第13話 ミクと私と竹島君と 後編

「もう少し早く帰る予定だったんだけど、最後までいてしまったね」

「ありがとうございます。課長が最後まで残ってくれて良かったです。俺もこれで何の心残りも無く北海道へ旅立てます」

「それは良いことだと思うけど、北海道に行くのは来月からだからもう少しこっちの生活を楽しんでもいいとは思うよ」

「そうですね。でも、こうしてみんなとも楽しく過ごせたし、これで悔いは何も無いです。明日は工場のやつらが送別会をしてくれるって言ってたし、そっちも楽しんできますね。そうだ、課長も参加しませんか。きっと楽しいと思いますよ」

「とても楽しそうな提案だけど、さすがに二日続けて家を空けるわけにはいかないかな。行きたい気持ちはあるんだけどね、明日は遠慮させてもらうよ」

「そっか、ワンチャン来てもらえるかなって思ってたんですけどね」

「ワンちゃんって、私の事誘ってくれてるの?」

「あ、そうじゃなくて、ワンちゃんじゃなくてワンチャンスだよ。犬ではなくチャンスがあるかもって事さ」

「そうなんだ。私も誘われて見たかったな。パパさんみたいに断ると思うけど」

「断るのかよ。でも、ミクちゃんもありがとうな。ミクちゃんのお陰で課長の意外な一面も見れたしな。またどこかで会ったらよろしくな」

「うん。パパさんの意外な一面はまた見せてあげるよ」

 勝手な約束をしているミクを怒ろうか悩んでしまったが、別にそこまで腹を立てるような事でもないかと思っていた。

「そう言えば、ミクはここまで歩いてきたのか?」

「うん、拓海にもらった地図を見ながら来たよ。パパさんじゃない人の運転は気持ち悪くなるから歩いてきた」

「そっか、じゃあ、帰りも歩いて帰らないとな」

「そうだね。でも、拓海が一人で待ってるから出来るだけ急いで帰ろうね。じゃあ、パパさんのお友達のみんなありがとうございました。またね」

「お友達じゃなくて会社の人だよ」

 人懐っこくて愛嬌のあるミクは一瞬でみんなのアイドルになっていたようだ。こうしてみるとミクは背が高いという事もあってモデルのようにも見えていた。ミクはアイドルになったのかと思うくらいにみんなと握手をしてツーショットの写真を撮ったりもしていたのだが、一部の女子社員からは熱烈なハグをされていた。さすがに男性社員にそんな事をするものなどいないと思うのだが、調子に乗った竹島君がミクを抱きしめようと手を伸ばしていた。それに気付いたミクは竹島君を華麗にかわしていたのだ。三国避けられた竹島君はその場でクルクルと回っていた。


「こうしてミクと散歩をするのは久しぶりだな。最近は拓海が気分転換がてら散歩に行くと言っているから私が行く必要もなくなったしな」

「別に散歩なら何回行ってもいいんだけどね。拓海は散歩中も考え五をしているみたいだけど、そんなに勉強しないとダメなの?」

「正直に言えば、この地域にある学校ならあそこまで熱心に勉強をしなくても大丈夫だと思うよ。でも、枡花学園はもっと努力しないと入れないかもしれないってくらいに難しいと思うよ」

「そうなんだ、人間って大変だな。私もちゃんとした人間になれたら学校に行って勉強とかするのかな」

「一応ガイドラインにはそう書いてあるな。ペットの姿ではなく人間の姿で安定して生活を送ることが出来るようになって三年が過ぎた物は次年度から学業を修めることが出来る。みたいだよ。ミクも勉強しに行ってみたいかな?」

