第21話 兆し

 目が覚めて時計を見ると、時刻は既に13時を過ぎていた。


「うう・・・、首が痛い・・・」


 どうやら、俺はあのままダイニングテーブルに突っ伏して眠ってしまったようだ。


 こんな姿勢で眠ってたんじゃ、中年男の身体が悲鳴を上げない訳が無い。


 俺はゆっくりと立ち上がり、洗面所で顔を洗って鏡を見た。


 額には腕枕の跡がついて、赤く変色している。


 3日間も不眠不休で作業を続けていたせいか、無精ひげが生えて、俺の顔は疲労感が漂っていた。


 水分が不足しているのか、少し頭痛もする。


 俺はキッチンの冷蔵庫から冷やしておいたミネラルウォーターを取り出し、キャップを開けてグビグビと飲み干した。


 空っぽの胃袋に冷たい水が注ぎこまれ、少し胃がキリキリと痛むのを感じたが、それほど不快だとは思わなかった。


「そういえば、腹が減ったな・・・」


 人間の身体とは不思議なものだ。


 3日間、水以外は何も摂取していないのに、こうして生きていられるし、むしろ体調が良い気さえする。


 頭もスッキリとしてきて、何だか視力も良くなった気さえする。


 空腹は感じるが、冷蔵庫の中にはあまり食材も無く、買い物に出かけなければ料理する事も出来ない。


 しばらく外の空気も吸っていないし、日光も浴びていないので、買い物がてら、少し散歩でもしようかと思った。


 服を着替える前にシャワーを浴びると、一層目が冴えて頭もハッキリしてくる。


 ジーンズとロングTシャツの上にジャケットを羽織り、財布とスマートフォンを手にして、スマートフォンの画面に着信履歴がある旨の通知があるのに気付いた。


「誰からだ?」


 俺はそう呟きながら画面を見ると、新宿区役所の佐々木からの着信が2度程あったようだ。


 そういえば、一緒に大学の鮫沢教授に会いに行ってから、色々あって会う事が出来ていなかったな。


 何より、菊子の死がショックでそれどころでは無かった。


 獅童刑事から聞いた話と、俺が調べた都市伝説まがいの色々な情報は、決して絵空事とは思えない情報ばかりだった。


 あの黒いモヤとの関係は確定的なものでは無いが、俺の中では相当に関連性の高いものだ。


 アメリカの軍事に関する技術などは、俺なんかが詳しく知る事などできる訳が無いし、あの黒いモヤが軍事技術によるものだという事を否定する根拠も無い。


 ならば「信じるな、疑うな、調べよ」というのが最善策だろう。


 そしてこの3日間に調べた情報から俺の考えが至る先は、あの黒いモヤは、電磁波によって操作された酸化グラフェンという物質で、身体の皮膚から浸透して人間の脳に到達し、ホルモン分泌を司る脳下垂体に影響を与え、その人間の生殖本能を逆撫でする事によって、その人間が自ら死を選ぶというものだ。


 脳下垂体は性的な興奮などにも関係すると言われているが、つまりは「種の保存」を司る器官なのだろう。


 それを逆撫でされる事で「種を滅ぼす器官」に変貌し、躊躇無く自ら命を断ってしまうのかも知れない。


 躊躇無く?


 本当にそうか?


