暗闇の唄
おひとりキャラバン隊
第1話 違和感
「まったく、世の中どうなっちまってるんだか・・・」
俺は勤めていた会社で退職の手続きを済ませた後、横目で俺をチラチラと見る同僚や部下達の視線を搔い潜る様に、私物を持って足早にオフィスを出た。
俺の名前は
外資系大手金融機関のクレジットカード部門で総務部の課長職に就いていたが、本来プールされなければならないカード利用によるポイント引当金が、正しくプールされず運用に回されていた事態を発見し「法律に違反する為、改善が必要」と上司に報告した事がキッカケで、会社の上層部から不当な転勤の辞令が出される事になったのが先月末の話。
上司に事情を確認しても明確な答えは得られず、ただ
「お前が余計な事を報告するからだ」
と言われた事から、俺が見つけた不正が「会社ぐるみ」だった事に気付き、会社を辞める事を決めたのだった。
警察に告発する事も出来たが、外資系金融機関というのは政界とも癒着のある業界だ。下手に告発しても、結局は裁判で自分が悪者にされ、下手をすれば損害賠償を請求されかねない。
そんなリスクを負える程の貯金も無ければ、そんな度胸も無いのが俺、佐藤啓二という男だ。
会社を辞める事を恋人の
確かに次の仕事なんて決まっていない。だけど、犯罪の片棒を担がされるまま働くよりも、正義を通して会社を辞めた自分は褒められるべきであって、罵詈雑言を浴びせられる道理は無い筈だ。
「そこまで言わなくてもいいだろう! 悪事に加担してでも金を稼げってのか? それとも金の切れ目が縁の切れ目なのか?」
と口に出しながらラインで送った返事が
「私は現実的な話をしてるだけ。それがお気に召さないのなら、別れてもらって結構です」
だなんて、あまりにも酷すぎる話だろう?
会社は当然の様に不正を行い、政治家との癒着もあって、こんな不正がこれからも続くのだろう。
政治家は、金の匂いがする所には嬉しい政策を次々と提供し、庶民がいくら苦しんでも助けるフリだけで根本的解決などする気も無い。
佐智子は結婚してからの豊かな生活を夢見ていたのだろうが、俺の収入が無くなると解った途端に無機質になる。
結局、どいつもこいつも「金・金・金」か。
そこに正義の入り込む余地などありゃしない。
俺はムシャクシャした気持ちのままコンビニに寄って缶ビールを3本と、しばらく吸っていなかったタバコを1箱購入し、マンションの自室に帰った。
自室に帰ってビールを冷蔵庫に入れ、タバコをリビングのテーブルの上に置いてから、何となくテレビを点けてみた。
しかし、夕方のテレビ番組にはロクなものが無かった。
俺は気分転換にとシャワーを浴びる事にした。
洗面所の棚には、俺の物とは別に、佐智子のハブラシや化粧品が置かれていた。
「何だかな・・・」
と俺は呟いたが、未練がましくそれらには手を付けずに、そのまま服を脱いで浴室へと入った。
少し熱めのお湯でシャワーを浴びると、少しだけ心の棘が溶けていく気がする。
こんな事なら、ちゃんと湯舟に浸かれば良かったかも知れない。
だけど今更湯舟に湯を溜めるのも面倒だしな。
俺は結局、シャワーを浴びるだけにして浴室を出て、パジャマを着てからキッチンの冷蔵庫から缶ビールを取り出し、リビングのソファに身を沈めてビールを一口グビリと飲んだ。
テレビでは天気予報が映っていた。
どこかの公園に居る現地リポーターが、関東地方の地図が描かれたフリップに晴れマークを貼り付けている。
「今夜は星が綺麗に見えるでしょう」
とテレビから流れる声を聞いて、俺はベランダの窓を開けて部屋の空気を入れ替えようかと思った。
俺は缶ビールを片手にベランダの窓を開け、裸足でベランダの外に出た。
10月24日、月曜日。今は17時半を少し過ぎたところだ。
日は沈んだが空はまだ青白く、雲一つ無い秋晴れの空は、天気予報でも言っていた通り、夜になればさぞかし星が綺麗に見える事だろう。
けれど俺の心はちっとも晴れ晴れとはしていないんだよ。
「まったく、世の中どうなっちまってるんだか・・・」
俺は暗くなっていく空を眺めながら、そう愚痴をこぼしていた。
ベランダでビールを飲みながら、窓の縁に腰かける。
じっと空を見ていると、徐々に暗くなる空に吸い込まれそうな気分になる。
こうやって空を眺めるなんて、一体いつぶりだろうか。
広々とした空の先には宇宙があって、沢山の星々が浮かんでいるんだろう。
そんな星々から見れば、俺に起きた出来事なんて小さな事なんだろうな。
空はいつの間にか暗闇になっていた。
俺はしばらく空を眺めていたが、暗闇の中に星は見えなかった。
「変だな・・・」
俺は部屋の電気が明るいからだと思い、リビングの照明を消して、もう一度ベランダから空を見上げた。
いくぶん景色は見やすくなり、夜の空にはまばらに星の輝きが見えていた。
しかし、ふと俺は違和感を覚えた。
「何だろう・・・」
違和感の正体は分からない。
けれど、何かが変だ。
こういう違和感を感じる時は、大抵何か良くない事が起こる。
俺のこれまでの人生で何度も経験してきた事だ。
そういう悪い勘ってのは、人間の生存本能が危機を察知した時に発するものだと誰かに聞いた事があったっけな。
これは誰に聞いたんだっけ?
