第10話 緊急事態発令

「私が主人の頭の周りに黒いモヤが見えたのは今日の夕方の事です」

 と山脇裕子がそう言った。


 玄関先での立ち話をする訳にもいかず、俺は裕子を部屋に入れる事にした。


 自宅には息子が一人で寝ている筈なので、あまり長居させる訳にもいかず、俺は単刀直入に裕子の夫に取り憑いたと思われる「黒いモヤ」について質問をしていた。


「主人が夕食の買い物に行ってくれて、帰って来た時に気付いたんです」

 と裕子は続ける。


 裕子の話によれば、夫の山脇は、買い物から帰って来た時にはいつも通りだったという。

 しかし、頭の周りに黒い霧の様なものが見え、裕子が

「頭の周りのそれ、何なの? 部屋が汚れると嫌だから、とりあえずシャワーを浴びてらっしゃいな」

 と言ってから、山脇の表情が豹変したのだとか。


 それまではいつも通りだった夫が、突然裕子の事を「つまらない物」でも見る様な目になり、「らー・・・」と、歌とも言えない声を出して部屋の中をフラフラと歩き出したらしい。


 裕子は夫が自分の言葉に機嫌を損ねたものと思って見ていたが、頭の周囲にあった霧が山脇の頭にこびりつく様に見え、そしてそれが色を濃くしながらシャツの襟もとから服の中へと入り込んでいく様にも見えたという。


「あなた、一体どうしたの? どこか具合が悪いの?」

 と裕子が言った途端、夫がベランダの方へと速足で歩きだし、ベランダのガラス扉を開けたかと思うとタバコを吸いだし、一言二言何かを話したかと思うと、ベランダの手すりによじ登って突然飛び降りたのだと言う。


 あの時の女と同じだ・・・


 菊子と俺が見た出来事とも合致する。


 しかし山脇は、タバコの煙がこちらに来る事を気遣う様な素振りを見せていた。


 しかしそれも時間にすれば10秒程度の事。


 山崎の頭の周りには黒いモヤが見えたし、山脇は俺達の目の前でベランダから飛び降りた。


 俺は同時に、先日目の当たりにした、道路に飛び出した女の事を思い出していた。


「私・・・、あの黒いモヤが、何か霊的なものの様に思えてきて・・・、でも、そんな話はバカバカしくも思えて、どうすればいいか分からなくて・・・」

 と言う裕子に、俺は

「その話は警察にはしましたか?」

 と訊いてみた。


「ええ・・・、一応話してはみたんですが、事情聴取に来られた警察官には『気が動転しているせいで幻覚を見たのかも知れない』と言われました・・・」


「そうでしたか・・・」


 俺がそう呟いたまま黙っていると、部屋の中にテレビ報道の声が聞こえて来る。


「政府は、東京都内の各所で起きている暴動の鎮圧の為に、首相官邸に災害対策本部を設置し、自衛隊への暴動鎮圧要請を出しました。また、総理はつい先程、会見を開き、東京都内を『緊急事態』と指定し、規定に則り、環状7号線を境に、外部からの車両を防ぐ交通規制を敷く事を発表しました」


