第8話 暗闇に潜む漆黒
「すると、あなた方と普通に挨拶を交わして、その時は何も異常は認められなかった訳ですね?」
この警察官と会うのはこれで2度目だ。
俺の部屋に訪れたその警察官は、自らを黒田と名乗った。
先日、向かいのマンションから若い男が飛び降りた時も、俺が目撃者だという事で、情報を聞きに来た事がある。
そして今回も通報者が俺だという事で、目撃者として事情聴取を受けている訳だ。
菊子はリビングのソファでまだ放心状態だ。
ダイニングのテーブルに向かい合った俺と黒田という警察官は、ほんの2時間前に起こった隣人の飛び降り自殺についての事情聴取を行っているところだった。
「いやはや、参ったな・・・」
と黒田という警察官は頭を掻きながら、「今回と同じ様な、原因不明の自殺者が今週だけでもう200件以上ですよ。しかもうちの署だけで・・・、一体何が起きてるのやら・・・」
とボヤく様にそう言った。
「昔、インフルエンザの薬を飲んだ少年が自殺衝動に駆られて飛び降りた事件とかがありましたよね?」
と俺は目の前で手帳にどう書こうか悩んでいる黒田に話しかけた。
「ああ、もうずいぶん昔にそんな事故がありましたねぇ」
と黒田はあまり俺の話を真剣には聞いていない様だ。
「今回の一連の自殺騒ぎも、そうした薬の使用とか、何か共通点みたいなものは無いんですか?」
「共通点ねぇ・・・、それが解れば捜査の糸口になるんですがねぇ・・・」
と、今度はボールペンの先を手帳の上でトントンと叩き、「まあ、目撃者の話で共通してそうなのは、自殺者が死ぬ前に、何か声を出しながら飛び降りたりしてっるって事ですかねぇ」
と言って俺を見た。
「そうですか・・・、僕もそうした事例を3件も目の当たりにしてますが・・・」
と俺がそこまで言った時、
「あの黒いモヤが原因なんじゃないの?」
といつの間にか自我を取り戻したかの様に、突然菊子が話に割って入って来た。
「黒いモヤといいますと?」
と黒田がダイニングテーブルの方に歩いてくる菊子を見て訊いた。
「黒いモヤは黒いモヤよ。お隣さん、私と話してる時に頭の辺りに黒いモヤに包まれていたの」
と言いながら菊子は俺の隣に座り、「しかもその黒いモヤが生きてるみたいにお隣さんの服の中に入り込んだと思ったら、そのすぐ後に突然表情が変わって、夢遊病みたいな感じになったのよ」
「それは確かですか?」
「ええ、確かよ。私だけじゃなくて、彼も一緒に見たのよ。もっと言えば、彼が見た別件の自殺もそうだったらしいわ」
それを聞いた黒田は俺を見て、
「今までそんな話は聞いた事が無いんですが、本当ですか?」
と確かめる様に訊いて来た。
俺は大きく肩で息を吐き、
「まあ、そんなオカルトみたいな話は信じてもらえないだろうと思って黙ってましたが、僕も確かに見ましたよ」
と言って黒田を見返した。
「もっと言えば、今週の月曜日の夕方、ベランダから見える空の上に黒い球体みたいなものが見えましてね。それが溶ける様に消えてしまったんですが、僕はその時は気のせいかと思って放置してたんですよ。だけど、その日の夜からこんな異変が起き始めてるって言うんですから、僕としてはあの球体が原因なんじゃないかと勘繰っているんです」
と俺は話し終えた後に何度も深呼吸をして、
「でも、テレビの報道でもインターネットでもそうした情報は無いし、僕も自分の目をそこまで信用は出来ないんですよ」
と言い訳をする様にそう付け加えた。
「いやいや、こうした情報はこちらで精査しますんでね。とりあえず、妄想でも何でもいいから情報が欲しいってのが今の署内の状況なんですよ」
と黒田は菊子と俺の話を手帳に書き込み、「どこか外国のバイオテロとかだと私などでは手に負えませんが、オカルトならまだ警察の領分ですよ」
と黒田は笑いながら手帳を閉じた。
「貴重な話が聞けましたよ。ご協力に感謝します」
と黒田は敬礼の様なポーズをとって席を立ち、「いや失礼。いつものクセですなこりゃ」
と笑いながら玄関へ向かって靴を履き、
「じゃ、どうもお邪魔しましたね」
と振り返ってそう言ってから、黒田は玄関扉を開けて出て行った。
「ふう、くたびれたな」
と俺は言いながら、左手で右肩を掴んで首を回した。
