9月5日(月)タツミに夢中

 放課後の教室で、俺たちは二人きりだった。

 斜陽が教室の隅で小さな陽だまりのスポットを作っている以外に明かりと呼べるものは存在しなかった。そんな薄暗い中で、俺たちは二人きりだった。

 開け放たれた窓から入るひんやりとした風がカーテンをなびかせた。窓の外のオレンジの陽光がどんどん弱まり、青がかってゆく。夜が始まろうとしている。


 彼女が何事かを発した。口は動いていたが音はなかった。次の瞬間、彼女は俺の胸の中へと飛び込んできた。俺は反射的に彼女を抱きとめ、強く小さな身体を抱きしめた。彼女の身体は驚くほど熱を持っていた。じんわり滲んだ薄汗が艶めかしく輝やいていた。動物的な香りが、俺の本能へと強く訴えかけてきた。頭がくらくらしてきた。全てが一瞬にしてモノクロームに変じた。


 夢のような時間。それは引き伸ばされた瞬間。めくるめく熱いひと時。それはクローズアップされた現実の一部。互いをまさぐり互いをむさぼるような、肉食のゲーム。それは強調されすぎ、もはや虚構となってしまった展開。


 かわされる呼吸は声にならない叫びだった。飾ることの出来ない空虚な本音を互いにぶちまけ、嘘でないだけに理性の欠片も残らない、知恵の足らずの酷く拙い言葉を投げかけ合うお粗末な戦い。傷つきぶつけ合うことで、互いの理解を深めてゆく。


 衣擦れ、滴り、椅子と机が引きずられ、軋む。深くは考えない。そんな必要はない。本当は必要なのだが、そんな理性など一ミリも残っていない。言葉はいらない。というより発せない。そんな頭はもうない。あるのは肉体言語だけだ。


 ふと思った。これは惑星探査に似ている。未知なる世界の究明であり、救われる道の模索だ。何百年前から続く神秘への探究。人類のメインテーマに俺は今深く触れている。ゲノムの解明よりよっぽど有意義な理解がきっとそこにあると信じて。


 明確なイエスもノーもなく、また必要もなく、俺たちは次の領域、戻れないところへと踏み込もうとしていた。蛇が木を登るように自然で、どこか歪な流れだった。互いに一つのりんごを分け合うように、俺たちは互いを求めたのだった。


 もはや暗くなった教室、残暑の匂いは大衆にかき消され、予熱だけを残す。影と夜闇のベールに抱かれつつ、その中で秘事を画策し、水面下で進行させる。であるならば、教室という場所ほど不相応なところもない。なぜならカラスの声にまじって、遠くから理性ある同胞の声が聞こえてくるのだから。


 汗と汗が互いを繋ぎ、お互いに無いものを埋めようとしたそのときだった、荒々しく教室のドアが開かれた。一瞬にして熱は凍りついた。身体から血が一瞬にして抜かれ、干からびた俺はただの穴ぼこになった目でそれを見た。


 タツミ……。


 そこで俺は目を覚ました。午前七時。起きるにはいい時間だった。


「なんちゅー夢だ……」


 朝、起き抜けの一発目に俺は盛大なため息をついた。正直なところ、そんな悪い夢じゃなかった。むしろ最後まで楽しみたかった。時間はそれを許さなかったし、夢の中のタツミもそれを許さなかった。とにかく、もう起きる時間だった。


 それからはいつも通りの朝を過ごし、登校した。下駄箱で後ろから声をかけられた。


「よぉっす! 今日も元気だね! 少年!」


 そんなことを言いながら、タツミは俺の脇腹に軽いチョップをかましてきた。


「少女よ、お前のほうがよっぽど元気にみえるぞ」


 言って、俺は彼女の顔を見ようとしたが、なぜか直視できなかった。夢のことなんて気にするべきじゃないし、普段なら気にならないはずだが、今日はなぜかやけに夢の中のタツミと今目の前にいる現実のタツミが重なって見えた。


「あれ? どーした? やっぱり元気ない?」


 タツミが顔を覗き込んでくる。いつも通りの可愛らしく、今日はとくにすっとぼけたようなその顔が、今日はとても厄介に思えた。賢くあくどい猫みたいに面倒だった。


「そんなことないよ。タツミほどじゃないけどな」


 俺たちは俺たちのクラスのある階まで一緒に階段を上り、教室の前で別れた。

 さて、ここからが本当のドキドキだ。きっと教室の中にはトキさんがいるから。タツミでも直視できなかったのに、トキさんの顔なんてまっすぐ見られるだろうか? この先は時間帯こそ違うが、夢でみたのと同じ風景が広がっているはずだ。そしてそこには、夢で見たあの少女もいるのだ。互いに熱を高めあったあの少女が。


 一度深呼吸してから、俺は覚悟を決めて教室のドアを開けた。

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