第4話 俺の飼い主は頼りになるけど頼りない

 あっちゃんの話では、俺は他の犬よりも人間に適合するのが早いようだ。箸の使い方はまだまだ下手ではあるのだけれど、スプーンやフォークなんかは普通に使えるようになっているのである。他の犬は慣れるまで一年くらいかかるらしいのだけれど、俺は人間になってから一週間くらいで人並みに使えるようになっていたのだ。

 完璧にとはいかなけれど、見られて不快になるような使い方はしていないと褒めてもらう事が出来たのだ。知らない人間とはいえ、俺は褒められて嬉しくなっていたのだ。何よりも、俺に使い方を教えてくれたあっちゃんも褒められているという事がたまらなく嬉しかった。

「ディノ君がこんなに早くスプーンを使えるようになるなんて思わなかったな。会社の人の所のワンちゃんは人間になって一年くらいになるのに使えないって言ってたし、ディノ君って本当に天才なのかもね。犬の時もお利口さんだったし、人間になってもそれは変わらなかったんだね」

「あっちゃんの教え方が良いだけだと思うよ。たぶんだけど、俺は他の人に言われてもよくわかってなかったと思うし、普通に使えるようになるのもまだまだ先だったと思うし」

「私は特別なことなんてしてないんだよ。ディノ君が天才なだけだもんね。こんなに天才的なディノ君を見たら義之もびっくりしちゃうかも」

 やっぱりな。あっちゃんはあの男と終わったみたいなことを言ってはいたけれど、心の中では終わっていたくないって思ってるんだろうな。俺ももう一度あの男と会いたいんだよな。その時のためにも普通にご飯を食べることが出来るようになっていたいんだよな。

「俺が褒められるって事はあっちゃんも褒められるって事だもんな。そうなると、あの男が俺の事を褒めてくれるような事をしたいなって思うよ。今のままでもそうかもしれないけどさ、俺はもっとちゃんと人間っぽくなりたいって思うんだよね」

「普通の人よりも人間らしいところもあるんだけどさ、ディノ君はまだまだ犬だった時の癖が抜けてない時があるんだよね。喜怒哀楽がすぐ表情に出たりしてるんだけどそれは良いことだと思うんだよね。何も聞かなくても嬉しいんだなとか嫌なんだなってわかるのは良いことだよね。正直に言うと、義之ってそういうところは私にはわかりづらかったんだよね」

「そうだったっけ。俺は意外とあの人が嬉しそうにしてたり辛そうにしてたのは分かったけどな。好き嫌いってのはあまり感じなかったけど、それってあっちゃんがあの人の嫌いな事を全然してなかったって事だと思うし、なんでお別れなんてしちゃったの?」

 こういう事は聞いてはいけないんだろうなって頭ではわかっているのだ。人間も犬も聞かれたくないってことはあるしやってほしくないって事もあると思うのだ。俺が今あっちゃんに聞いたことは、あっちゃんにとっては聞いてほしくない事なんだろうなって思うんだけど、俺はどうしても理由を知りたかった。

 俺から見ても、あっちゃんとあの人は一緒にいた方が良いと思えたのだ。何より、俺が二人の間にいても嫌な感じを受けなかったという事があったのだ。

「なんでって言われてもな。私がワガママすぎたってのもあるかもね。義之は誰にでも優しいところがあるし、何でも出来ちゃうんだよね。何でも出来て優しいってのは凄くいい事だと思うんだけど、それだけじゃ物足りなくなっちゃうって事もあるんだよね。ディノ君も優しくて頭もいいから何でも出来てイキそうだと思うだけど、正直に言ってまだまだ手がかかると思うんだよね。義之と一緒にディノ君の成長を見守りたいって気持ちもあるんだけどさ、そうなると一緒に住むことになると思うし、それだったら結婚した方がいいんだろうなって思ってたんだよ。でも、そうなると私は好きな人二人と一緒に暮らすことになっちゃうと思うんだよね。ディノ君の事を好きなように私は義之の事が好きだよ。好きなんだけどさ、そんなに好きな人が家に二人もいるなんて私には耐えられないんだよ。好きだからこそ一緒にいたいって思うんだけど、一緒にいて別の人を相手にすることなんて出来ないって思っちゃうんだよ」

「あっちゃんの言ってることは難しくてよくわからないけど、俺の事もあの人の事も好きだって事でしょ。それだったらさ、ずっと一緒じゃなくてもたまに一緒に入れるだけでも俺は嬉しいんじゃないかなって思うよ。あっちゃんだってさ、この前電話してた時凄く嬉しそうにしてたよ。あんなに嬉しそうな顔をしてるのって、最近はあんまり見てなかったから俺は嬉しく思ったんだけどな」