俺はそんな事を考えながら、じっと空を見上げていた。
「ん?」
それは、小さな黒い円だった。
もしかしたら球体かも知れない。
または空に開いた穴の様にも見える。
じっと見つめれば見つめる程に、そこは漆黒しか無く、それは遠くにある様にも見え、またすぐ近くにある様にも見えた。
それは、ただ黒い円形のもので、野球のボール位の大きさに見えた。
「何だろうアレは・・・」
俺はそう口にしたが、返ってきたのは遠くから聞こえる街の喧噪と風の音だけだった。
宙に浮かぶそれは、目を離した途端に見失いそうでもあり、又は消え去ってしまいそうでもあった。
俺はそれから目を離せないまま、じっと黒い円形を見ていたが、よく見るとそれは小刻みに震えている様にも見え、徐々に小さくなっている様にも見えた。
いや、確かに小さくなっている。
徐々に小さくなっていく黒いそれは、俺の目では見えなくなる程に小さくなってゆき、やがて消えた様に見えなくなった。
その後も俺はしばらくその場で空を見上げていたが、それはもうどこにも見えなくなっていた。
「何だったんだ?」
もしかしたら俺の目に問題でもあるのだろうか。
それともたかが缶ビールを1本飲んだだけで酔って幻覚でも見たのだろうか?
「まさかな・・・」
俺は夜風が少し肌寒く感じ、リビングに戻って窓を閉めたのだった。
今日は色々あったから、きっと頭が疲れているんだ。
こんな日は早く眠って、何もかも忘れてしまえばいい。
俺は冷蔵庫から缶ビールをもう1本取り出し、グビグビと飲みながら、タバコに火を点けて、深く煙を吸い込んだ。
久々のタバコの煙は俺の頭をクラクラさせる。
そういや初めてタバコを吸った時もこんな感じだったな。
ふうっとタバコの煙を吐き、じんわりと溶けていく頭の痺れを楽しみながら、何気なくテレビを見てみると、何やらお笑い芸人が出て来るバラエティ番組が始まっていた。
「ほんと、最近のテレビはつまらん番組しかねーな」
と俺は独り言を呟きながら、テレビの電源を消してタバコの火をキッチンの流しで消し、残ったビールを飲み干して寝室へと向かった。
寝室にはダブルベッドがある。
佐智子が泊まりに来る時に一緒に寝ていたベッドだが、今となっては虚しさが心をよぎる。
俺はまた嫌な事を思い出しそうな頭を激しく振って、ベッドに潜り込んで無理やり目を瞑る事にした。
まだ眠くは無かったが、起きていても仕方が無い。
明日からは有給消化で会社に行く必要も無い。
これまで一生懸命に働いてきたんだ。これから1週間くらいはただ無気力に、のんびり過ごしたっていいじゃないか。
俺は布団に
自然農法の、無農薬でおいしい野菜を作っていた。
だけど手間はかかるし早朝から畑を見なくちゃいけないし、仕事は大変だ。
俺に農業を継がせようとしていた両親。
それを嫌がって東京の会社に就職した俺。
今となっては実家の農業を継ぐという手もあるが、佐智子も農業は嫌がっていたしな。
いや、佐智子はどうせこのまま俺と別れるつもりだろうから、むしろ実家に帰るのもいいのか?
それとも・・・
そんな考えは薄暗い室内の空気に溶けてゆき、俺はいつしかまどろみの中で眠りに落ちていったのだった。
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目が覚めたのは朝の4時46分だった。
早寝をしてしまったせいか、目覚めも早かった様だ。
「こんなに早く起きても、何もする事は無いってのにな・・・」
俺は二度寝をする事も考えたが、何となくベッドから起き上がり、テレビを点けて朝のニュース番組を見る事にした。
何となく、昨夜見たあの黒いものが何だったのかが気になったからだ。
しかし、どのチャンネルの番組も、あの黒い円の様なものについて報じているところは無かった。
しかし次の瞬間、俺の目はテレビの画面にくぎ付けになっていた。
「昨夜遅く、都内のマンションで9階のベランダから落ちたと思われる女性の遺体が発見されました。警察の調べでは、女性はこのマンションに住む溝口佐智子さんだという事で、室内に荒らされた形跡も無く、遺書なども無い事から、自殺と他殺の両面で調査をしているという事です」
溝口佐智子?
佐智子が死んだ?
テレビの画面に映るマンションの姿はモザイクがかかってはいるが、何度も行った事がある俺には、それが佐智子が住んでいたマンションだと分かった。
9階の部屋・・・、確かに佐智子の部屋は902号室だ。
自殺・・・なのか?
まさか、俺と喧嘩したのが原因なのか?
だって、別れ話を持ち出したのは佐智子の方だぞ?
それが何で・・・
俺がテレビの画面の前で絶句していた時、唐突に玄関のチャイムが鳴ったのだった。
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