9月16日(金)

 クラスメイトが先生とキスをしていた、そんな衝撃的な場面を見てしまった。


 俺は不覚にも身体が固まってしまった。それはあちらのカップルもご同様だった。クラスメイトのウンノは切れ長の細い目をやや見開き気味で俺を見ていた。相手役の物理のニシオのほうは露骨に狼狽していた。まるでケツにつららでもぶっ刺されたかのような怯えているのか、苦痛なのか、恐怖なのか、なんともいえない絶妙に間抜けな顔をして口を震わせこちらを見ていた。メガネの奥の目が白黒していた。


 教室が凍りついたのはおそらくわずか数秒のことだっただろう。だが、感覚的には何分もフリーズしていたように感じられた。

 やがて時は動き出す。俺は見なかったふりをしてなんとか冷静を装いつつ、自席の机からノートを取り出した。これは明日提出予定の課題で、これから家に帰ってやらなければならない。これを教室に忘れてしまったせいで、俺はこんな目に遭ってしまったわけだ。


 時が動き出すと、ニシオは今の今まで抱き合っていたウンノから突き放すように離れると、脱兎のごとく教室を飛び出していった。

 あとに残された俺とウンノ。一人減ったがまだまだ気まずい空気がむせ返るほど教室に漂っている。


「マツザキくん」


 ウンノが言った。ツンと冷たく刺す、アイスピックようなキレのある声音だった。

 俺は無言でウンノを見た。ウンノは背が高い。男の俺とほとんど変わらない。陸上部に所属していて、短距離選手だとか。そういえばニシオは陸上部の顧問だったような気がする。ショートカットの髪をかきあげた。小麦色に焼けた肌とは対照的に首元の白い部分が一瞬見えた。ウンノがこちらにすらりと長い脚が機械じみた正確なかつ素早い動作でこちらに歩み寄ってきた。


「マツザキくん、見たでしょ?」


「何を?」


 自分で自分の声が緊張しているのがわかった。年長者に対する緊張だ。あんな大人なシーンを間近に見せられたあとでは、普段はなんとも思っていない女の子が急に色っぽく、大人っぽく見えてしまう。


「私の口から言わせるつもり? そうやって相手をいたぶって楽しんでるの? マツザキくんって意外とS?」


「正直に言えば、見てないと言えば嘘になる。でも、見てないことにもできる。俺は誰にも言うつもりはないよ。だから安心してくれ」


 本当に正直な気持ちを口にした。嘘偽りのない本心だったが、ウンノの俺を見る鋭い目には懐疑の色が映っていた。


「信じられない」


 俺が目で見て取った通りのことを、ウンノは言った。


「信じられないだろうな。俺だって自分が見たことを未だ信じられない気持ちでいるし。で、信じられなかったらどうする? 殺して口封じするか?」


「口をふさぐなら、もっといい方法がある」


 それは突然だった、ウンノは豹が獲物に襲いかかるように俺の胸の中へ飛び込んできた。その小さくぷっくりした唇を俺の口へ押し付けようとしてきた。


「なっ……!?」


 俺はぎりぎりのところでそれをかわした。片手でウンノの肩を、もう片手でウンノの首をつかんで押し返した。おかげで手に持っていたノートを床に落としてしまった。ウンノはほとんど抵抗もなく俺から離れた。はからずも俺はニシオがやったようにウンノを突き放した形になった。ウンノもそのときと同じように寂しそうな、怒ってるような微妙な表情を浮かべていた。


