第3話 目撃者
10月25日、火曜日。
今朝は早くに刑事が自宅に来たおかげで、俺の目はすっかり冴えてしまった。
なので車で佐智子が住んでいたマンションに行って見ようと思い、駐車場へと向かう事にした。
俺が住むマンションは千葉県の
東京都の江戸川区から
都内の佐智子の住んでいたマンションがある港区まで、平日の昼間でも首都高に乗れば1時間も掛からないだろう。
駐車場に入ると、マンション住人用のスペースには色々な車が並んでいる。
俺の車は奥から2番目に停めている、白い国産のハイブリッドSUVだ。
俺は駐車場の中を歩きながら、ズボンのポケットに入れっぱなしのスマートキーのボタンを手探りで押し、自動車のロックを解除する。
ピピッと音が鳴り、ハザードランプが短く点灯して消えた。
俺は愛車の扉を開けて運転席に座ると、エンジンスターターのボタンを押してエンジンをかけた。
セルモーターの音が短く鳴ったかと思うと、次いで微かなエンジン音がシート越しに伝わる。
俺はシートベルトを締めると、ステアリングを握り、パーキングブレーキを解除して車をゆっくりと前進させた。
駐車場内の見通しは良いが、夏休み期間などは子供達が駐車場で遊んだりする事もあるので、駐車している車の影から子供が飛び出して来ないかと、いつも細心の注意を払っている。
そのせいか、今日の様な平日でも俺は駐車場内を慎重に走る様になっていた。
今通り越した車の先にはもう車は停まっていない。
5メートル先には駐車場を囲むネットフェンスの切れ目があり、そこが駐車場の出入り口だ。
その先には幅員6メートルの一方通行の道路があり、俺は右ウインカーを出しながら道路に出る手前で一旦停止した。
そしてもう一度左右の安全確認をして徐々に車を前進させようとしたその時、右側からものすごい速度で近づくバイクの様な影を目の端に捉え、慌ててブレーキを踏んだ。
すると、一方通行を逆走する形で原付バイクが目の前を通り過ぎ、そのまま道路を走り去って行ってしまった。
「あっぶないなぁ・・・」
と俺は心臓の鼓動が高鳴っているのを感じ、深く息を吸って落ち着こうとした。
この道路は一方通行ではあるが、幅員が広めに作られている為、自転車などがよく走る。
自転車には一方通行の概念が無いので、駐車場を出る時にはいつも右側から自転車が来ないかを確認する様にしていたのが功を奏した。
慎重に車を進めていなければ、今頃あのバイクはこの車に激突して大破していたに違いない。
ライダーは大怪我をしただろうし、俺だって無傷という訳にはいかなかっただろう。
「勘弁してほしいぜ、まったく!」
と俺は吐き捨てる様に言いながら、それでも慎重に再度左右の安全確認を怠らなかったのだった。
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首都高速小松川線は、思ったより混雑はしていなかった。
佐智子が住んでいたマンションは、港区の芝公園に近い場所にある。
佐智子の部屋からは東京タワーが見えていたが、最近新しく建設された高層マンションのおかげで「東京タワーが見えなくなった」とボヤいていたのを思い出す。
部屋は広めのワンルームで、家賃は20万位していたはずだ。
「何も無理してそんなところに住まなくても」
と俺が言った時には、
「夜のライトアップされた東京タワーが見える事が重要なのよ」
と俺には理解できない理屈で押し返されたっけな。
俺は自然農法の農家で育ったからか、野菜は有機野菜しか食べない様にしているし、肉や魚も食材にはこだわっている。
しかしそれ以外は大きな贅沢はしない主義で、衣装もほとんどがアウトレットで買ったファストファッションものだ。
それに比べて佐智子は、いつもブランド服やブランドバッグでコーディネートしていて、他のコストを極限まで削って「見える部分」にばかり給料を使っていた。
そのせいで佐智子の普段の食事は、カップラーメンやインスタント食品で済ませる事が多かった様だ。
「いつか大きな病気になるぞ」
と俺が忠告しても、
「サプリを摂ってるから大丈夫よ」
などと独自の理論を展開して、俺の忠告など意に介してはいなかった様だ。
そんな二人がどうして3年間も付き合えるのかと、隣町の市川市に住む共通の知人、山本菊子に訊かれた事があったが、
「だって、美人だろ?」
「だって給料高いでしょ?」
と、利害が一致していたからに他ならない。
菊子は天を仰ぐ様に大袈裟に両手を上げて、
「あきれた二人ね」
と言って苦笑していたっけな。
それを思えば、俺が会社を辞めた事で佐智子が俺に興味を失うのも、当然と言えば当然なのかも知れなかった。
「恋は盲目って言うが、本当にそうかもな・・・」
俺はそんな独り言を呟きながら、首都高の環状線を芝公園出口の方へと向かっていたのだった。
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芝公園にほど近い道路の端に、300円で1時間だけ駐車できるスペースがいくつかある。
運よく空いているスペースを見つけた俺は、白線で四角く囲まれたスペースに車を滑り込ませ、2度ほど切り返してきちんと枠の内側に車を駐車してエンジンを切った。
車を降りた俺は、パーキングメーターに300円を投入し、メーターの表示から「未納」のランプが消えるのを確認してから、佐智子が住んでいたマンションの方へと歩きだした。
佐智子のマンションまではここから歩いて5分くらいだろう。
横断歩道をいくつか渡り、狭い路地を入って行った先にそのマンションはあった。
マンションのエントランスには、どこかのテレビ局だろうか、カメラを抱えた男と、マイクを持った記者らしき男の二人が立っている。
