第9話 ディストピア

 10月29日、土曜日の深夜。


 俺と菊子の目はテレビの画面に釘付けになっていた。


 都内ではビルからの飛び降り自殺が多発し、西新宿周辺でも道路のあちこちに死体が転がる惨状が広がっていた。


 事態を重く見た政府が、自衛隊への緊急要請を出した。


 都内の消防署は、鳴りやまぬ緊急通報に混乱をきたしており、救急車は既に出払っていて通報への対応もままならない状況になっていた。


 警視庁は警察官を総動員して飛び降り自殺が出来そうなビルへと入り込み、屋上への入口を封鎖したり「あー」「ふー」等とまるで歌でも歌っているかの様に声を発している無表情な人々への説得を行おうとしていた。


 それは、まるでゾンビ映画のワンシーンの様にも見える。


 人々がどんどんゾンビに変貌してゆき、人間を襲いだすホラー映画。


 現実に起きているのは「人々を襲う」のではなく「自ら死のうとする」人々が群れている状態だ。


 夕方に代々木公園の上空に現れた黒い球体。


 その影響かどうかも知らない人々が、次々と黒いモヤの餌食となって、自らを死へと向かわせる。


 それはまるで、レミングの「死の行進」を思わせる景色だった。


 テレビの画面の中では、リポーターが「ほー!ほー!」と口走りながら歩道橋から飛び降りようとしているOL風の女を必死で止めようとしている姿が映された。

 それを周辺に居た人達が手を貸して、その女を歩道橋から引きずり降ろして警察官を大きな声で呼んで助けを求めている。

 駆け寄って来た警察官は、暴れる女を抑え込み、やむなく背中に回した手と足を手錠でつなぎ止めて動けなくしていた。


 テレビ画面は別の場所へと切り替わり、そこは丸の内周辺のオフィスビル街が映っていた。


 そこは新宿程の騒ぎにはなっていないが、丸ビルのテラスから突然飛び降りたと見られるサラリーマンの死体が東京駅前のロータリーから撮影されていた。


 テレビ局はどこのチャンネルも他の番組の予定を変更して、ニュース特番を流していた。


 自殺をした者達の数はどんどん増えてゆき、警視庁が確認できているだけでも2000人を超えたとされている。


 しかし、画面に映る「死にたがり」の姿は、そんな程度じゃ収まらない。


 このままいけば、被害者が1万人を超えるのも時間の問題だろう。


「まるで、地獄じゃないか・・・」

 と俺は呟いた。


 菊子も震えながら

「ええ・・・」

 とだけ呟いた。


 目の前で突然人が死ぬ。


 今まで楽しく会話を楽しんでいた相手が突然、別人の様に無表情になって、まるで誰かに操られているかの様に自らを死へと向かわせる。


 それを見た人間も平静ではいられない。


 狂気が狂気を呼び、それが周囲の者にも伝播する。


 やがて人々は狂気の渦に飲み込まれ、やがて暴動へと変化する。


 現に西新宿では店舗を襲撃する暴漢等も現れ、店の物を強奪していく者まで現れている。


 皆が狂っているのだ。


 東日本大震災の時に「どこにも強奪など起きなかった」と世界のメディアから賞賛された筈の日本人が、今は狂気に飲まれてそこここで強奪、強姦が繰り広げられ出した。


 もうそこには秩序など無い。


 東京は今、ディストピアと化していた。


 新宿に派遣された自衛隊が、暴動を起こす人々に催涙弾を発砲する。


 それで地面に屈みこんだ人間を、別の人間が踏みつけ、人の波が更に同じ光景を拡大してゆく。


 画面に映るリポーターは、風に流された催涙弾の余波を受けて目を瞑りながら

「大変な事が起きています! 自衛隊による抑止も空しく、人々は暴動を起こしています!」

 と叫んでいる。


「一体、何がこうさせたのでしょうか! ある人の話によると、黒い霧の様なものが人々に取り憑き、取りつかれた人が皆おかしくなったと言っていました! 黒い霧とは何でしょうか! 現場はとても混乱している状況です! まるで地獄絵図の様です!」