「ごめんね。人って色々あるんだよ。お互いに好きだけどそれだけじゃどうすることも出来ないことだってあるんだし、逆に好きじゃなくても一緒にいることだってあるんだからね」

「でも、俺が死んだら何も気にせずにあの人と一緒にいられるって事なんじゃない?」

「え、死ぬってどういうこと?」

 俺はなんで自分が死んだときの事を例えてしまったのだろう。自分でもまだ死ぬなんて思ってはいないけれど、今の感じだと自分の死期を悟ったような言い方に聞こえなくもない。

 人間に比べれば犬ははるかに短命ではあるのだが、俺はまだ寿命が尽きるほど生きてはいない。むしろ、まだまだ若いと思っている。ただ、それはあくまでも犬の話であって、俺みたいに人間から犬になった場合はどれくらい生きることが出来るのだろうか。人間くらいまで長生きできたらいいなとは思うのだけれど、その半分くらいだったとしても犬として考えてみると長命を通り越して奇跡と言ってもいいのではないだろうか。

「もしかして、犬から人間になったら寿命って縮まったりするの?」

「さあ、それはわからないけど犬の時よりは長生きするんじゃないかなって思うよ。そう言うのってさ、俺よりもあっちゃんの方が知ってそうだけど、そこのところはどうなの?」

「私も人から聞いただけで詳しくは調べてないんだけど、犬の時と寿命はそんなに変わらないみたいだよ。でも、犬にしては長生きしたなって思えるくらいには生きることも出来るって話も聞いたことがあるんだよね。だから、ディノ君がまだまだ大丈夫だと思うんだけど、学習能力が高くて成長するスピードも速いとそれだけ寿命を使っちゃうって事なのかな?」

「それはわからないけどさ、どんなに頑張っても俺はあの人より長く生きることが出来ないと思うんだよね。そうなったらさ、あっちゃんが一人ぼっちになっちゃいそうだし、そんな時にあの人がいればいいなって思ったんだよね」

「それは私もそう思うんだけど、それでも私はディノ君と一緒にいたいって思ってるからね」

「あっちゃんがそう言ってくれるのは嬉しいよ。でも、俺はあっちゃんに幸せにしてもらうことは出来てもあっちゃんを今以上に幸せにしてあげることは出来ないと思うんだ。俺達みたいに動物から人間になったモノたちってさ、普通に働いてお金を稼ぐことって出来ないんだもん。あっちゃんにばっかり負担をかけちゃうと思うんだよね」

「違うよ。そんなこと思ってないよ。私はディノ君のために何かすることを悪いことだって思ってないし、負担だって感じたことは無いんだよ。ディノ君がいるから頑張れるって事もあるし、今はそれが私の生きがいになってるからね」

 たぶん、俺がずっと幸せでいることが出来ているのはあっちゃんがこうして俺の事を思ってくれているからだろう。他の犬たちだって飼い主に大切にされてはいると思うけど、あっちゃんみたいに俺の事だけを考えてくれる飼い主なんてどこを探しても見つかることなんてないだろう。だからこそ、俺はそんなあっちゃんにちゃんと幸せになってほしいのだ。

 俺があっちゃんに与えることが出来ることなんてたかが知れている。俺は自分が出来ることと出来ない事をちゃんと理解することが出来ているのだ。たぶん、今のままあっちゃんに甘えるだけでも幸せだって言ってくれるだろう。それは嘘偽りのない本心だとは思うのだけれど、それでも俺はあっちゃんに幸せになってもらいたい。

 その為に俺が出来ることは、あっちゃんとあの人がまた一緒に楽しそうに過ごしてくれるように仕向けることだけだ。俺が知らないだけであの人よりももっといい人がいるのかもしれない。でも、そんなのは俺が知らない以上はどうすることも出来ないのだ。だからこそ、あの人と会える次のチャンスに俺は二人が前以上に幸せに過ごせる場所を用意したいと思う。

「俺はさ、あっちゃんに育ててもらって幸せだよ。たぶん、他の人に飼われててもそれなりに幸せを感じてはいたと思うよ。でも、俺はあっちゃんじゃない人に飼われてたら人間には慣れていなかったと思うんだよね。他の人の愛情が少ないとかそう言うことじゃなくて、あっちゃんが俺の事を大切に思って育ててくれたって事が一番大きいと思うんだ。それと、たまにやってきたあの人も俺の事を大切に思ってくれてたってのがあるんじゃないかなって思う。俺はさ、あっちゃんの事も好きだけど、あの人の事も好きなんだよ。あっちゃんに対する好きと同じではないかもしれないけど、俺はあの人の事も好きなんだ」

