8月30日(火)グリコ・チョコレート・パイナップル・タツミさん

 長いようで短いホームルームが終わると、待ちに待った放課後だ。ドッグランに投げ入れられた小型犬のように教室を飛び出していく者、部活動の準備をしてから悠々と出ていく者、しばらく帰る気がないのだろう、教室内に仲間たちととどまる者、放課後の生徒たちの最初の行動はだいたいこの3パターンだった。


 俺はまた別のパターンを採った。ある程度帰宅を始める生徒たちが廊下から消え去るまでは、自席の机の上のカバンを枕にして、教室内に留まるのが俺の流儀だ。理由は単純、混み合う廊下が嫌いだからだ。


 5分も経てば頃合いだ。隣のトキさんはもういなかった。俺は席を立った。エアコンが効いた教室という聖域から廊下へ一歩出ると、そこには夏の残滓が揺蕩っていた。教室のエアコンは28度設定で、おそらく廊下は30度くらいだが、湿度が二十から三十パーセント違うのだろう、体感温度は数値以上だった。


 そのとき、後ろで隣の教室のドアが開く音がした。振り返ると、タツミだった。


「あっ」


 タツミは小さく声を上げると、一瞬ニヤッと笑って足早に俺のすぐ側を駆け抜けて行った。廊下を走ってはいけません、そう声をかけてやろうと思ったが、そう思っているうちに、タツミの姿は廊下の角へと消えていった。彗星のような女だった。


「なんだあいつ……」


 口の中でそうつぶやいて、俺は後頭部をかいた。廊下に出たばかりだというのに、もう汗で湿り始めていた。これだから夏は嫌になる。全くもってやれやれだ。タツミにもやれやれだ。まだ夏は終わっておらず暑いし、特に用事もないので、まっすぐ家に帰るべきだ。タツミが走り去った廊下を俺はタツミとは違ってゆっくりと歩いた。タツミが先程曲がった角を行くと、先には下駄箱へと直通の階段だ。


 そこにタツミはいた。


「ふふん」


 と、鼻を鳴らして、腕組みし、なにやら自信満々といった顔つきで俺を、いや、他の誰かかも知れないが、何かを待ち構えているように階段の前に立ちふさがっていた。


 俺は自分を指さした。タツミは頷いた。どうやら目的は俺らしい。


「なんのつもりだ?」


 俺が言うと、


「ここを通りたければ私を倒して行け」


「ほほぅ……!」


 俺は胸の前に両の拳を上げ、大げさにポキポキ鳴らしてやった。


「ちょ、ちょっと! 暴力はダメ! 暴力反対! 暴力団追放! 話し合えばわかる!」


 慌てて手を振るタツミ。めちゃくちゃ焦ってる。マジな焦り方に、俺は思わず笑ってしまった。


「冗談に決まってるだろ。で、どうしたんだ?」


「勝負しよ? ほら、子供のころやった、ジャンケンしてグーで勝ったらグリコって言って、音の数だけ階段を降りていくアレ」


「俺らもう高校生だぞ……」


 俺は辺りを見回した。幸いなことに他には誰も姿もなかった。高校生がジャンケンで階段を降りたり上ったりするアレをするしないで話し合っているところなんて、あんまり見てほしくない。


「高校生がやっちゃいけないって法律はないよ……?」


 タツミの目がきらりと鋭く光った。ナイフの切っ先に似ていた。つまりマジだった。いい歳をした美少女女子高生がマジな目をして馬鹿なことを言っていた。

 だが、それも悪くない。いいだろう、乗ってやる。


「ふん、相手が悪かったな。俺はジャンケン階段降りの世界ジュニアチャンプだぜ? 痛い目見たって知らないぜ?」


「そっちこそ、ママに泣きつく準備と覚悟はできてる? 私はできてる!」


「そっちができてるのはダメだろ……」


「死ぬ覚悟がなくて、どうして相手を殺せるかしら?」


 なぜかニヤッと笑うタツミ。


「大げさだし、物騒なんだよなぁ……。つーかさ、ただそれやるだけじゃ、あんまりおもしろくないな」


 勝負は構わないが、内容が気に食わなかった。子供の遊びをそのままやっても、高校生の心は満たされない。


「じゃ、どうする? 賭ける? ジュース一本でどう?」


「それもいいが、勝負のルールがな……そうだ! 言葉を変えていくことにしよう。グリコとかチョコレートとかパイナップルとか、それにとらわれずに、勝つたびに言葉を変えよう。で、一度使った言葉の再使用は不可能。グー、チョキ、パーの頭文字はちゃんと使ってさ」


