10月7日(金)

 その日の学校生活を締めくくるホームルームで配られたプリントがやけに鋭過ぎて、俺は親指をざっくりとやってしまった。ダラダラと血が流れ出した。それを見て、隣のトキさんが、


「ヒッ……」


 と大きな声を上げ、顔を青くした。もうホームルームも終わることだし、終わってから手洗い場で洗えばいいか、と、最初は思っていたのだが、想定していたよりも多量の出血と、隣のトキさんの反応のおかげで、周囲の注目を浴びてしまい、


「ま、マツザキくん、それ……!?」


 担任までが顔を白くさせてしまい、


「ちょ、ちょっと、保健委員、早くマツザキくんを保健室まで連れてってあげて!」


 と、保健室送りになってしまった。


「はーい」


 担任の指令で席を立ったクラスの保健委員はウンノだった。ウンノはトキさんと担任とは違い、ダラダラ流れ落ちる俺の血を見ても平然としていて、ポケットから素早くハンカチを取り出すと、俺の指にあてがってくれた。


「さ、行きましょ」


 俺たちは流血騒動で少し騒がしくなってしまった教室を後にした。


「ハンカチ、洗って返すから」


 廊下を歩きながら、隣のウンノに言った。


「別にいい。あげるわ、それ」


 俺を見ることなく、ウンノが言った。

 俺は血に染まったハンカチを見た。たしかに他人の血がべったりついたハンカチなんて、たとえ洗ったとしても、もう要らないか……。


「それじゃ悪いから、新しいの買うよ」


「本当? じゃ、お言葉に甘えちゃおうかな」


 ウンノは横目でこっちを見て薄く笑った。ほんの少し口元と目元を緩めただけなのに、ウンノの横顔はとても色っぽい。直視するのを憚られるほど艶がある。それも大人の恋愛の為せる技なのか……。


「じゃあ、放課後ちょっと付き合いなさい」


「えっ、今日?」


「なに? ダメ?」


 言って、ウンノの視線が俺の手の血まみれハンカチへと移り、ニヤッと笑った。「ハンカチの借りがあるでしょ?」と目が言っていた。そう言われちゃ、こっちとしては従うしかない。


「わかった。借りは早く返すほうがいいもんな」


「そういうこと」


 ウンノはまた薄く笑った。やっぱり色っぽく、今度は少しばかりいたずらっぽくもあった。なにやら男の本能に訴えかけてくるものがある。さすがウンノ、年上をたぶらかすほどの魔性の女。その一挙一動が小悪魔的だ。


 ほどなくして保健室に到着した。保険医に消毒をしてもらってる間にスマホを見てみると、タツミからのメッセージが着ていた。


『今日一緒に帰らない? ミスドの割引があるんだ~(ハンマーの顔文字) ドーナツ食べようよ(ライオンの顔文字)』


 相変わらずの絵文字センス。俺もドーナツは好きだから、とても魅力的な提案ではあるけれど、今日のところは先約があるため、丁重にお断りした。


 保健室での治療の後、俺とウンノはチャリで駅前の大型スーパーへと向かった。五階建てで中に多種多様の店舗が入っている。ちなみにミスドもこのスーパーのすぐ近くだ。


「先に言っておくけど、あんまり高いものは買えないぞ。俺は貧乏苦学生だからな」


 スーパーに入って開口一番、俺はウンノに警告した。


「わかってるって」


 そう言って、ウンノは先を歩いて行く。俺は大人しくウンノの後ろをついて行く。エスカレーターに乗って二階、衣料品店フロアの最奥の店へと俺たちはたどり着いた。そこは、


「ま、マジか……」


 俺は店の前で足を止めた。足がそこへ真っ直ぐ入ることを躊躇ためらった。なぜならそこは男子禁制 の花の園、ランジェリーショップ。目も眩むばかりの色とりどりサイズ様々な多種多様の女性用下着が所狭しと並んでいた。


 ウンノはさっさと店へと入っていく。それを俺は後ろから呼び止める。


「ちょ、ちょっとまて!」


「ん?」


「なぁ、別の店にしないか? そこはちょっと……俺、男だし……」


「なに? ビビってんの?」


 ウンノは呆れたようにジトっとした目で俺を見た。ご賢察の通り、俺は正真正銘ビビっている。ランジェリーショップに入ったことなんてこれまでの人生で一度もない。

 しかし、何だその目? 俺が間違ってるのか? いや、納得できない。俺は間違ってないはずだ。一般男子高校生なら、誰だってビビるだろうが……。


「だ、誰だってビビるだろ。そんな店、入る機会なんてないんだから」


「あれ? タツミさんとはまだなの?」


「言ってる意味がわからん。それがなんで男の俺がランジェリーショップに入る理由になるんだよ」


「えっ? 普通じゃない? カップルだったら彼女の下着くらい選んであげるくらい。私だって先生と来たよ」


「な、なんだと……!?」


 先生と来ただって!? 教師と生徒がランジェリーショップ!? そんなハレンチなことが許されていいのか? 犯罪だぞ? ニシオのヤロー、一回マジで教育委員会にタレ込んでやろうかな……?