 そもそも、この3日間は「陰謀論や都市伝説」の情報から、現実にメディアで報じられたニュースや歴史書と合致する情報を見つける事から始めた。


 そうした情報を精査すると、アメリカを実質的に統治しているのはユダヤ人だそうだ。

 そして、純血の日本人とは「元祖のユダヤ人の血族」でもあるという。


 ならば、いわば彼らにとって日本人は仲間である筈なのだが、実はそうではないらしい。


 アメリカだけでなく、世界の金融を支配するユダヤ人とは、本来のユダヤ人では無く、いわば太古の昔にイスラエルで差別されていたマフィア的な種族なのだそうな。


 そして「素晴らしい」という日本語の語源とも言われる「スファラディユダヤ人」と呼ばれる民族こそが本来のユダヤ人で、実はこの末裔が、純血の日本人だという事らしい。


 アメリカを統治するユダヤ人にとって、自分達が元々マフィアだった等という都合の悪い真実を、人々に知られる訳にはいかない。


 なので、日本人が真のユダヤ人として目覚める前に、純血の日本人を殺してしまおうという計画が進行中なのだという。


 バカバカしいファンタジーにも聞こえるが、一概にそう決めつけられない情報もあった。


 それは、日本人がルーツになる苗字に現れていた。


 日本にやって来たスファラディユダヤ人は、日本での名前を「秦」と名乗っていたそうだ。


 その末裔は、「秦野」「秦川」などと名乗りながら繁殖し、女系の流れは「藤原」「橘」「蘇我」などと苗字が分岐して行ったらしい。


 先日、菊子の母方の旧姓は「藤原」という事を葬儀の席で知る事が出来た。


 更に佐智子の母方の旧姓も調べてみたが、これが「秦野」という苗字だったらしい。


 つまりは、神話時代の日本で、神の使徒とも言える立場にあった祖先の血筋を持つ、現代の日本人を狙って、あの黒いモヤが放たれた可能性があるのだ。


 どこまでが真実なのかは分からない。


 しかし、これまでに突然自殺した人の名字を他にも調べてみると、分かる範囲で見た限りでも、確かに「藤原」「秦」「秦野」「蘇我」などの苗字が散在しており、他の苗字の人々も、旧姓を辿っていけば、もしかしたら「秦」「秦野」等の苗字に行き着くのかも知れない。


 昔、俺の両親に祖先の家系図について聞いた事があった。


 すると父から「生粋の農家の家系」だと、ガハハと笑いながら聞かされたのだった。

 母方も小姓の家系だそうで、今耕している農地も、室町時代から受け継がれてきた農地なのだそうだ。


 となると、俺の家族や俺自身の身は安全かも知れない訳だが、まだ確証が得られた訳では無い。


 隣に住む山脇の妻にも旧姓を確認してみたいところだ。


 もし山脇の祖先がそうした苗字だったとしたら、これはもう偶然と片付けるには無理があるのではなかろうか。


 アメリカの諜報機関は、俺達が普段使っているSNSのやりとりを無断で見る事も出来るらしいし、家系を調べる事など簡単だろう。


 ならば、そうした家系が狙われていたと考えると辻褄は合う。


 辻褄が合うという事は、それが間違いでは無い可能性を捨てられない。


 ならば、陰謀論や都市伝説を「嘘に決まってる」と一蹴する訳にはいかない訳だ。


 仮にこれらの情報が事実だと仮定すると、今の世の中の動きに何かのヒントが隠れている筈だ。


 どこかに「予兆」とも受け取れる「何か」があった筈なのだ。


 問題が宗教的な話なら、日本の宗教を想像すればいいのだろうか。


 日本と言えば、神道を軸としながら仏教や儒教とも共生してきた歴史がある。


 半ば強制的に布教に来たザビエルによってキリスト教が知られる事になったが、紆余曲折ありながらも、現在の日本はイスラム教やユダヤ教だけならず、新たに生まれた宗教さえも共生出来る社会になっている。


