第14話 眼前の事故

 11月7日、月曜日。


 俺は朝から都庁に向かって車を走らせていた。


 首都高は錦糸町あたりから酷い渋滞だったが、それでも構わない。


 今やいつどこで誰が突然自殺をしたり暴漢になったりしてもおかしくないのだ。


 都内は現在も緊急事態発令中で、自動車で環状7号線から都内側に入る幹線道路は通行止めになっていた。


 首都高の一之江ランプは閉鎖されていた様だが、手前の京葉道路のインターは通行できたので、混雑はしていたが京葉道路からそのまま首都高に入る事が出来た。


 本当に、中途半端な規制だ。


 未だに政府がやろうとしている事の真意が見えて来ない。


 都内への人や車の流入を抑える施策という事だが、こうして簡単に車で都内に入る事も出来るし、鉄道などは規制が無いから更に簡単に都内に移動できる。


 水際対策がどうのと首相がテレビで発言していたが、実際に人の流入が抑えられているかは疑問だし、そもそもバイオテロや感染症に対する対策としては、対策が「ザル過ぎる」と言わざるを得ない。


「やっと合流か・・・」


 俺の車は、ようやく両国ジャンクションで環状線に合流できるところまで来た。


 目の前には貨物用4tトラックが右ウインカーを出しながらゆっくりと前進をしている。


 俺も右ウインカーを出しながら、流れをトラックに譲った乗用車の後ろに入ろうと、乗用車のドライバーを先に行かせ、その後ろの軽トラックのドライバーにアイコンタクトを送ろうと、サイドミラーを見ながらゆっくりと近づいた。


 しかし、軽トラックは突然加速して、前を走る乗用車との間を詰めてしまった。


「何だよ、わざわざ詰めなくてもいいだろうに…」

 と俺はボヤいたが、その直後、更に後ろから高級外車がエンジンを唸らせて加速し、軽トラックの荷台を押し潰す勢いで衝突した。


「何だ!?」


 咄嗟の事に驚いてブレーキを踏んだ俺の目に、追突された軽トラックが更に前を走る乗用車に追突し、その乗用車も追突された反動で、先程まで俺の前を走っていた貨物トラックにぶつかった。


 高級外車は俺のすぐ横で、今もなおアクセルを踏みっぱなしなのか、唸りを上げるエンジンと、地面をスリップするキュルルという音がけたたましく鳴り響いている。


 俺は高級外車のドライバーの顔を見ようと覗き込むと、まだ30歳位のドライバーの目は虚ろで、その頭部には、あの黒いモヤがかかっている様に見えた。


「まさか…」


 軽トラックはボディが歪んでしまったのか、ドライバーが出てくる気配が無い。


 その前の追突された乗用車のドライバーがハザードランプを点滅させた車から降りて、いまだ白煙を上げてタイヤをきしませる高級外車の方へと駆け寄り、運転席のドアを開けて、車のエンジンを切った様だ。


 途端にタイヤの軋む音は消えたが、


「おい! 何やってんだアンタ! 返事をしろ!」


 と怒鳴る男の声が高級外車の運転席に投げかけられるのが聞こえている。


 本線に合流できずにいた俺は、運転席の窓からその様子を見ていた。


 高級外車の運転席の扉が開き、よろける様に立ち上がるドライバーの男を、怒鳴っていた男が目を見開いて後ずさった。


 何故なら、立ち上がった男の頭部には、確かに黒いモヤがかかっていたからだ。


「おい、アンタ…、その頭…」


 とそこまで言って次の言葉を飲み込んだ乗用車のドライバーは、目の前の若い男の頭部にかかる黒いモヤが徐々に黒さを増して、そして服の隙間から胸元へと入り込んでいく様を見ていた。


 俺もその一部始終を見ながら、

「まだ続くのか・・・」

 と唸る様に呟いたが、次の瞬間、俺はハザードランプを点けてシフトレバーをパーキングに入れた。

 後方確認をして運転席のドアを開けて車を降りた俺は、まだフラフラとしている高級外車のドライバーが、かすかに「いー・・・」と声を上げるのを聞きながらその男の背後から近づき、その男が高さ1メートル程しかない道路脇のコンクリート壁に向かって走り出そうとする直前に、その男の両脇から腕を入れて羽交い絞めにした。


「おい! この男を取り押さえてくれ!」

 と俺は乗用車のドライバーにも声をかけ、声をかけられた男は

「え? 何?」

 と混乱している様だ。


「いいから早く!」

 と俺は語気を強めてそう言った。


 男は慌てた様にこちらに近づくと、俺に言われるままに俺が羽交い絞めにしている男の両足に抱き着く様にして抱え上げ、その場に二人で組み伏せる事が出来た。


 組み伏せられた男は「いー、いー・・・」と声を上げながら、その目はうつろで、その視点はどこにも照準が合っている様には見えない。

 少し暴れる様な仕草は見せたが、その力はそれほど強く無く、俺ともう一人の男で簡単に組み伏せる事が出来た。


 俺は、学生時代に柔道で習った「けさ固め」の体勢へと移行し、空いた右手でスマートフォンをポケットから取り出して110番通報した。


「警察です。事件ですか?事故ですか?」


「事故だ! 事件でもある!」

 と俺は叫んだ。


「今どちらですか?」


「首都高の両国ジャンクションの上りの合流地点だ! 運転者が車から出られない軽トラもある! 早く来てくれ!」


「怪我人は居ますか? 救急車は呼びましたか?」


「救急車はまだ呼んで無い! 最低でも2台は必要だ!」


「分かりました。 近くのパトカーをすぐに向かわせます。 救急車はこちらで呼んだ方がいいですか?」


「ああ、そうしてくれ! とにかく急いでくれ!」


 必要な事とは分かっていても、くどくどと質問ばかりしてくる電話口の警察官に俺はイライラしながら、最後は怒鳴る様に声を荒げていたのだった。


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 パトカーが3台、首都高の2車線を規制していた。


 救急車は2台やってきており、警察官と救急隊員が軽トラックのドライバーを運転席から救出し、ストレッチャーに乗せて救急車へと運んでいる。


 そして、俺が取り押さえていた高級外車のドライバーを警察官へと委ねてから、俺は自分の車へと戻り、道路の脇に停車したまま運転席で警察の事情聴取が始まるのを待っている。