俺はダイニングの席について、菊子の横顔を見ながら
「もう大丈夫なのか?」
と訊いた。
「もう大丈夫よ。目の前で人が死ぬなんて初めてで、さっきは本当に驚いたけど、何とか飲み込めた気がするわ」
と言った菊子の顔は随分と顔色も良くなっているし、放心状態だった先ほどまでとは違って目に力が戻った様だ。
「お隣さんも大変だな、これから」
「そうね・・・」
と菊子は返事をしたが、少し考え事をする様に目を伏せ、そして俺を見た。
「ねえ啓二さん。佐智子もあんな感じで死んだのかな」
それは俺も考えていた事だった。
「分からないが、その可能性は高いと俺は思っている」
「そうよね、いくら啓二さんと喧嘩したって言っても、喧嘩なんてこれまでに何度もあったし、現実主義者の佐智子が喧嘩程度で自殺なんて考えられないのよ」
「ああ、俺もそう思う」
「でしょ? じゃあ、やっぱりあの黒いモヤみたいなやつが元凶としか思えないじゃない?」
と菊子の声のトーンが高くなってきていた。
「まあ、落ち着いてくれ。俺もあの黒いモヤが元凶だとは思っているが、アレがそもそも何なのかが分からない」
と俺は努めてトーンを下げて話し、「それに、あれが国際的なバイオテロとかだとすると、秘密を知ってる俺達が消される可能性だってある訳だしな」
と言って、自分の言葉に身体を震わせた。
「やめてよ、そんな陰謀論者みたいな話」
と菊子は苦笑していたが、「仮にそうだとしても、わざわざ都内じゃなくて千葉県の端っこを標的にするなんて、可笑しな話でしょ?」
と言って肩をすくめる様にして俺を見た。
「確かにな」
俺も苦笑しながらそう返し、「だけど、だとしたらアレは一体何なんだろうな」
と言ってテーブルに頬杖を突く様にして菊子の横顔を見た。
「さあね。私にそんな事分かる訳無いけど・・・」
菊子はそこまで言って言葉を止め、「私達もああなる可能性があるのかな」
と言って心配そうに俺を見た。
「さあな。だけど、いつそうなってもいい様に、悔いの無い人生を送りたいものだな」
と俺がそう言うと、菊子は首を振って
「悔いの無い人生なんて想像できないわ。まだまだやりたい事いっぱいあるもの」
と言いながら立ち上がり、「富士山にも上りたいし、海外にだって行ってみたいし、それが出来るまで、絶対に死にたくないわ」
と言うと、リビングのソファに倒れ込む様にうつ伏せに寝転び、大きく伸びをしたかと思うと、
「お腹空いたね。あんなの見た後にご飯なんて食べられないと思ってたけど、人間って、どうしててもお腹は空くのね」
と言ってクスクスと笑いだした。
「何か食べに行くか?」
と俺が訊くと、菊子はソファの上でゴロンと仰向けになり
「料理したいわ。買い出しに行きましょ」
と言って身体を起こした。
俺はハハッと短く笑い
「さすが菊子はヘルシー女子だな。俺も助かるよ」
と言って玄関の方へと向かい、下駄箱を開けて中にある小物入れから車のスマートキーを取り出したのだった。
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「けっこう買ったな」
と俺は買い物袋を両手に下げたまま玄関で何とか靴を脱ぎ、ダイニングテーブルの上に買い物袋を降ろしてそう言った。
「どうせ明日は日曜日だし、ここに泊まってこうと思ってね」
と菊子は言いながら洗面所で手を洗い、キッチンへ入って準備を始める。
「そりゃ助かるよ。明日の朝食も楽しみだ」
と俺は言って買い物袋を開けて、中から野菜や肉などの食材を菊子に手渡していった。
「でも、啓二さんって食材には本当に
「そうでも無いさ。俺は趣味なんてアウトドアだけだし、他はあまりお金をかけてないからな」
「はいはい、啓二さんは外資系の金融機関に居たから、私達の給料じゃ出来ない食生活を送れてたんだよね」
と菊子は皮肉交じりにそう言って笑った。
「まあ、もう退職したから、給料がもらえるのも来月までだけどな」
と俺はそう皮肉に返しながら、最後に佐智子に言われた「今後はどうするのよ」という言葉を思い出していた。
「来月には何か仕事を見つけないとな・・・」
俺はそう呟きながら空になった買い物袋を折り畳んでキッチンのビニル袋入れに放り込んだ。