「それだとチョキがめちゃくちゃ難しくない?」


「じゃ、チョキはチでいいよ」


「ふぅん……それも面白いかもね!」


「よし、じゃ早速やろうぜ。そのきれいな顔面と高慢なプライドを俺のジャンケンでぶち砕いてやるぜ」


「ふん、そっちこそ、私のチョキであなたの○○○をチョン切って去勢してやるわ!」


 タツミはとんでもないことを言い出した。俺は引いた。女の子の下ネタは引く。下というかグロいし。


「タツミ……それはちょっとどうかな……」


「うん、私も言ったあとすごく後悔した……ごめん……」


 タツミも恥ずかしそうに俯いて言った。


 そんな馬鹿なやり取りがあって、とにかくジャンケン階段降り対決は始まった。高校生だってまだ子供なんだから、たまにはこういう幼稚なことも必要なのだ。


「「ジャンケン、ポン!」」


 俺がグーで勝った。読み勝ちだ。ジャンケンで階段を上り下りする競技の今までのルールでは、グーはリターンが少なく最弱候補だった。故に駆け引きを盛り上げていた部分もあったが、新ルールでは3種の技全てが平等、ゆえに今までとは違った思考と推察、勘の働きが必要となる。おそらくタツミはまだ、このルールに適用できていない。


 タツミよぉ、環境に適応できないやつは滅ぶしかないんだぜ? 恐竜のようにな。


「ははは! タツミさんよ! 俺はあのジャンケンモンスターのサザエさんにも勝ち越してるんだぜ!」


「ふん、たかが一勝しただけその喜びよう、マツザキくんっておめでたい人なのね……」


 タツミは驚くほど冷たい冷笑を見せた。液体窒素ですら凍りそうなほどだった。

 やるじゃないかタツミ、一つ負けても精神的優位を崩さないように、あくまで対等なメンタリティを保ち、またそれが可能なのはプロフェッショナルに絶対的に必要なスキルだ。女子高生の身で若くしてそれを身に着けているとは流石だな。認めよう、貴様を倒すべき価値のある敵だと。


「タツミ、泣いて謝るのは今のうちだぜ?」


「ほざきなさい。さ、早く言葉を言いなさい! グではじまる言葉を!」


「そうだな、では宣言する! 『』!」


「……ッ!」


 さすがのタツミの顔にも焦りが浮かんだ。なんせ12文字だ。いかに強靭な精神力を持ってしても十二文字の重みは堪えよう。文字の一つ一つが鋼の重みとなってあらゆる角度から全身を苛むようなものだ。それは深海に沈められるのも同義である。骨が軋み、肺が潰れ、凍えるような冷たい水が穴という穴から侵入する。言葉の重りが積み重なり、このまま深くへと沈められればそこには死が待っている。


「お先に、タツミさん」


 俺は12段下がった。たった一言で踊り場を越えてしまった。見上げればタツミ。素晴らしい眺めだった。スカートの中身は見えないが、そんなものより、重い一撃に毅然を装って耐えるタツミの顔

が最高だった。これこそ勝者の愉悦というやつだ。


 それから立て続けに俺は三回勝った。『』と『』と『』で一気に下った。あまりにも距離ができたので、途中から声でジャンケンするしかなくなった。タツミは未だ頂上にいて、俺はもう中腹を過ぎていた。

 もはや俺の勝利は確定的に明らかだった。


「お~い、もう俺の勝ちでいいんじゃねーの?」


 俺は遥か上階の見えないタツミに降伏勧告を送った。


「まだ! まだよ! まだ終わらんよ!」


 まだやる気らしい。彼我の戦力差を見ても、まだわからんらしい。玉砕の美学か。ならば完膚なきまでに叩いてやるのもまた礼儀か。


「「ジャンケン、ポン!」」


「グー!」


 俺が言った。


「パー!」


 タツミが言った。俺は負けた。ま、一回ぐらい勝たせてやるか、そう思っていると、


「あっははははは!!!!」


 上階からタツミの高笑いが聞こえた。いやな笑いだった。なぜならそれは既に勝利を確信した勝者の笑いだったからだ。


「た、たかが一度勝っただけで――」


「違うわ! 私はこの戦いに勝利したの!」


「な、何ぃ!?」


「宣言するわ! パーで勝ったからパで始まる言葉、それは――」


 タツミはそこで一度言葉を切って、



 勝利の言葉、それはピカソの本名だった。


 そこで俺は気がついた。なぜ、タツミがチョキとパーしかださなかったのか。それは俺にパーで勝たせないためだった。そして自分がパーで勝つためだったのだ。


 がっくりと崩れ落ちた俺の横を涼し気な顔をしてタツミが軽やかな足取りで階段を降りていった。通り過ぎざまに、


「じゃ、ジュースよろしくね! 下で待ってるよ!」


 爽やか過ぎて嫌味な笑顔で言った。俺はもう笑うしかなかった。乾杯だ。タツミに称賛だ。俺はとぼとぼとタツミの後を追って階段を降りていった。


 下でタツミが待っていた。ドヤ顔だ。しかしそれもやっぱりとてもかわいらしかった。

 そんなタツミのドヤ顔が見れたのだから、俺としても悪くない敗北だった。

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