口削減計画…


 しかもその目的は、「世界を牛耳る支配者達が豊かに生きる為に、不要な人間を排除し、有能な奴隷になる者だけを5億人残し、上位33300人の為に働かされる」という世界を作る為…


 今生きている俺は、一体どういう位置付けになるんだ?


 少なくとも俺は支配者では無い。


 ならば「有能な奴隷」として生かされているのか?


 それとも「不要な人間」として、これから別の方法で殺されるのか?


 だとしたら、どんな方法だ?


 俺は黒いモヤを間近で見たにもかかわらず、自殺願望など抱かずにいる。


 これらの騒動が本当に「世界の支配者達」によるものなら、俺の様な庶民をわざわざ探すなんて事はしないのかも知れない。


 もちろん柴田の様な、政府の中で仕事をしていた人間なら話は別だろう。


 そもそも、柴田は自宅で手書きの日記をノートにしたため、その内容をインターネットに接続していないPCに記録をするという徹底ぶりだ。


 俺は世界の陰謀論や都市伝説を、自分のPCでインターネットに接続して調べていたにも関わらず、特に秘密組織の様な所から脅しを受けたりした事は無い。


 が、つい先日に鮫沢と柴田に会った事が何かの影響を及ぼす事はあるかも知れない。


 俺はそんな事を考えながら、目を開けて浴室の天井を見た。


 うっすらと湯気が立ち上る浴室の天井は、沢山の露が見える。


 小さな露が壁に向かって流れ、他の小さな露と合体して、どんどん大きな露になり、流れも早くなって壁際で壁にぶつかるのを何気なく見ていた。


 天井には2つの四角いアナが開いていて、1つは換気扇で、もう1つは浴室暖房の吹き出し口だ。


 もし、秘密組織が俺を監視するとしたら、こういう換気扇の様な場所に隠しカメラを設置したりするのだろうな。


 俺は半分冗談のつもりではあったが、今後カメラが設置された時に判別出来る様にしておこうと思い、浴槽の中で立ち上がって換気口を塞ぐフィルターに手をかけた。


 フィルターはバネ式で取り外せるタイプで、フィルターを両手で引っ張ると、10センチ位の隙間を作る事が出来る。


 そこでバネを掴んで取り外せる様になっているのだが、濡れた手で指先が滑り、巧く引っ張り出せなかった。


「仕方が無いな…」


 俺は浴室の扉を開けて、洗面所の壁に掛けてあったバスタオルで両手を拭き、もう一度浴室に入って換気扇のフィルターに手をかけた。


 いつもの俺なら面倒に感じて、最初にフィルターを外そうとして外れなかった時点で諦めていただろう。


 今日に限って、何故そうしようと思ったのかは自分でも分からない。


 ただ柴田の慎重さに倣っただけの事かも知れないし、冗談半分で考えた「自分が監視されているかも」という疑念を、心のどこかで「あり得る事だ」と考えているのかも知れない。


 どちらにしても、今後俺が監視対象にされる可能性はゼロでは無いという思いが、俺にこうした行動をさせるのだろう。


 換気扇のフィルターは、簡単に引っ張りだせた。


 バネを外してフィルターをはずすと、中には換気扇の翼が回転しているのが見えた。


 換気扇の奥は暗くてよく見えないが、マンションの構造から察するに、すぐにダクトは横向きに走っているのだろう。


 回転する換気扇の周りに何らかの異質な物は見当たらない。


 四隅に小さなネジ穴があるが、それらが超小型のカメラだという可能性も無さそうだ。


「ははっ、何やってんだか」


 俺はやや自嘲的にそう言うと、再び換気扇のフィルターを取り付けておいた。


 だいたい、柴田に会ったのは一昨日の事だ。


 もし本当に「秘密結社」みたいな組織があったとしても、一昨日から今日までの、俺が自宅を留守にしていたほんの数時間の間を狙って自宅に侵入し、監視カメラを設置する事など出来る訳が無い。


 秘密結社だか何だか知らないが、そこのエージェントがプロだったとしても、所詮は俺と同じ人間だ。


 しかし…


「…まあ、念の為だ」


 俺はそう言うと、浴室暖房の吹出口のカバーに手を掛けたのだった。


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 風呂から上がってパジャマに着替えた俺は、自宅内のカメラが仕掛けられそうな場所を確認してみた。


 寝室の壁に掛けていた絵画を額ごと外し、リビングの照明器具を一つ一つ調べ、キッチンの換気扇周りも調べてみたが、どこにもカメラらしきものは見当たらなかった。


「杞憂だったらいいんだがな」


 俺はそう呟きながら、気が抜けたのか、途端に襲い来る眠気を感じ、


「少し眠るか…」


 と寝室に向かった。


 ベッドのサイドテーブルからノートPCを取り出し、動画サイトでリラックス出来そうな音楽動画を探す。


「たまにはクラシックもいいかもな」


 と、バッハのピアノ・ソナタを集めた動画を再生する事にした。


 静かに流れ出すピアノの音を聞きながら、俺の意識は、泥の中に沈んでゆく様に眠りへと誘われたのだった…


 …午前6時。


 俺が深い眠りについている頃。


 動画を再生しているノートPCのカメラ横にある、赤外線センサーがうっすらと光っていた。


 深い眠りの中にいる俺は、そんな事を知る由も無かったのだった…

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