第2話 異変の始まり

「佐藤さ〜ん、朝早くにスミマセンが〜」


 玄関先からチャイムの音に混じって、俺を呼ぶ間延びした男の声が聞こえる。


 おいおい・・・、このマンションはエントランスのインターホンで呼び出さなきゃ建物内に入れない筈だろ?


 何でいきなり玄関先まで入って来てるんだよ・・・


 俺が玄関扉の覗き窓から外を見ると、制服の警察官と、私服の男が二人立っているのが分かった。


「はいよ、今開けますよ」

 と俺は念のために扉にチェーンをした状態で鍵を開け、扉を開けた。


 すると扉は10センチ程度だけ開いてガチャンと音がして、チェーンがピンと張りつめた所で止まる。


 その隙間にニュッと顔を出した年の頃30前後の若い制服警官が

「朝早くにスミマセンねぇ、ちょっと中に入れてもらえませんか?」

 と言って扉の隙間に黒いブーツを挟み込んでいる。


 何だよこの警官は・・・、まるでカルト宗教の押しかけ訪問みたいな事をしやがって。


「まだ朝の5時前ですよ? 一体どういうご用件で?」

 と俺は不機嫌そうな声でそう訊くと、私服の男の内の一人が制服警官の肩を引いて後ろに下がらせ、ジャケットの内ポケットから警察手帳を取り出して見せて

「こういう者ですがね、ちょっとお話を伺えないかと思いまして」

 と言いながら扉の隙間に顔を寄せて、小声で「溝口佐智子さんが死亡した件なんですがね」

 と付け加えた。


 俺は「はあ・・・」と返答ともため息ともつかない声を返しながら


「じゃあ扉を開けるんで、少し下がって貰えますか?」

 と言って、私服の刑事らしき男が一歩下がるのを待って、玄関扉を一旦閉じ、チェーンを外してからもう一度扉を開けた。


「どうぞ」

 と俺が促すと、


「お邪魔しますよ」

 と言って2人の私服の男が玄関に入り、制服の警察官は

「では、私はこれで失礼します」

 と私服の男達に敬礼をして、そのまま帰ってしまった。


 俺はダイニングテーブルの椅子に二人を座らせ、向かいの席に腰かけた。


「実は、昨日の夕方に溝口佐智子という女性の遺体が見つかりまして、部屋を捜査していて見つけたスマートフォンのラインに、あなたとのやり取りが残っていましてね。何かトラブルがあった様だったんで、こうしてお話を伺いに来た訳なんですよ」


 そう話し出したのは、年配の男の方だった。

 再び見せられた警察手帳には、獅童隆二(しどうりゅうじ)という名前が刻まれていた。獅童は自分達を警視庁捜査一課の刑事だと自己紹介した。


 年の頃は50歳前後だろうか、日焼けした顔は眉間に深いシワが刻まれていて、笑顔で話してはいるが眼つきは鋭い。厚い唇から覗く歯は黄ばんでいて、ヘヴィスモーカーなのが見てとれる。身長は高く無いが体躯はガッチリとしていて、服の上からでも力強い肉体が想像できる男だった。


 もう一人は俺とあまり歳が変わらないであろう30代の男で、中肉中背の体型で身長は180センチくらいはある。色白に見えるがそれは年配の男の方がよく日焼けしているせいでそう見えるだけで、切れ長の目でじっと俺の方を黙って見ていた。


「ああ・・・」

 と俺は少し間の抜けた声を出したかも知れない。


 やはりさっきニュースで見たのは佐智子の事だったのだ。


 そして、俺と佐智子の間に何かトラブルがあったのを察知して、早速俺が疑われているという事なのだろう。


「さっきテレビのニュースで見たばかりですが、やはり佐智子の事だったんですね・・・」


 解ってはいたが、実際に刑事が家に来て、直接話を聞かされると現実味が湧いてくる。


 獅童しどう刑事は背筋を伸ばして俺を見た。


「昨夜の10時前に通報がありましてね。警官が確認したところ、マンションの9階のベランダから飛び降りたんだろうという事なんですよ」


「自殺・・・なんですか?」


 という俺の問いに、獅童刑事は頷きながら

「恐らくはそうでしょうな。ただ、残されたスマートフォンに、あなたとのやり取りが残されていましてね。何やら揉め事があったのではと思って、お仕事に向かわれる前にお話を伺う為にこちらにやって来たんですよ」


「そうでしたか・・・」

 と俺は少し肩を落としてため息をついた。


「私は今日から有給消化をするところでしてね。実は退職するんですよ」

 と俺は話し出した。


 俺は佐智子の死に動揺していたのかも知れない。


 この際だ。洗いざらい話してしまってもいいんじゃないか?