「マツザキくんってビビりなのね。じゃ、いーわ。ビビりはそこで待ってなさい。先生はあんたと違って、堂々と入ってきたのにねー」


「なにっ……!?」


 ビビりビビりと侮られて、そのままにしておくわけにはいかない。ただれた恋愛やってる女に舐められちゃたまらん。ニシオにできて俺にできないわけないだろ! マツザキリョウスケ、吶喊とっかんします! それに興味がないと言ったら嘘になるし。マツザキリョウスケ、故あればランジェリーショップにも入れる男さ。


 意を決して、俺はウンノに付いて店に入った。そこは三百六十度、どこを見渡しても頭がクラクラするような空間だった。一般男子高校生には刺激が強すぎる世界だった。ふらつきを覚えながらも、ここで一人になるのはとっても恐ろしいので、俺は必死でウンノに付いて行った。


「どれがいいと思う?」


 パンツがウンノを見せてきた。じゃなかった、ウンノがパンツを見せてきた。


「どっちもいいと思う」


 俺はテケトーに答えた。まともに見てられないので、そう言うしかなかった。頭もまともに働かないし。


「じゃあ、こん中から選んで」


 なにやらたくさん出してきた。俺は薄めを開けて見た。どれもものすごいやつだった。ウンノはギャルギャルしい女の子じゃないが、提示してきたそれはギャルギャルしく、エグくて、下着の役割に疑問符がつくようなものばかりだった。


 しかし布面積の少なさと比例して値段が上がる意味がよくわからない。デザイン料なのだろうか? 布面積を削りつつ、下着としての能力や必要な剛性を確保するための特別な技術と素材と手間がかけられているとか?


 俺はあえてそんなことを考えた。思考をそっちへ移しておかなければ、俺の精神がもたない。もし、ウンノがそれを着用している姿を想像してしまったりすれば、もう終わりだ。大量の血液が極端な位置に滞留し、おそらく俺は爆裂四散して死ぬ。


「ま、マツザキくん……!?」


 俺を呼ぶ声がとっても驚いていた。何を驚くことがあるウンノよ。お前に比べて俺は、さっきからずっと驚愕の連続だぞ。そう思って声の方を恐る恐る見て見ると、


 そこにはタツミ。


「た……つ……み……!?」


 何が起こったのかわからない。ウンノがタツミに変身した? ランジェリーショップはそんなことが起こる空間なのか? 何かよくわからないが、何か良くないことが起こっていることだけはわかっていた。なぜならタツミの顔は嫌悪と恐怖と驚愕と怪訝けげんにひどく歪んでいた。


「用事って、ランジェリーショップで女性用下着を買うことだったの……?」


「……なわけないだろ」


 とは言ってみたが、タツミの言ったことは当たっている。俺が俺のために買うわけじゃないが、まさに今の俺はランジェリーショップで女性用下着を買うためにここにいるのだから。


「そういう趣味があったの……?」


「なわけないだろ……」


「じゃ、誰かに買うの……?」


「いや、それは……」


 クラスメイトのウンノに、女性用下着を買ってやるんだ、なんてことが正直に言えるだろうか? 言えるわけがない。だと誤解されちゃ困る。俺が指を怪我したときに、ウンノからハンカチを貰ったから、そのお礼に女性用下着を贈るんだ、なんてちゃんと説明したところで納得してもらえるわけもないだろう。俺だって女性用下着を買わされることが最初にわかっていたらついてこなかった。結局店に入ってしまったのも、ウンノに挑発されたからだ。


 魅力的な女の子ほど、男を挑発する手段に長け、その手管も多岐にわたる。その一つがランジェリーである。いや、そんなことはどうでもいい……。何か良い言い訳はないものか……。


「もう行っちゃったよ」


 その声に俺はハッとなった。周りを見渡すとタツミはもうどこにもいなかった。声の主はウンノだった。


「タツミさんにも買ってあげればよかったのに。もっと仲が深まるチャンスだったのにね」


 いたずらっぽく笑うウンノ。こいつ、俺の気も知らないで……。


「じゃ、お会計よろしく」


 そう言って、ウンノは何着もの下着を俺に持たせようとしてきた。俺は下着を手にとるのは断固として拒否した。母の下着だってろくに触れたことないのに、同級生の女の子がこれから着用予定のやつなんかに、気安く触れる俺じゃない。


「金はやる。だから会計は一人でしてくれ。お釣りだけ返してくれればいいから」


 そう言って、ハッとなった。最初からそれでよかったんじゃないか。俺がわざわざ店に入る必要なんてなかった。あぁ、あのとき挑発にさえ乗らなければ、あんなところをタツミに見られることもなかったのに……。


 俺は金だけ渡し、フードコートで待ってる旨を伝えてさっさとランジェリーショップを後にした。フードコートの自販機で自棄やけコーラを飲んでると、ウンノが両手に包みを持ってやってきた。片方の包みとお釣りを俺に渡してきた。


「なんだよ、これ」


「マツザキくんが選んでくれたパンツ。タツミさんにプレゼントしなよ。きっとタツミさんも喜んでくれると思うよ?」


「お前、付き合ってない男から下着プレゼントされて嬉しいか?」


「人によるかな?」


「……」


「マツザキくんなら、歓迎だけど?」


「……」


 目を細めて笑うウンノ。やっぱり色っぽくて艶がある。大人の女性の魅力だ。今日の俺はそんなウンノに圧倒されてばかりだった。


 パンツは、一応自腹で買ったものだから持って帰った。タツミにプレゼントするかは別として、捨てるのはもったいないと思った。包みは開けていない。ウンノは俺が選んだなんて言ったが、俺はほとんど目を瞑ってテキトーしてたから、どんな下着が入っているか想像もつかない。


「はぁ……」


 部屋で一人ため息をついた。パンツの包みをどうしようかと考えた挙げ句、ベッドの下に突っ込んでおいた。スマホを手に取り、タツミへの弁明をしようと思ったが、いい弁明文が思い浮かばなくて止めた。タツミからの連絡もない。


「はぁ……」


 ランジェリーショップ。そこは男子禁制、女人の花園にして聖域。男がいたずらにそこを覗くとバチが当たる。しかし、同時に心の中に残る奇妙な満足感が疑いようのない事実であることを否定できない自分がいた。

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