第5話 眼前の悪夢

 俺が目を覚ますと、寝室は真っ暗だった。


 サイドテーブルではPCが何かのBGM動画を流している。


「今、何時だ?」

 と俺はPCの画面を眩しそうに見ながら、時刻の表示を確認した。


 19時16分。


 どうやら3時間ほど眠っただけで、まだ火曜日のままらしい。


「仕方が無い、起きるか」


 と俺は布団を跳ね上ると、身体を起こした途端に背中がひんやりとしてゾクッと身体を震わせた。


 ひどく寝汗をかいたのか、Tシャツが背中に張り付いていて気持ち悪い。


 内容は覚えていないが、何か悪夢を見ていた様な気がする。


 俺はその場でTシャツを脱ぎ、ベッドから起き上がるとTシャツを洗濯機に放り込んで洗面所に向かった。


 そして、顔を洗って歯を磨くと、


「ふうっ」

 と息を吐いて、やっとひと息つけた気がした。


 石鹸で顔を洗ったおかげで目が覚めたし、歯磨き粉のミントのおかげで口内もスッキリした気がする。


 俺は冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取り出して、直接ボトルに口を付けてゴクゴクと飲み干した。


 そしてリビングのソファにドカッっと腰かけ、背もたれに身体の体重を預けて部屋の天井を見上げる。


 部屋の電気は点けていないが、ベランダの窓から入る月明りだけでも充分に部屋の様子は分かる。


 俺の部屋は5階にある。


 5階建てのマンションの最上階だ。


 緩やかな傾斜の多い土地柄か、風通しも良いし日当たりも良い好立地のマンションで、夏も過ごしやすく俺は気に入っている。


 2LDKの間取りは一人暮らしの俺には広すぎるが、アウトドアが趣味の俺はキャンプ用品などの荷物も多く、二つある部屋の片方は、荷物置き場として活用していた。


 何となく静けさに耐えられなくなった俺は、テレビのリモコンを手に取って電源ボタンを押した。


 すると50インチの画面がうっすらと光を放ち、その後すぐにニュース番組が画面に映し出された。


「!!!!」


 画面に映っていたのは、今日俺が事故を目撃したあの道路だった。


「目撃者からの情報によると、被害者の女性はこの歩道から突然走り出して自動車が行き交うこの道路へと飛び出したという事で、警察では自殺として原因を調査しているという事です!」


 ああ・・・、もうニュースに取り上げられているのか・・・


 俺は立ち上がってベランダの窓を開けた。


 秋らしい乾いた風が部屋の中に入って来て、俺の顔を撫でる様に吹き抜けていく。


 この辺りは住宅地のせいか、夜はとても静かだ。


 しかし今日は、心地よい秋風が吹いているせいか、窓を開けている住居も多い様だった。


 そのおかげで、あちこちの住居から、家族の会話や子供がはしゃぐ声が風に乗って微かに聞こえて来ていた。


 食器の音をカチャカチャと鳴らしながら家族で食事をする音。


 テレビを見ながら会話を楽しむ夫婦の声。


 子供が何か粗相をしたのか、ヒステリックに子供を叱りつける母親の声。


 そんな中、また俺の中に奇妙な違和感を感じていた。


 ふと空を見上げても、あの黒いやつは見当たらない。


 しかし確かに何か違和感を感じる。


 昨日から俺の違和感は、何かの予兆になっている気がしている俺は、原因の分からない違和感に気持ち悪さを感じながらも、放って置く事が躊躇われた。


 更に目を凝らし、耳をすませてその違和感の原因を探ろうと神経を尖らせていると、斜め右側に建つ5階建のマンションの最上階の部屋から聞こえる声が原因だと感じた。


 そのマンションの部屋はベランダの窓が開いていて、その奥はリビングなのだろう。


 大学生くらいの男が部屋の中で壁に向かって立ち、右手の拳でドンドンと壁を殴っているのが見えた。


「ちょっとケンジ! あなた何をやってるの! 壁に穴が空くから止めてちょうだい!」

 とこれは母親の声だろうか。


 男は母親の声に反応するように身体ごと振り返ると、無表情な顔をベランダの窓の方に向けて


「らー!らーらー!」

 と叫ぶでも無く、歌うでも無く、無機質な表情のままそう声を上げ、


「ちょっと! 近所迷惑になるから大きな声出さないで!」

 と母親らしき声が聞こえた途端、その男はベランダの方へ駆け寄り、ベランダの手すりに手を掛けたかと思った途端に手すりの上に飛び乗り、そして両手を広げて空を飛ぼうとでもしているかの様に、宙に向かって飛び出した。