 そんな気分になっていた。


 そして俺は、会社が組織ぐるみで行っている不正を見つけて上司に報告をした事で不当な転勤をさせられる辞令が下り、それに抗って退職手続きを行った事に始まり、近い将来結婚しようとしていた佐智子が別れ話を持ち出してきた事など、順を追ってその経緯を獅童に話す事にした。


「まだ別れると決まった訳じゃ無かったんですよ。佐智子の言い草は、職を失った俺なんかにはもう興味は無さそうでしたがね・・・」

 と俺は話し終え、最後に「だからって、死ななくても・・・」

 と徐々に佐智子の死が現実味を帯びてきて、いつしか俺の目から涙が零れていた。


 佐智子とは付き合いだして3年程だった。


 喧嘩をした事もあるが、いい思い出だって沢山あった。


 徐々に俺の部屋に佐智子の私物が増えてきて、そろそろ同棲を始めようかと提案したのがほんの数か月前の事だ。


 佐智子は「職場が遠くなるから」と同棲には否定的だったが、今の仕事でやりたい事をやり終えたら、いずれ俺と結婚して専業主婦になりたいと言っていた。


「そうですか、そりゃお気の毒でしたなぁ」

 と獅童刑事は深く頷きながら俺を見ている。


 もう一人の若い刑事は手帳に俺の話をメモしていた様だったが、時々室内を見回して何かを探している様な仕草をしていた。


「昨日の夜は自宅に?」

 と獅童刑事が訊いてきた。


「ええ、16時半には帰宅して、シャワーを浴びた後にビールを飲んで、そのまま寝てしまったんですがね」

 とそこまで言ってから、「そういえば、昨日の夜にベランダから空を見ていた時に、空に変な物が浮いてるのを見た気がしたんですが、何かご存じありませんか?」

 と訊いてみた。


「変なもの?」

 と獅童刑事が訊き返す。


「ええ、何か黒いボールの様なものが空に浮いてて・・・」

 と言ってから、「いや、少し酔ってたから、私の見間違いかも知れませんね」

 と話すのを止めてしまった。


 若い刑事はそんな俺の話も逃さずメモを取っている様で、几帳面な性格なのかも知れない。


「まあ、会社の不正については良くない事ではありますが、我々は管轄外でしてな。ただ、溝口佐智子さんが亡くなったのは自殺と他殺の両方で捜査を進めているもんで、別にあなたを疑っている訳ではありませんが、これも一応仕事でしてな」

 と獅童刑事はそう言い、「念のためにお聞きしますが、溝口佐智子さんが誰かに恨まれている等といった話は聞いた事がありますか?」

 と訊いて来た。


 俺は首を横に振り、

「分かりません。彼女は社交的な性格でしたから、あまりそういうのは想像出来ませんが・・・」

 と言うと獅童刑事は立ち上がり、


「分かりました。早朝からお邪魔して申し訳なかったですな」

 と言って若い刑事に目配せをすると、若い刑事も立ち上がり、

「何かあればこちらにご連絡下さい」

 と言って二人の名刺をテーブルの上に置いた。


 若い刑事の名刺には小林健司という名が書かれていた。


「獅童さんに小林さんですね。何かあればご連絡します」

 と俺が言うと、獅童刑事は


「佐藤さん、念のため携帯番号をお聞きしておいていいですかな?」

 と訊いて来た。


 俺は「どうぞ」と言って番号を伝え、

「何か分かったら教えてもらえますか?」

 と伝えておいた。


「じゃ、我々はこれで失礼しますよ」

 と二人の刑事は玄関の方へと歩き、靴を履いて玄関扉を開けて外に出た。


 扉を閉める前に振り返って俺を見た獅童刑事が

「昨夜から今朝までの間に自殺の通報が60件以上も入ってましてね、一体何がそうさせたんだか、我々もほとほと困り果てているんですよ」

 と苦笑した。


「まぁ、また何かお聞きするかも知れませんが、その時は宜しくお願いしますよ」

 獅童刑事はそう言うと、軽く目を伏せる様な会釈をして玄関扉をガチャリと閉めた。


「60人以上・・・」

 俺は遠ざかっていく二人の足音を聞きながら、そう呟いたのだった・・・


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