 リポーターは必死に目の痛みに耐えながらそう叫んでいる。


 そうした同様の状況は、他のチャンネルでも報道されていた。


 新宿や丸の内だけではない、新橋、六本木、日本橋、池袋。


 都内の人間が集中する、ありとあらゆる場所で同じ様な光景が繰り広げられており、その勢いは終息する気配も無い。


 スタジオのカメラに切り替わった画面では、自殺問題に詳しいコメンテーターとして、どこかの大学の教授が席に着いていた。


「これは、個人的な悩み等の問題ではなく、他の原因だと思いますね」

 などと分かり切った事を話すだけで、何も解決の糸口など無い。


「黒い霧の様なものとは一体何なのでしょう?」

 と訊く司会者の質問に、

「それは私にも分かりませんね」

 と自称専門家が答えている。


 他のチャンネルでも画面がスタジオに切り替わった番組があり、そこでも

「黒い霧とは!?」

 というテロップと共に、ゲストとして呼ばれた軍事評論家が

「集団自殺を起こすバイオテロの可能性もありますし、または薬物による自殺衝動を起こしている可能性もあります」

 などと言っているが、「しかしまだ、テロリストによる声明も無い事から、今のところは何とも言えません」

 と言うに留まっていた。


 今はまだ、何も分かっていないのだ。


 黒い球体があの「黒モヤ」をまき散らし、その黒いモヤに取り憑かれた者が自殺しようとする。


 取り憑かれた者の共通点も見つかっていないし、黒いモヤの正体も分からない。


 黒いモヤが生物なのか、化学物質なのか、それさえ分かっていないのだ。


 この時点で自称専門家とやらを呼んだところで、何のヒントも得られないのは当然の事だろう。


「啓二さんは、空に浮かんでたあの黒い球体を何だと思ってるの?」


 菊子はテレビを見飽きたのか、リモコンでボリュームを下げてそう言った。


「さて、どうだろうな。『化学兵器』『未知のウイルス』『幽霊』『宇宙生物』・・・、他にも色々な可能性はあると思うけど、思いつくのはそんなところかな」


「啓二さんが、まさか幽霊とか宇宙生物みたいな話をするなんて、ちょっと驚きね」


「自分でもそう思うけどな、だけど、今実際に起きている事でさえ、1か月前の自分だったら信じなかっただろうさ」


「確かに・・・そうね」


 菊子はソファの上で膝を立てて座り、その膝を両腕で抱く様にしてそう言った。


「この先・・・、どうなっちゃうんだろう。私達も、いつかああして死ぬのかな・・・」


 菊子はそう言ったが、この1週間、俺はずっとそれを考えていた。


 船橋市と市川市の境界付近で、俺が最初に見た「黒い球体」。


 アレが現れるまでは、社会にこんな混乱は起こっていなかった。


 つまり、俺が見たあの「黒い球体」が最初の一つだったのだろう。


 そして今日の夕方に代々木公園の上空に現れた、同じ様な「黒い球体」。


 偶然テレビカメラにも撮影されたは、確かに俺が最初に見たものと同じ物の様に見えた。


 もしこれが幽霊の仕業なのだとしたら、陰陽師だか祈祷師だかが解決すべき問題なのかも知れないが、今テレビ画面に映っている人々の姿は、霊的な何かと言うよりは、突如身体を乗っ取られて、何者かにコントロールされた人形でもあるかの様に動き出すものだ。


 霊的というよりは、もっと直接的な・・・目視出来る何かの筈だ。


 俺だけでなく、菊子もそれを見ていたし、何よりテレビカメラで映像に納める事も出来ているのだ。


 それを踏まえれば、何か特殊な化学物質とか、または小型の生物の様なものの筈だ。


 それが自然発生的なものか人為的なものかは分からないが、自然発生的なものだとすれば、その原因の特定は難しそうだ。


 テレビの報道でも「代々木公園で見た黒い玉が原因ではないか」等と出演者が発言しているものもあるが「デマを拡散させる様な発言は控えて下さい」と、司会者にたしなめられる始末だった。