 場所が悪かった。


 そのマンションは傾斜地の途中に建っており、ベランダ側は道路に面していた。


 道路と敷地には3メートル近い高低差があり、あの場所だと5階のベランダから落ちたとしても、その高低差は20メートル近くにもなる。


 そして懸念した通り、飛び降りた男は敷地の外の道路へと落下した。


 ビタン!


 という、まるで豆腐を床に落とした時の様な音と共に男の身体が道路上に横たわり、男の傍にある街灯の光が、男の頭部から流れる大量の血に反射していた。


「キャーーー!!」

 と母親らしき女が悲鳴を上げてベランダに駆け寄り、手すりの奥を見下ろす。


 そして、道路に男の姿を確認すると、手すりに両手を掛けたままその場に座り込んだ。


「おいおい、マジかよ!」


 俺は慌てて部屋に戻り、スマートフォンで警察と消防署に通報した。


 何で一日に2回も通報するハメになるんだよ!


 一体何が起こってるんだ!?


 それに今日はあのは見てないってのに!


 俺が知らないうちにもう出てたのか?


 昨日見た時の様に、既に現れて消えた後だったのか?


 それとも、あれとは無関係なのか?


「分からない・・・けど、何かおかしな事が起こってるのは確かだ」


 俺は自分に言い聞かせるかの様にそう呟くと、もう一度ベランダに出て、道路に横たわったまま動かなくなった男の元へ駆け寄る母親らしき人影をぼんやりと眺めていたのだった・・・


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 10月25日、火曜日。21時30分。


 俺はリビングの照明を消したまま、ソファに深く身を沈めて窓から入る緊急車両の赤い点滅光をぼんやりと眺めていた。


 開けた窓からは、近隣住民のざわめく声が、乾いた秋風に乗って俺の耳に運ばれてくる。


 さっき少しだけテレビを点けてみたが、どこのチャンネルも「首都圏で同時多発的に自殺者! 一体何が起こっているのか!?」などという見出しで緊急特番を放送していた。


 現時点までに確認されているだけで、累計150人以上の自殺者が居るらしく、自殺の原因はまだ何も分かっていないという事だ。


 どの番組の司会者もコメンテーターも、無責任に話を盛り上げている。


 しかしあの黒いモヤの話も無ければ、何故か死ぬ前に「るー」とか「さー」とか、声を上げていた事例に触れている番組は無かった。


 まだ何も分かっていないにも関わらず、とやらが勝手な妄想を披露して、司会者が更に煽情的な語り口調で不安を煽ってゆく。


 俺はそんなテレビの下らないやり取りに嫌気が差し、すぐにテレビを消してしまったのだった。


 そういえば、さっき俺が見た男も飛び降りる前に「らー、らーらー!」と叫んでいた。

 そしてその直後にベランダに向かって駆け寄って身軽に手すりに飛び乗り、何の躊躇も無く道路に向かって飛び降りていた。


 まるで俺が昼間に見た、あの若い女が道路に飛び込んだ時に似ていないか?


 俺に事情聴取をしていた警察官も、別件で「さー」と言いながら自殺していた事例がある様な事を言っていた。


 あれは一体何だったんだ?