 それこそ「神国日本」と言わんばかりに。


 しかしそれは、海に囲まれた日本だからこそ成し得た事かも知れない。


 古代文明時代のイスラエルは、隣国から何度も侵攻を受け、やがて神を祀るエルサレムの神殿を破壊されてしまった。


 住処を追われたユダヤの10氏族は、それぞれが散り散りにイスラエルを出て行くしか無くなり、そのうちの1つ「スファラディユダヤ人」が日本へと辿り着いたとされる。


 そして、辿り着いた日本の風習に合わせて秦氏と名乗り、奈良に都を築き、そこでひとときの平穏を得る事が出来た。


 10氏族が不在になったエルサレムでは、ユダヤの神殿が破壊され、その場所にイスラムの神殿「岩のドーム」が建てられた。


 ユダヤの氏族のうち、フランスやイギリスに辿り着いた他の氏族達は、そこでも差別や迫害を受けた為、マフィアとして活動しながら資金を作り、平穏に過ごせる場所を求めて大西洋を渡り、やがてアメリカを建国した。


 そうして時代が進み、近代世界になる中で、アメリカは軍事によって世界的な地位を築き、エルサレムの地に帰る為に様々な情報を集めた。


 そしてユダヤ人は、かつて神殿があった筈の場所に、イスラム教の神殿が建てられている事を知った訳だ。


 それはユダヤ人にとって最大の屈辱であり、その恨みは世代を越えて受け継がれていた。


 アメリカの様々な陰謀により、世界は戦乱の時代になる。


 そして、第二次世界大戦の後、戦争に勝ったアメリカは、悲願だったイスラエルの建国を支援した。


 しかし、まだイスラムの神殿を破壊出来ていない。


 いまの力だけでは、イスラム教を滅ぼすだけの力は無い。


 イスラム教信者は、キリスト教信者に次いで大勢おり、ユダヤ教信者などは少数でしか無いからだ。


 そこでアメリカは「イスラム国」を名乗るテロ集団を作り、ヨーロッパで数々のテロを起こさせた。


 世界の世論を「イスラムは悪だ」という方向へと誘導したかったからだ。


 世界はインターネットの普及によってプロパガンダがしやすい環境になっていた。


 それに乗せられた世界の国々は、「世界の平和の為に」と本気で信じ、イスラム国を名乗るテロ組織と戦う決議をしていた。


 しかし、そこにロシアが加わってから迷走する事になる。


 ロシアは「イスラム国を名乗るテロ組織を破壊する」と協調し、武力を導入して攻撃を始めたのだ。


 ロシアは知っていたのだ。


「イスラム国」が、アメリカの陰謀によって作られ、資金集めの為にイスラム教の国々との戦争が作られる可能性があった事を。


 それを見透かされていたアメリカは、ロシアを先に潰すべきだと考え、今度はウクライナ戦争を計画する。


 ロシアとの国境付近、ドネツク州に住む「親ロシア派のウクライナ人」を、ネオナチ組織が迫害するという計画だ。


 ロシアは再三に渡るドネツク市民からの救援要請を受けていたが、裏でアメリカが糸を引いている図式を理解していた為に第三次世界大戦に発展しかねない状況と判断し、なかなか助けに行けないでいた。