「ミクは分かんないかも。頑張ってる姿は楽しそうに見える時もあるけど、ほとんどは苦しそうにしか見えないからね。私は進んで苦しいことなんてしたくないな」

「今ふと思ったんだが、ミクは家の鍵を開けることが出来ないじゃないか。私を迎えに来てどうやって家の中にはいるつもりだったのかな?」

「どうやってって、ドアを開けて入るつもりだったよ。ドアくらいは開けられるようになったからね」

「ミクがドアを開けることが出来るというのは知っているんだけど、鍵がかかってたら中に入れないじゃないか」

「でも、拓海は鍵をかけないで待ってるって言ってくれたよ。だから、私は普通に家に入ることが出来るんだよ」

「ちょっと待ってくれ、鍵をかけずに出てきたという事なのか?」

「そうだよ。拓海がそうしろって言ってくれたからね。ちょっと予定より長くいすぎちゃったけどね」

 私は家の鍵が開いているという言葉を聞いて嫌な予感が脳裏をよぎった。こういう場合の嫌な予感というものは意外と当たるかそれに近いような事が起こることが多い。私が完全に起きているという事なので家の鍵をちゃんとかけて戸締りをして欲しいところではあるのだが、私のメッセージを拓海が呼んでいる形跡などなかったのだ。

「少し急ぎ目で帰ってもいいか?」

「うん、私は大丈夫だよ。パパさんは何かあったの?」

「何かあったかというか、心配なことが一つ出来たんだよね。大丈夫だとは思うのだけれど、こんな時間に鍵をかけないのは不用心すぎるようにしか思えない。もしかしたら、拓海のみに何か起こっているかもしれないんだよ。そんなわけで、もう少し急いでも良いかな?」

「うん、大丈夫だよ。家が近くなったら私が先に帰って拓海の様子を見てこようか?」

「そうしてもらえると助かるよ。無事であればそれでいいんだけどね」


 家までもう少しというところに差し掛かると、ミクは一目散に駆けていったのだ。自転車よりも速いスピードで家の方へと消えていったのだ。

 私もはやる気持ちを抑えつつ、確実に家に向かってはいるのだが、どうしても頭の中で不穏な想像が広がってしまっているのだ。何事も無いとは思ってはいるのだけれど、それを心の底から信じることが出来ずにいたのだ。

 玄関の扉は当然鍵がかかていないのだが、ミクが履いていた靴が乱雑に脱ぎ散らかしてあるのも私の心を不安にさせる要因でもあった。

 どんなに不安に思っていても日ごろ行っていることは体に染みついているようで、私は玄関の鍵をしっかりとしめてミクの脱いだ靴を綺麗に揃えておいた。

 その時、階段をゆっくりと音をたてずに降りてくるミクが少し悲しそうな表情を浮かべていたのだ。私はそのミクの顔を見て嫌な予感が的中してしまったと思い、無意識ではあるのだが身構えてしまっていた。

「パパさん、拓海が、拓海がね」

「どうした、拓海に何かあったのか?」

「拓海が勉強をしたまま寝ちゃってるんだよ。このまま寝かせてた方が良いのかな。それとも、起こして布団で寝かせた方が良いのかな?」

「起こさないように布団まで運ぶことが出来なさそうなら起こした方がいいかもな」

 カラオケに行く前に眠らずにまっすぐ帰っていればこんな事にはなっていなかっただろう。きっと、拓海は私とミクが帰ってくるまで起きて勉強をしようとしていたに違いない。だが、私もミクも結局こんな遅い時間まで残ってしまっていたのだ。規則正しい生活を送っている拓海にはこんな深夜まで起きている事なんて無理だったのだ。

 せめて、布団で寝かせてあげようと思っていたのだが、物音に気付いて起きてきた拓海は私とミクを確認すると無言で部屋に戻って布団を敷いていた。

 それを見て安心した私はミクの手を洗ってあげてから妻の使っていたベッドに寝かせてあげた。ミクは犬の時の癖が抜けないのかうつ伏せ気味に寝てるのだが、その姿が熟睡している時の妻に似ているというのは私だけが知っている秘密なのだ。

 私は二人が寝たのを確認すると、ひそかに買っておいた缶酎ハイを二つのグラスに分けて入れ、私の正面に妻の写真を置いてほんの少しだけ飲み会の余韻に浸っていた。

 妻と二人でお酒を飲んだことなんて数えるほどしかないのだけれど、今日はなんとなくこうしていたい気分になっていた。

 気のせいかもしれないのだが、写真の中の妻はいつもよりも嬉しそうに微笑んでいるように思えていたのだ。それは私がまだ酔っているからなのか、妻が本当に嬉しく思っているからなのか、私にはわからない。それでも、私はこうして妻の写真を見ながらお酒を飲むのも良いモノだと思っていたのだ。

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