 幸い、俺は怪我も無いし車も無事だ。


 目の前で事故を目撃するのもこれで2度目、あの黒いモヤを見た時から頭のどこかで「最悪の事態」を想像していた事もあって、死者が出なかった今回の事故には「ほっとしている」というのが正直なところだ。


 一通り、車路に飛び散った自動車の部品などを除去した警察官が、道路の規制を1車線分緩和した様だ。


 とんでも無い渋滞に発展していた首都高だったが、警察官の交通誘導によって、徐々に車の流れが生まれていた。


「はあ・・・、まったく。都庁に行く事さえままならないのか・・・」


 俺はため息をつきながら、徐々に流れ出した車の流れを眺めていると、一人の警察官が俺の車へと近づき、運転席の窓をコンコンとノックした。


 俺がウインドウを降ろすと、


「いやぁ、お待たせしてスミマセンね。あなたも通報者という事で宜しかったですか?」


「ええ、そうですが・・・、 あなたって事は、他にも誰か通報した人が居たって事ですか?」


「ええ、通報は3件ありましてね。事故の通報が2件と、事件の通報が1件。まあこれは、あなたが男を取り押さえていたのを見て『事件』だと思い込んだみたいですがね」


「そうですか・・・」


 俺は周囲を見回したが、事故に関連する車両が4台と、あとは俺の車しか停車させられている車は居ないので、恐らく「事件」と通報した者は既にここには居ないのだろう。


「で、事故の状況についてお話をお聞きしたいんですが、助手席に座らせて貰ってもいいですか?」

 と車内を見る警察官に、

「ああ、どうぞ」

 と言いながら、助手席に乗せていたバッグを後部座席へと放り投げた。


 助手席に乗り込んだ警察官は、手にしていたバインダーを開き、胸ポケットからボールペンを抜くと、バインダーにじられた用紙に今日の日付や時刻を記入してゆく。


「まずは、あなたの免許証をお見せ頂けますか?」


 という言葉に、俺は財布から免許証を出して警察官に手渡した。


佐藤啓二さとうけいじさんね」

 と言いながら用紙に俺の名前を書き込んだ警察官は、「はい、どうぞ」

 と俺の免許証を返す。


「救急車で運ばれた、そこの外車の運転手は大丈夫なんですか?」

 と俺はそう訊いた。


「ああ、救急車に乗れましたんで、あとはどこかの病院に搬送されれば、こちらにも連絡が来ますんで大丈夫ですよ」


 違う、そんな話が聞きたいんじゃない。


 しかし俺は、交通課の警察官に「黒いモヤ」の話などしても無駄なのかも知れないとも思っていた。


「で、事故の経緯についてお聞きしたいんですが」


 と訊く警察官に、俺は事実の通り話す事にした。


 黒いモヤの話だけは伏せ、あとは高級外車のドライバーが運転席からフラフラと立ち上がって、高架道路の側壁に向かって走り出そうとしていた事。そしてそれを俺が後ろから羽交い絞めにして取り押さえた事まで、その顛末を詳細に離した。


 一通りの話を終えると、警察官はバインダーの用紙にペンを走らせていたが、


「どうして外車のドライバーは、側壁に向かって走り出そうとしたんですかね?」

 と訊いた。


「そんな事、私が知る訳が無いでしょう。ただ、最近テレビでよく見る『自殺願望者』とやらの可能性を疑った方がいい気がしますがね」


 と俺がそう言うと、警察官は用紙にペンを走らせながら、


「やっぱり、そうかも知れませんねぇ・・・」

 と呟く様に言った。


「あの・・・、『やっぱり』って事は、他にもこんな事例があったという事ですか?」

 と俺が訊くと、警察官はこちらを見ながら、


「いえいえ、気にしないでくださいね。我々も、あの事件については詳しく知らされていないんですよ」

 と苦笑している。「ただ・・・、先月、私の弟が自殺したんですよ」

 と続けた警察官の方を見て、俺は目を見開いた。


「あの・・・、もしや、あなたの弟さんは市川市いちかわしとか船橋市ふなばししの方にお住まいだったんですか?」


 俺は思わずそう訊いていた。


 警察官は驚いた様に顔を上げ、

「どうしてそれを?」

 と訊いた。


「そう訊くという事は、やはりそうなんですね・・・」


 俺はそう言いながら、身内に被害者がいるこの男ならば、あの「黒い球」の事を話しても良いのではないかと思った。


 味方に警察官が居るのは何かと便利な筈だ。


 都庁なんかでも色々と情報が引き出しやすいかも知れないし、警察署内でも情報を集めてもらえるかも知れない。


 何より、「身近に被害者がいる」という境遇の人間が周囲に居るのは、この男にとっても良い事の筈だ。


 そう思った俺は、助手席の警察官の方を真っ直ぐに見返し、


「実は・・・、私の婚約者も先月自殺をしましてね」


 と、そう話し出していたのだった・・・

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