 しかし、アメリカとの外交によって「NATOは介入しない」との口約束を得て、ロシアはとうとうウクライナに侵攻を始めたのだ。


 それはアメリカの思う壺だった。


 アメリカは瞬時に手の平を返し、世界を巻き込んでロシア非難を開始した。


 当然、日本はアメリカ側に付き、ロシアに経済制裁を加える事になった。


 ロシアを倒せば、イスラム教国家を倒す事が出来る筈。


 しかし、ロシアはなかなかにしぶとく、なかなか倒せない。


 痺れを切らしたアメリカは、今度はパレスチナのガザ地区に潜ませていたハマスというテロ組織を動かす事にした。


 ハマスにイスラエルを攻撃させる事で、イスラエルがパレスチナを滅ぼす口実を作ったのだ。


 ユダヤ人の悲願は眼の前まで迫っている。


 もう手の届くところまで来ているのだ。


 いったい、いつからこの様な動きが進行していたのか、俺は世界の出来事をつぶさに調べて行った。


 そういう視点で世界を見渡せば、こうした事の「兆し」は確かにあった。


 いや、むしろ世界で起こる全ての事件や災害は、全てが繋がっていたと言ってもいい。


 今やアメリカの金融、食糧、医療、軍事、政治までを支配した彼らは、どんな手を使ってでも日本人に紛れた「裏切り者の同胞」を捜し出し、復讐する事が出来る。


 その為の準備も完了している。


 戦後70年かけて、彼らはずっと準備してきたのだ。


 インターネットを普及させた事、スマートフォンを普及させた事、SNSを普及させた事、ワクチンを打たせた事、電磁波に反応する添加物まみれの食料を流通させた事…


 それら全てが彼らの計画に繋がっており、それを俺達庶民は「便利でいいね」「安くていいね」と愚かにもそれらを提供されるままに受け入れて来たのだ。


 表社会には公表されていない技術を使って、あの黒いモヤを操作し、本人が気付かないままに脳に影響を与える事など、容易い事だろう。


 これまでに「兆し」は沢山あったにも関わらず、俺達は盲目的に信用してきたワケだ。


 それを「兆し」と受け止められなかった大多数は「あの政治家は駄目だ」とか「あの国は駄目だ」とか、何かしら心の中に敵を作って口撃する事で溜飲を下げてきた。


 そして「兆し」に気付くかも知れない者達には、仕事やイベント事でスケジュールを埋め尽くし、余裕を無くす事で視界を塞いで来た訳だ。


 そうして日本人は長い年月をかけて、少しずつ白痴化されてきた訳だ。


 この俺自身を振り返れば、思い当たる事は沢山ある。


 便利なアイテムだとスマートフォンを使って来たが、気が付けば俺は、自宅の電話番号さえ覚えておらず、書類に手書きで文字を書こうとしても、漢字が出て来なくて書けない事もしばしばあった。


 他人の表情を読み取る事も少なくなり、メールのテキスト情報だけで相手を知っている気になっていた。


 佐智子との関係もそうだ。


 交際していたから直接会う事は勿論あったが、交際の決め手が「美人だから」とか佐智子も俺が「お金を稼げそうだから」だなんて、相手の人格には触れてさえ居なかった。


 最後の喧嘩も、結局はSNSで済ませただけで、直接顔を合わせて話した訳じゃないのだ。


 社会が便利になってゆくにつれて俺達は自然とこのような価値観になっていた。


 自分で選んだ道だと、そう思い込んでいた。


 けれど、もしもとしたら?


 人生80年を生きれば大往生だなんて価値観の俺達と、2000年に渡る怨恨を受け継ぎ続けてきた者達が、同じ価値観である筈が無い。


 日本に2600年の歴史があると言っても、たかだか300年前の、徳川15将軍の名前さえ興味が無い様な俺達に、2000年の怨恨を、途絶える事無く受け継ぎ続けてきた者の気持ちなど、分かる筈も無いのだ。


 ならば、あの「黒いモヤ」もそうじゃないか?


 何故日本人を殺したいのかなども含め、そもそも俺達に理解できる訳は無かったのだ。


 ならば、もう俺達に出来る事など無いのではないか?


「だけど…」


 と俺は思う。


 本当に、俺達には何も出来ないのか?


 このまま「座して死を待つ」だけでいいのか?


 日本人が淘汰され、外国人に乗っ取られる未来を受け入れるしか無いのか?


 そんな訳が無い。


 何かある筈だ。


 戦後に壊滅状態からここまで日本を復興させてきた民族だ。


 俺はその血筋では無いかも知れないが、それでも日本人として生きていたんだ。


 祖先の魂の一端を担う事位は出来るんじゃないのか?


 ならば動こう。


 佐智子や菊子の敵を討とう。


 そうすれば、俺が生きた証を残す事も出来る筈だ。


 敵に気付かれない様に。


 敵がその兆しに気付かない様に…


 俺はそんな決意を胸に、「まずは腹ごしらえだな」と、買い物に行こうと玄関に向かうのだった。

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