更に制服を着た警察官も一人エントランスの扉の脇に立っており、まだ現場検証か何かをしているのだろうと俺は思った。
俺はマンションの前まで歩きながら、佐智子が住んでいた部屋あたりを見上げてみた。
9階のその部屋のベランダには、恐らく鑑識か何かなのだろう、黒い作業服の様なものを着た男が二人、ベランダの手すりを丹念に調べている様子だ。
そういえば、俺が佐智子の部屋で泊まる事は一度も無かったな。
エントランス前まで送り迎えをする事はあったが、
「部屋が散らかってるから」
という理由で、一度も部屋に入れてもらった事が無い。
俺は浮気を疑った事もあったが、
「あれだけの美人だ。少しくらいの浮気は大目に見てやれよ。だってお前、美人だからって理由で付き合ってるんだろ?」
と学生時代からの友人に諭され、
「それもそうだな」
と妙に納得したのも記憶に新しい。
俺は、警察官がマンションで色々検証しているのを目で追いながら、佐智子が本当に死んでしまったのだという実感が湧いてくるのを感じていた。
「ほんと、薄っぺらい関係だけで付き合ってたんだな・・・、俺達って・・・」
俺は自嘲気味にそう呟いたが、そんな自分の愚かさに気付いたからか、それとも佐智子を失った悲しみなのか、自然と涙が溢れ出し、いつしか肩を震わせて
20分はそうしていただろうか。
秋風に当たり続けて少し肌寒く感じた俺は、目の前のマンションに向かって両手を合わせ、数秒目を瞑って佐智子の冥福を祈ってから、その場を去って車に戻ろうと歩き出したのだった。
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運転席に戻った俺だったが、パーキングメーターは、駐車時間が47分である事を指しており、何となく300円分支払っているのに残りの時間が勿体ない気がして、エンジンをかけたまま、窓を開けて秋風を感じながら駐車スペースでじっとしていた。
左側を見ると、広い歩道を人が行き交うのが見える。
そんな中、ふと違和感を覚えた。
向こうから歩いてくる若い女。
栗色のワンピースに身を包み、ベージュのカーディガンを羽織った髪の長い女だ。
秋の柔らかい日差しを受けて、髪に反射してつむじを囲む天使の輪の様に輝く先に、何やら黒いモヤの様なものが見える気がするのだ。
俺は何度か瞬きをして、再びその女の頭部をよく見ると、気のせいかその黒いモヤは、女の髪に
ワンピースの胸元から服の中へと入り込んだ黒いモヤは、やがて全体が服の中に入り込んだのか、俺の目には見えなくなってしまった。
「何だ・・・今のは?」
気のせいかも知れない。
しかし昨夜、自宅のベランダから見た黒い球体の様なものを思い出し、それと何か関係があるのではと考えてしまったのだ。
我ながらバカバカしい考えだとは思うが、今日は酒も飲んでいないのにおかしな幻覚を見るというのも考えにくい。
その女は無表情のまま歩道をこちら側に向かって歩いていたが、間もなく俺の車の横を通り過ぎるかと思って俺が目を離したその時、突然俺の車の前をその女が走り抜け、車が行き交う道路に向かって飛び出したのだ!
女が通り過ぎる瞬間「るー・・・」という女の声が聞こえた様な気がした。
その直後、俺が呆気に取られてその女を目で追った先に、時速60キロ以上で走って来た商用のワンボックスカーが到達するのが重なった。
飛び出した女に驚いて急ブレーキを踏んだワンボックスカーだったが、到底止まれる速度では無かった。
あっという間の出来事だった。
バーン!!
「!!!!!」
鈍い衝突音と共に女の身体は前方に吹き飛び、10メートル程先に頭から落下してグルグルと何度か回転してから動きを止め、女の身体は道路上に横たわったまま動かなくなった。
ワンボックスカーは衝突の弾みで路肩に向かってゆるゆると進み、道路の脇に立ち並ぶ樹木にぶつかる様にして止まった。
「た・・・、大変だ・・・」
俺は少しパニックになっていたかも知れない。
しかしすぐに思い立ってスマートフォンを取り出し、警察と消防署に連絡をして、パトカーと救急車を要請した。
俺は車を降りて、最初に手前に居たワンボックスカーの運転席の様子を見る事にした。
ワンボックスカーのフロント部分は運転席側が大きく凹んでおり、車内は白い煙で陰っていた。
俺は扉を開けて運転席に居た中年男の身体を揺さぶりながら、
「おい! 大丈夫か!」
と声を掛けると、男は
「ああ・・・、大丈夫です」
と震える声で言った。
口の端が少し血で滲んでいたが、見た感じでは大きな怪我は無さそうだった。
エアバッグから白い煙が出ていたが、運転手は自力でシートベルトを外してヨロヨロと車を降りると、ワンボックスカーの被害を確認して肩を落としながら、ヘナヘナとその場に座り込んでしまった。
その姿を横目で見ながら、俺は道路に横たわる女の方に走り寄ったが、近くまで来て女の姿を見た俺は、その
女の身体は不自然によじれ、下半身に伸びる足はうつ伏せになっていたが、上半身は仰向けになっており、女の顔はプレス機にかけられたかの様に潰れ、長い髪に隠れた額からはおびただしい流血があった。
「ううっ!」
俺は吐き気を覚え、口元を押さえてヨロヨロと道路の脇に歩き、街路樹の根に片手を付いたまま、たまらずその場に
ぎゅっと目を
目を開けると足元には自分の
その場で何度も深呼吸をしながら何とか呼吸を整え、だいぶん落ち着いたと自覚した頃、遠くからやって来る緊急車両のサイレンの音が聞こえてきたたのだった。
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