9月7日(水)濡れて透けて
授業が終わり、いざ帰宅、というときになって雨が降った。けっこう強い雨だ。弱ったな。今日は傘もかっぱも持っていない。諦めて濡れ鼠になって帰るべきか、雨が止むのを待つべきか。
「どうする?」
下駄箱で雨を見ながら逡巡していると、後ろから声をかけられた。振り向くとタツミだった。どうやらタツミも俺と同じらしい。というわけで、二人で雨が止むのを待つことにした。一人なら雨を待ち続けるのもしんどいが、話し相手がいれば問題ない。
二人で自販機前のベンチでジュースを飲みながら適当な話をしながら、雨が止むのを待った。三十分経っても雨が止む様子はなかった。スマホで天気予報を見ると、まだしばらく雨は降り続けるらしい。
「あっ!」
唐突に、タツミがでかい声を出した。
「なんだよ急に、びっくりするなぁ」
「私、今日早く帰らなきゃいけないんだった! ごめん、先帰るね!」
そう言って、タツミはベンチを立つと、雨の中を駐輪場へと走っていった。
「ちょ待てよ」
タツミは聞こえなかったらしい。そのまま走っていった。俺は追いかけた。どうせしばらく雨が止まないのなら、ここにいる理由はない。タツミと会わなければ濡れて帰るつもりだったし。駐輪場でタツミに追いついた。
「一緒に帰ろうぜ。二人なら濡れても楽しいだろ」
二人だとどうして楽しいのか自分でもよくわからなかった。とにかく俺たちは雨の中を一緒に帰ることになった。
二人で学校を出た直後、雨がキツくなった。チャリの勢いもあるのだろう、雨脚と相まってすぐにずぶ濡れになった。だから俺たちはほとんど無口だった。雨音もうるさいし、喋る気が起こらなかった。
そこで、ふとタツミに目を向けると、
「あっ! タツミ……」
タツミのシャツが濡れて、スケていた。男子高校生にとって大変なものがうっすらと見えていた。俺はそれを指摘しようとしたが、口から出かかったところでなんとか止めた。それを指摘することは、ひょっとしたらセクハラなんじゃないか? ギリギリでその考えが頭に浮かんだのだ。
「ん? 今なんか言った?」
「いや、なんでも……」
タツミは気付いていない。いや、気付いているが、気にしていない可能性もある。あえて平常を装っているという説もありうる。いずれにせよ、たとえどんな理由があったとしても、俺がいちいち指摘することじゃない気がする。指摘したところでどうにかなる問題でもなし。タツミ、見て見ぬふりしかできない俺を許してくれ。
指摘しないと決めてから、逆に気になって仕方がなかった。指摘しないし、極力そこへ目を向けないようにもしているのだが、そう強く思い込めば思い込むほど、逆にそこへと目が行ってしまう。そこには男を惹き付けるものがあるらしい。おそらく本能的なものだ。蜂や蝶が花に惹かれるのと同意だ。
しかし、だからといって本能の赴くままに生きて良いわけがない。人間と動物はそこが違う。人間には理性があり、自らが作り出してきた道徳もある。理性と道徳を遵守し、本能を抑えることこそ、人間の人間たるべき意義じゃないのだろうか?
こんな雨の中、チャリを漕ぎながら、俺は何を考えているんだろう? ふと、我に返った。雨に滝行の効果があるのかもしれない。だから冷静に自らの深淵を覗き込み、哲学世界へと没頭できるのかもしれない。
なんて思いつつも、ハッと気がつくと、俺の目はタツミのそこへと吸い寄せられている。全くもって女とは怖ろしい。無垢な横顔でこれほどまで男を翻弄するとは! 若きマツザキくんをここまで悩ませるとは!
そんなことを思っていると、いつの間にか自宅はすぐそこだった。赤信号に止まった。
「マツザキくん、なんか楽しそうだね?」
「楽しい? 雨に打たれて楽しいわけないだろ」
「あれ? でも二人なら濡れても楽しいって言ってなかった?」
「そうだったっけ?」
「ふふっ、でも楽しそうだったよ。顔がずっとニヤニヤしてた。目つきもなんか怪しかった」
「……ま、そういうときもあるさ」
「マツザキくんっておかしー。じゃ、私こっちだから」
信号が青になった。タツミは信号を渡ると、左に曲がっていった。俺は反対へと曲がった。
認めよう、敢えて言い訳はしない。俺はニヤニヤしていたさ。楽しかったさ。でも、その理由だけは誰にも言えない。言うわけにはいかない。男の沽券に関わる話さ……。
家のすぐ前で、雨が止んだ。数分後、打って変わって青空が広がった。夕暮れが濡れた街を眩しく彩った。
「ま、そういうこともあるさ……」
雨上がり、ずぶ濡れの俺は、ため息交じりに小さくつぶやいた。
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