 ニュースキャスターは興奮した声で総理大臣の会見の中継を見ながら解説している。


「東京は大変な事になってるわね」

 と、それまで俺の隣で裕子の話を一緒に聞いていた菊子がそう口を開いた。


「ああ、まるで大地震の時の対応みたいだな」


 菊子のセリフにそう応えた俺だったが、東京は事実、まるで大震災にでも遭ったかの様な混乱状態にあった。


 裕子もテレビの方に視線を向け、

「東京でも、主人と同じ様な症状の人が大勢いるという事ですよね・・・」

 と呟いた。


 俺は何を言っていいか分からず、ただ

「そうかも知れませんね・・・」

 と言ったままテレビの方を見る事しか出来なかった。


 それにしても、この事態をどう捉えれば良いのだろうか。


 政府がどこまで情報を持っているのかは分からないが「緊急事態」を宣言した事もそうだし、自衛隊を出動させた事からしても、尋常では無い事が起きているのは確かだ。


 しかし、自衛隊が出動するのは良いが、彼らが行うのが「暴動の鎮圧」なのか、「自殺行為を止める」事なのか、政府が公表した内容だけでは分からない。


 ただ、「不要不急の外出を避けて、他人との接触も極力避ける様に」という号令が発せられており、それはまるで、危険な感染症の蔓延を防止する為の様にも見える。


 もしかしたら政府は、これらの奇行を行う人々が「何らかのウイルスに感染している」と考えているのかも知れない。


 だとしたら、それは「バイオテロ」を指すのかも知れない訳だ。


 仮にそうだとして、テロ組織とはどこの組織なのだろうか。


 物理的に宙に浮き、空中で拡散する黒い玉の様なバイオ兵器などこれまで聞いた事が無い。


 小さな組織という訳では無い筈だ。


 だとすると、国家レベルの規模で行われたテロなのだろうか。


 そして政府はその情報を知っていて、しかしパニックを避ける為に情報を公開しないという事なのだろうか。


 しかし、それなら今回の対策は随分とチープにも見える。


 もっと「自宅にこもって決して外出しない様に!」と強制した方が良さそうなものだ。


 政府はあの黒いモヤの様な物が「どの程度の危険度か」を計りかねてるのではないだろうか。


「何だか、政府のやってる事ってトンチンカンな感じがするわよね」

 と菊子がテレビから目を離して言った。


「どういうところが?」

 と俺が訊くと、菊子は「うーん・・・」と腕を組んで目を瞑り、しばらく考え込んだかと思うと、


「例えばさ」

 と話し出した。


 菊子の話はこうだ。


 もし「黒いモヤ」の事を政府が認識していないのだとすれば、「緊急事態」とは「人々が暴漢になりつつある事」を指している筈であるという事。


 だとすれば、他県からの人の流入を防ぐのではなく「他県への流出を防ぐべき」だというのに、政府は「流入を防ぐだけで、流出は制限していない」様に見えるという。


 逆に、もし「黒いモヤ」を認識しているのだとすれば、さっきの俺の考えと同じ様に「戒厳令」を出して、人々が決して外に出ない様に制限しなければ、原因を追究しにくいのではないか。


 そして、「黒いモヤ」の認識の有無に関わらず、自衛隊がやっている事は「暴漢の鎮圧と、被害者の救助」であり、混乱の原因を追究しようとしている様には見えないのだという。


「つまり、政府がやってる事って、あくまで対症療法であって、本来の問題解決をしようとはしていない様に見えるんだよね」

 と菊子は締めくくった。


「確かに・・・」

 と俺も呟きながら裕子の顔を見ると、裕子は心配そうに俺の顔を見るだけで、押し黙っている様だった。


「政府の情報収集能力が欠如しているのか、それとも分かっていながらわざとやっているのか・・・」

 と俺が声を出すと、菊子が驚いた様に


「わざとやってるんなら、それこそ大問題よ。さすがにそれは無いと思うけどね」

 と言って裕子に同意を求める様な視線を送った。


 しかし裕子は菊子の視線を真っ直ぐに見返し、


「それは・・・、どうでしょうか」

 と言った。


 思いもよらぬ反応に俺は驚き、

「どういう事です?」

 と裕子を見ながらそう訊くと、裕子は俯き加減で首を横に振り、


「主人は財務局に務める公務員でしたが・・・、大臣に忖度そんたくした政務官が、裏で色々悪い事をしているのを見聞きした事があると言っていましたので、一概に政府を信用できないというか・・・」