 まるで決まった儀式でもあるかの様に、声を発してから自殺するなんて・・・


「そうだ・・・、菊子に電話しないと・・・」


 俺はふと思い立ち、隣町に住む山本菊子に連絡してみる事にした。


 ダイニングのテーブルに置きっぱなしのスマートフォンを手にすると、電話帳から山本菊子を検索して発信ボタンを押した。


 呼び出し音が2度鳴って、すぐに菊子の張りのある声がした。


「もしもーし、啓二君?」


「ああ、俺だ。ちょっと佐智子の事で聞きたい事があってな・・・」


「お、珍しいねー。どしたん? また喧嘩でもしたの?」


「いや・・・、まあ、それもそうなんだけどな・・・」


 俺はそこまで言って言葉を詰まらせた。


 菊子の声を聞く限り、菊子は佐智子が死んだ事をまだ知らない様だ。


「何何~? 啓二君、なんか声が暗いな~。突然、自殺とかしないでよ~?」

 と言ってケラケラと笑うと「で、何があったの?」

 と急に真面目な声で訊いて来た。


「ああ、実はな・・・」

 と俺は言いかけて、ふうーっと息を吐いた。


 自分で思う以上に俺は緊張している様だった。

 昼間に惨い事故を見たせいかも知れないし、つい先ほどベランダから飛び降りる男を見たからかも知れない。

 または、まだどこか心の隅で佐智子の死を受け入れられていない自分とのギャップがあるのかも知れない。


 とにかく、心臓の鼓動が激しくなり、暑くも無いのに額に汗が浮かぶのが分かった。


「実はな、昨日の夜に佐智子が自殺したらしいんだ」


 俺がそう言うと、少しの間があって、


「え・・・」

 と菊子が短く声を漏らすのが分かった。


「何それ、冗談でしょ?」

 と言う菊子の声は少し強い口調になっている。


 もし冗談だったら怒るぞ、とでも言いたげな口調だ。


「残念ながら、冗談なんかじゃない」

 と俺も少し強い口調になっていたかも知れない。


「今朝、テレビで佐智子が飛び降り自殺したって報道があってな。まさかとは思ったが、その後、俺の部屋に警察が来て、佐智子が死んだって話を聞いた・・・」


「ち、ちょっと待ってよ! どういう事?」


「菊子は何も知らないのか?」


「何も・・・って、何の事よ?」


 俺は、あの黒い球体の様なものの事を話すべきかどうか迷った。

 しかし、佐智子の死を今知ったばかりの菊子にこの話をしても、余計に混乱させるだけだろう。


「いや・・・、俺も訳が解らなくてな・・・、菊子なら何か知ってるかもと思って電話したんだ」


 俺がそう言うと、菊子はまたしばらく黙り込んだ。


 俺も言葉が続かずに口を閉ざしていたが、電話の向こうで「はあっ」と菊子が息を吐く音が聞こえ、

「昨日さあ・・・」

 と菊子が話し出した。


「昨日、私の大学ん時の友達が自殺したって連絡が来てさぁ・・・」

 と菊子は言ってからため息をつき、「だけど、大学卒業してからあんまりその子と会ってなかったから、ふーんって感じだったんだけど、今日、さっきテレビ見てたら、何かあちこちで自殺してる人が居るってやってるじゃない?」


「ああ・・・」


「で、ニュースでやってるのと関係があるかどうか分からないけど、友達が自殺したって教えてくれた子と、こういう場合ってお葬式に出るべきかとか、出るなら香典いくら包むべきかとか、さっきまで色々話してたんだけど、こういうのって佐智子が詳しかったと思って、さっきラインしたとこだったんだけど・・・」

 と息継ぎもせずにそこまで言って「まさか、佐智子が自殺したなんて・・・」

 と言って、またため息をついた。


「そうか・・・、お前の周りにも自殺した人が居るんだな」

 と俺はそう言い、「実は、俺の周りで自殺したのは佐智子だけじゃないんだ」

 と続けた。


「どういう事?」


「実はな・・・」

 と俺は、ついさっき見た近所の若い男がベランダから飛び降りるのを見た事。更に昼間、佐智子のマンションの様子を見に行った帰りに、目の前で道路に飛び出して死んだ女がいた事を話した。


「そんな・・・」

 と菊子が電話の向こうで息を飲むのが分かった。


 そのまましばらく二人して黙りこんでいると、電話の向こうでテレビから流れる報道番組のリポーターの興奮した声が聞こえて来る。


「つい先ほどの出来事です! 私の目の前で事故が起こりました! 突然、若い男が『おー!』と奇声を上げながら電車の踏切に向かって走り出し、走って来た電車にねられました!」


 俺は背筋が凍る思いがした。


「おい・・・」

 と俺は呼びかけたが、菊子は電話の向こうで「はあっ、はあっ」と呼吸を荒げるだけで、声を出す事も出来ないでいる様だった。


「おい! 菊子!」

と俺が叫ぶと、菊子は我に返ったのか、何度か唾を飲みこむ音が聞こえた後に

「一体・・・、何が起こっているの・・・?」

と震える声で、絞り出す様に言ったのだった・・・

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