「啓二さん、結構預金もあるんだから、何か商売でも始めたら?」
と菊子は無責任な事を言う。
「おいおい、俺に商才なんてありゃしないよ。ただ真面目に役目をこなすだけしか出来ない男なんだから」
「ははっ、自分で言ってりゃ世話無いね」
菊子は手際よく玉ねぎの皮を剥いてサクサクとスライスし、鶏肉を刻んで煮ている鍋に放り込んだ。
続いて生姜を細長く切ってゆき、それもまとめて鍋に放り込む。
調味料は鶏ガラ以外は塩や醤油などの自然なものしか使わないのが菊子流だ。
アウトドアが好きな菊子は、健康を何よりも大事にしていて、食材はもとより、調味料には特に気を遣っている。
時々菊子がウチに来て料理をしてくれていたおかげで、キッチンには菊子が薦める調味料しか並んでいなかった。
しかし「人間の身体は食べたもので出来ている」と言われる通り、菊子が調理してくれる料理はとても身体に良い様で、食後も胃もたれなどしないし、翌日も体調がいい。
俺は食材にしか気を遣っていないが、菊子の調理が加われば、自宅の料理はちょっとした「健康料理」だ。
「今日は何を作ってるんだ?」
と俺は鍋を見ながらそう訊くと、
「サムゲタン風のスープ」
と菊子が答える。
「へえ、旨そうだ」
と俺は鍋から立ち上る湯気に交じる香りを吸い込み、腹が鳴るのを感じていたのだった。
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食事を終えて俺が食器を片付けている間に菊子がシャワーを浴び、着替えて出てくると入れ替わりに俺がシャワーを浴びる。
俺が浴室から出ると、菊子はドライヤーで髪を乾かしながらリビングのテレビを点けて報道番組を見ていた。
「何か新しい情報はありそうか?」
と俺が訊くと、菊子は何やら目を細めて画面を凝視している。
「菊子、どうした?」
と俺が訊くと、菊子は髪が乾いたのかドライヤーをソファの横の書棚に置いて、
「ねえ、啓二さん。コレ、何だと思う?」
と訊いて来た。
何のことを言っているのかと俺もテレビ画面を見ると、テレビ画面はどこかの公園から夜空を撮影した様な映像が映っていた。
「これ、何の番組だ?」
「報道番組よ。代々木公園で政治団体が活動してるのを取材しに来てたっぽいんだけど『空に何か浮いてる!』って集まってる人が言ってて、今カメラが空を映してるところ」
と菊子はそう説明するが、その目はじっと画面の一点を食い入る様に見つめている。
「おい、菊子・・・まさか・・・」
と言いながら俺は菊子の隣に座り、同じ様にテレビ画面に目をやり、画面に映る夜空の中に、あの黒い球体を探していた。
「天気は悪くないはずなのに、何だか画面の左上の所、すごく暗い気がしない?」
という菊子の言葉を聞きながら、俺は画面の左上の方に視線を寄せて集中する。
ただでさえ木々が茂る代々木公園だ。夜になるとカメラでは見えない様な暗闇がそこにはあるだろう。
事実、テレビの中に見える夜空は星などほとんど見えず、ただの暗闇でしか無かった。
しかし、画面の左上あたりに、確かに違和感があった。
暗闇の中に隠れる様に、しかし闇夜よりも更に漆黒のそれは、確かにそこにあった。
「これだ・・・、多分、俺が見たのと同じヤツだ・・・」
それはまるでテレビ画面に底なしの穴でも開いたかの様な漆黒で、闇夜の中に溶けている様でいて、よく見ればそれはそこにあった。
画面上では大きさは分からない。
大きい様にも見えるがそうでない様にも見える。
遠くにある様にも見え、近くにある様にも見える。
まるでそこには全ての光を吸い込むブラックホールがあるかの様に、ただ丸い漆黒が確かにそこにはあった。
その丸い球体はただの球体では無かった。
ゆっくりと蠢いている様にも見え、震えている様にも見えた。
それはまるで、生き物の様でもあった。
「東京にも出たって事は・・・・・・」
と菊子が画面から目を離さずにそう呟き、両手で自分の身体を抱く様にして身体を震わせた。
「明日の東京は、とんでも無い事になるかも知れないな」
俺はそう言いながら、身体を震わせる菊子の肩を抱いたのだった・・・
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