「私もさ、今だから言えるんだけど、ディノ君と遊んでる義之を見るのが好きだったよ。私の時とは違う笑顔だなって思ってみてたんだけど、私はどっちの笑顔も好きだったの。あの笑顔を忘れたいとは思わないし、忘れることなんて出来ないと思うけどね」

「それなのにさ、どうして二人は別れちゃったの?」

「それはね、私がワガママを言ったからかな。勘違いしないで聞いてもらいたいんだけど、私はディノ君がちゃんと一人前の男子になるまで他の人の事を考える余裕がなくなったと思うんだ。私一人でディノ君を幸せに出来るのか不安だったし、誰かに負担をかけるのも違うんじゃないかなって思って。義之に今以上に負担をかけることになりそうで、それだけはどうしても出来ないなって思っちゃったんだよ」

「わかんないよ。俺にはそう言う人間の考え方がわからないよ。あっちゃんは今でも俺の事をたくさん幸せにしてくれているし、そばにずっといてくれるのは嬉しいよ。でも、少しずつだけどあっちゃんが疲れてきてるのが俺には見えてるんだよ。昨日よりも今日の方が疲れて見えているし、何にもお手伝いが出来ない俺はあっちゃんが付かれているのを見てることしか出来ないんだよ。あっちゃんは違うって言うと思うけど、それって俺があっちゃんにとって負担になってるんじゃないかなって思っちゃうんだ」

「違うよ。私は疲れてなんて無いよ。ディノ君の事だって負担だって思ったことないし」

 あっちゃんは時々嘘をつく。人間になる前の俺に対して弱音を吐くことは何度も会った。俺が人間になってからはそう言うことは言ってくれなくなったけど、明らかに違う事を思ってると感じることは増えていた。そんな時にあっちゃんは決まって小さく頷いてから嘘を言うのだ。この癖はあの男が遊びに来ていた時に時々見かけたものなのだ。お互いに忙しいので帰ってほしくない時なんかによく見てたと思う。あっちゃんもあの男もたぶん気付いていないと思うけど、あっちゃんはその癖を出した後は俺の背中に顔を埋めて思いっきり深呼吸をしていた。

「俺はさ、あっちゃんが言ってくれることは全部正しいことだと思ってるよ。でも、正しいことでも辛いことはあると思うんだよね。辛い時に俺が何か出来ることがあるのかもしれないけど、俺よりもあの人の方があっちゃんの事を助けることが出来ると思うんだ。だからさ、あっちゃんの為だけじゃなくて俺のためにもあの人と仲直りしてもらいたいなって思うんだけど」

「私は別に義之と喧嘩したわけじゃないんだけどね。私がワガママ言って義之を振っただけだし。でも、そんな事しといて戻りたいとか自分勝手すぎると思うな」

「やっぱり俺は犬であるから難しいことはわからないよ。でも、喧嘩をしてないんだったとしたら前みたいに楽しそうにしててほしいな。俺は幸せそうにしている二人を見るのが好きだから」

 あっちゃんはこの前みたいにスマホを取り出して何かを見ているようだった。俺はスマホの使い方が難しくて理解することが出来ないので見ているだけなのだけど、あっちゃんが見せてくれたのは犬だった時の俺とあの人が写っている写真だった。俺が犬だった時の写真は毎日のように見ているんだけど、あの人と一緒に写っている写真を見たのは初めてだ。久しぶりに見たあの人はやっぱり嬉しそうに見えるんだよな。

「そうだね。ディノ君の言う通りだね。喧嘩したわけでもないんだし、私の事を好きじゃなかったとしてもディノ君と仲良くしてもらえるように頼んでみようかな。日曜に会う時はディノ君も紹介したいしその時にお願いしてみるよ」

「俺だけじゃなくてさ、あっちゃんとも前みたいに仲良くしてもらえるように頼もうよ。俺からもお願いしてみるからさ」

「そうしたい気持ちはあるんだけどね。今はきっと無理だと思うな。だって、この前電話した時に義之の方から女の人の声が聞こえたからね」

 あっちゃんはスマホを見ながら悲しそうにそう言った。いつもより元気のない声で寂しそうにそう言ったあっちゃんではあったけど、その言葉に嘘は無いようだ。女の人と一緒にいるから無理なんだよって嘘もつけるとは思うのだけれど、あっちゃんのその言葉に嘘は無いようだった。

 悲しそうにしているあっちゃんに対して俺は言葉をかけることが出来なかった。こんな時になんて言えばいいのか、犬の俺には言葉を選ぶことさえ出来なかったのだ。

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