「そんなことしなくていい。俺はニシオとは違う。誰にもウンノのことを言うつもりはない」


 ウンノは俺の言葉に小さく笑った。


「ニシオ先生は何も悪くないよ。だって先生のこと大好きだから」


 真っ直ぐで純粋な笑顔だった。ウンノは惜しげもなく、恋する乙女の顔を俺にさらけ出していた。西日と相まって、俺はそれを直視できなかった。


「そうか。でも教室じゃ止めとけよ。見られるたびに好きでもない男の口を塞ぐわけにもいかないだろ」


「うん……。マツザキくんって優しいんだ」


「いや、これは俺のためなんだ。万が一このことが噂になったらウンノは俺を疑うだろ? 言ってもないことで疑われたくはないからな」


 俺はノートを拾ってカバンに入れた。もうここに用はない。長居して気持ちのいい空間でもない。俺は足早に教室の扉に向かった。


「マツザキくん」


 教室と廊下の境界線をまたいだところで、後ろから声がかかった。俺は足を止めて顔だけで振り返った。


「マツザキくんって優しいね。だからモテるんだ」


「そんなこと言われたのは初めてだ」


「少なくとも、私は好きよ」


 ウンノはまっすぐに俺を見て、照れるでもはにかむでもなく、朝の挨拶をするような純粋な目でそんなことを言ってのけた。不覚にも俺はドキリとさせられた。


「そんなのは本当に好きなやつにだけ言っておけよ」


 俺は足早に教室を後にした。

 ウンノ、あいつは魔性の女だ。要注意人物だ。以後俺はウンノに極力近づかないことを固く心に誓った。女豹のようにしなやかで危険なやつ。食虫植物のように甘く怖ろしい香りのするやつ。そんなやつには近づかないに越したことはない。でなければ、ニシオのように道を踏み外しかねない。


「おい、マツザキ」


 下駄箱の前でニシオが待ち構えていた。危険な女の相手にも関わりたくないものだが、相手が教師だからそうも言ってられない場合がある。


「あ、ども」


 俺は軽く会釈した。


「遅かったな。教室でウンノと何を話してたんだ? 何か変なこととかなかっただろうな? ウンノに手を出したりしなかっただろうな? え? 不純異性交遊は停学処分だぞ?」


 驚きだ。ニシオの顔全体が嫉妬に燃えあがって赤くなっていた。どうやらこいつはちょっと教室から出てくるのが遅かっただけで、俺がウンノを脅して何かしたと思いこんでいるらしい。むしろそれは逆で、ウンノはこんなやつを守るために自分を差し出そうとしていたのに……。


 こんなに不快なことはなかった。ほとほとムカついた。こんなクソ野郎が目の前に存在すること、そんなクソ野郎のために頑張ろうとした女がいたことにムカついてならなかった。


「俺は先生とウンノが何かしていたところなんて一切何も見てませんし、ウンノにももちろん何もしていません。ウンノに聞けばわかりますよ」


 内心の怒りは呆れとなって態度にでてしまった。これでも堪えたほうだ。本当はこう言ってやりたかった、


「そんなにウンノのことが心配だったなら、どうしてあのとき好きな女を置いて逃げるような真似をしたんだ?」


 言うわけがない。俺はこいつとは違う。俺は理性で動き、こいつは欲望とかいう本能で動いている。だから言わない。俺は大人で子供に手を出す大人じゃない。俺はため息をつきながらさっさと靴を履き替えて駐輪場に向かった。一秒でもニシオと同じ空気を吸っていたくなかった。


「ウンノ、お前の好きな男はクソだ」


 チャリで家路を爆走しながら、俺は吐き捨てるように言った。なんだかウンノのことまでムカついてきた。なぜウンノはあのクソ野郎のクソさ加減に気づかないのだろう? 女子高生に男を見抜けなんて難しい話なのか? それとも俺があのクソ野郎のいいところに気づけていないだけか?


 そんなことを考えているときに、堤防の下のベンチにタツミがいるのを見つけた。俺は夕日に照らされたその姿に吸い寄せられるようにして、彼女の元へとチャリをこいだ。


「あ、マツザキくん」


「よっ、なにしてんの?」


「川見てた」


「タツミは健全でいいな」


 思わず誰かさんと比べてしまった。


「なにそれ? マツザキくんは健全じゃないの?」


「そ、だからタツミにあやかって健全になりにきたんだ。昨日貸した本、読んでる?」


「読んでるけど、なんか昨日マツザキくんが言ったあらすじと違う気がするんだけど?」


「まだ序盤だろ? 盛り上がるのはこれからさ」


「ふぅん……」


 それから俺たちは馬鹿話に興じた。なんの生産性もないくだらない話だが、教室で教師が生徒にあんなことをするよりは全然マシだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る