「せめて、影響を受けた人達の共通点が判ればいいのにな」

 と菊子はそう言ってソファの上で伸びをした。


「影響を受けた人の共通点がどんなものかを考えるなら、佐智子の特徴と、自殺したっていう菊子の友達の特徴を調べてみる事から初めてもいいかも知れないな」


 と俺が思ったままにそう言うと、菊子はっとした様に俺を見て、

「それだ!」

 と指を鳴らした。


「その人の普段の生活とか人間関係、食べた物とか飲んだもの。普段どんな薬を飲んでるかとか、どんな病気に罹ったかとか、とにかく思い付く事をリストにして、自殺した人の近親者とかに訊いて回るのがいいんじゃない?」


「おいおい、それはそうかも知れないけど、そんな暇なんてあるのか?」


「私は友達に聞いてみる位しか出来ないけど、啓二さん、今は無職なんでしょ?」


 ああ、そういう事か。


 来週から就職活動をするつもりだったが、都内は既にディストピア状態だし、まともに面接対応を出来る企業も少なそうだ。


「まぁ、仕方が無いか」

 と俺はそう言い、「出来る範囲でやってみるよ」

 と菊子の期待に応えようと思った。


「もし・・・」

 と俺は菊子を見た。


「何?」


「いや、もしも俺が自殺する様な事があれば、その原因はあの黒いヤツだと、菊子はそう思っていて欲しいと思ってな」


 菊子はしばらく言葉を詰まらせる様に俺を見ていたが、


「分かったわ。もし、私が同じ事になっても、その原因は、あの黒いヤツだと思ってね」


 菊子はそう言うと、スマホを手に取って、ラインで誰かとやり取りを始めた様だった。


「とりあえず、俺はお隣さんを訪ねてみるよ」


 俺はそう言って玄関の方へと向かい、隣の部屋の住人を訪ねてみようと思った。


 しかし、俺が玄関にたどり着く前に突然玄関のチャイムが鳴り、俺は菊子と顔を見合わせた。


「誰だろう・・・」


「刑事さんとか?」

 と菊子が言うのを聞きながら、俺は玄関扉の覗き穴から扉の外の様子を伺うと、そこには隣の部屋の住人、飛び降りた男の妻が独りで立っているのが見えた。


 俺は玄関扉の鍵を開け、ゆっくりと扉を開けると、


「遅い時間にすみません。隣の山脇ですが・・・」

 申し訳なさそうに挨拶をした山脇の妻は、「夫の事では大変ご迷惑をおかけしまして、そのご挨拶が出来ていなかったので・・・」

 と言いながら深くお辞儀をした。


 確か名前は山脇裕子といっただろうか。年は30歳前後で、まだ小学校低学年の息子が一人いる筈だ。


「どうぞお気になさらず。今日は警察も来て、遅くまで現場検証されていた様でしたし、今は大変傷ついておられるところでしょうから・・・」

 と俺は社交辞令的な気遣いをしたが、「しかし、実は私も山脇さんを訪ねようかと思っていたところでもあったんですよ」

 と続けた。


 裕子は頭を上げて

「はあ・・・」

 と不思議そうな顔をしていたが、


「実はね、私の・・・、何と言うか、付き合っていた恋人が東京に居たんですが・・・」

 と、佐智子が自殺した事や、その帰りに道路に飛び出した若い女の事。更に先日向かいのマンションで飛び降りた若い男の事など、目撃した時の事を簡潔に話す事にした。


「それで、その黒いモヤが人間に取り憑く原因を探ろうと思っていまして、ご主人が普段どんな生活をしていた方だったのか、お話を伺えればと思っていたところだったんです」


 俺はそこまで言って、はっと姿勢を正し、

「い、いや、私ばかり喋ってしまってすみません。今は山脇さんの方が大変なのを解っていながらこんな事を・・・」


 と俺は頭を掻きながらそう謝罪しながら裕子を見たが、裕子は目を見開いて俺を見ていて、

「そんな・・・」

 と両手で口元を押さえながら震えた声を漏らした。


「山脇さん?」


 俺は心配になってそう声をかけたが、山脇裕子から帰って来た言葉は、


「あなたにも、?」


 だった・・・

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