 恐る恐るといった表情で話す裕子に、俺は「そんな、まさか・・・」と言ったまま絶句した。


「なあんだ、お役所もそんな感じなんですね」

 と菊子は、驚く程にあっけらかんとしてそう言う。


「おいおい菊子。公務員が清廉潔白せいれんけっぱくだとは思わないが、さすがにそれは無いんじゃないか?」

 と俺が言うと、菊子は「そう?」とからかう様に俺を見て、


「あなたが居た会社も、世界有数の金融会社よ? テレビでもCMしてるような大企業が、裏では平気で不正をしていたんでしょ?」

 と言った。


「それは・・・」

 と言ったまま俺は言葉が続かなかった。


 そうだ。


 俺が居た会社も、当たり前の様に不正をしていた。


 それを指摘した俺を、左遷させんしようとした程だ。


 テレビCMでは「お客様の為に、精一杯のサービスを!」などと言っておきながら、実際には「どうやって顧客から金をむしり取るか」「どうやって税金を減らすか」「どうやって法を掻い潜って利益を増やすか」しか考えていなかった。


 公務員だって同じ人間だ。


 もしかしたら、そうした「利権」に絡む不正があったとしても不思議では無い筈だ。


 むしろ、過去にもそうした報道は何度もあった。


 その度に「公務員ともあろうものが」と思って見ていたが、もしかしたら、公務員の不正など日常茶飯事で、ただ表面化していないだけの事なのかも知れない。


 だとすると、そんな不正だらけの状態を放置している政府にも、それ相応の利益があるという事なのだろう。


 では、今回の政府の対応とは何だ?


 政府は何の「利権を守る為」に、この様なトンチンカンな対応をしているんだ?


 国民には「国民を守る為に精一杯努力する」と言いつつ、実際には「何かの利権を守る為に国民を犠牲にしている」可能性があるのだとすると、その「利権」とは何だ?


 そして、この「黒いモヤ」の正体とは何だ? その「利権」とどう関係する?


「そもそも、今回の出来事が前代未聞の未知の出来事なんだ。全ての可能性を排除せず、その可能性も考えるべきなんだろうな」

 と俺は菊子と裕子の顔を見ながらそう言い、「仮に政府が何か企んでいるとして、その目的は何だと思う?」


 と俺は二人に訊いた。


 すると菊子が「その前に」と俺を制し、


「裕子さんはそろそろ帰った方がいいんじゃない? お子さんがいつまでも一人なのは心配だわ」

 と言って俺に目配せをした。


 俺はその目配せの意図が計りかねたが、

「確かにそうだな」

 と言いながら裕子を見て「裕子さん、すみません。長い間引き留めてしまって・・・」

 と続けて頭を下げた。


「いえ・・・、私も誰かに黒いモヤの事を聞いてもらいたくてこちらに伺ったので、とても助かりました」

 と裕子もゆっくりと頭を下げた。


「また何かあればいつでも訪ねてきてください。私の連絡先をお伝えしておきますので、助けが必要な時はいつでもいいので連絡して下さいね」


 俺は携帯の電話番号とメールアドレスを裕子に伝えると、裕子からショートメッセージで連絡先情報が送られて来た。


「ありがとうございます」

 と礼を言って立ち上がる裕子を玄関まで見送り、俺と菊子は再びリビングのソファに座ってテレビ報道へと目を向けた。


 報道特番は夜通し放送される様で、画面の下側には文字放送も行われている。


 そこには、現状で確認された死者数と怪我人の数が表示されており、そこにはこう表示されていた。


 死者:152人

 けが人:3240人


 その数字は時間と共に増加しており、明日の朝には一体どれだけの数字になっているのだろうか。


「おいおい・・・、大地震じゃあるまいし、この数字は何が何でも・・・」

 とそこまで言った俺は、「いや、常識的な事を言っても始まらないな」

 と自分自身に言い聞かせる様にして首を横に振った。


「もう、夜中の3時よ」

 と菊子がテレビ画面に表示された時刻を見て言ったのだった。


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