8月29日(月)ちんちんかもかも
「はい、バレンタイン!」
タツミだった。マジとも嘘とも冗談ともつかない顔で、手に持った紙袋を俺に差し出している。
四時間目の授業終わりの昼食後、昼休みを睡眠で満喫していると、突然肩を叩かれ、寝ぼけ眼をこすりながら見上げると、これだ。
「はぁ?」
これ以外に言う言葉がなかった。現在は誰もがご承知の通り八月の終わり。バレンタインデーとはかすりもしていない。教室もざわついている。周りを見ずとも、周囲の好奇の視線がこちらに注がれているのをひしひしと肌で感じられた。
「へっへー、ビックリした!?」
タツミは俺の机に紙袋を置くと腰に手を置き、勝ち誇るように仁王立ち。何がそんなに誇らしいのかこちらとしては一切わからん。
「ああ、驚いたよ。良い医者が見つかるといいな……」
「ちょっと~、どういう意味よそれ~」
「言葉通りの意味だよ」
「あれ? ひょっとして本気で言ってると思った? そんなわけないじゃん! ジョークジョーク! 冗談冗談! ちょっとしたお笑いじゃん! あれ? 周りのみんなもそう思ってる……?」
今ようやくタツミは自分がクラス中の注目の視線を一身に浴びていることに気付いたらしい。まるでスカートの中まで見られてしまったような赤い顔をして、もじもじと俯いてしまった。
「声がでかい上に、マジなのか冗談なのか判別つかない顔してたからな。本気で心配したやつもいただろうな」
「そ、そんなに声大きかった? そんなにマジに聞こえちゃった?」
周囲に確かめるタツミ。周囲は無慈悲な苦笑いに包まれた。
「あ、あはは……。じゃ、またね、マツザキくん……」
いたたまれなくなったのか、タツミは足早に教室を出ていった。近ごろのタツミはいつも足早に去っていく、そんなイメージが俺の中に定着してしまった。
さて、問題は紙袋だ。タツミはバレンタインとかほざいたが、紙袋はベルギー発祥の高級チョコメーカーだった。わざわざジョークのためにこの紙袋を用意したのだろうか? もちろん今日はバレンタインデーじゃないし、本人も冗談だと言っていたが……。
とりあえず開けてみた。中には一本のジュースが入っていた。昨日俺が買ったのと同じ、タツミイチオシのあのジュースだった。キャップに開けられた形跡はなく新品だった。なるほど、昨日俺から奪っていった分を今返した、というわけか。しかしペットボトルジュースを紙袋に入れるかね? 別に
今は飲む気がないので再び紙袋にしまった。喉は渇いていたが、残念ながらジュースは体温とほとんど変わらない温度だったのだ。ぬるい炭酸は、冷めきった夫婦より味気ないものだ。
教室の時計を見ると授業開始もう三分前だった。タツミ襲来のおかげで若干寝たりない気はしたが問題はない。俺は軽くストレッチして、午後からの授業に備えた。次の授業はこの教室だ。教科書とノートと筆記用具を机の上に並べれば、あとは時間になるのと担当の教師が来るのを待つだけだ。
授業の時間になった。担当の教師は来なかった。別の教師が来て、今日は自習だと言った。本来の担当教師はお調子者で、もう中年なのに分別をわきまえず未だ俺たち若者と肉体的に肩を並べられると過信した可愛げのある人だ。昼休みに生徒と運動場で数々の対決を繰り広げた挙げ句、勝敗を賭けた最終競技で頑張りすぎ、ついに靭帯をやってしまい、敢え無く病院送り、文字通り老いを痛感させられたということだった。
自習ほど自由なものはない。自由と言っても、教室の中で自らの席を立つことなく、教科書の指定されたページを開き、自主的に学習しなければらないという制限がかけられているため、自由の本義からかけ離れているはずなのだが、それでもやっぱり自由だった。監視もいないため、教師という重石から解放されただけでも、いや、むしろタガが一つ外れただけのほうが、自由をより感じられるのかもしれなかった。
自習の教室内は至るところで雑談の花が咲いていた。しかし五月蝿くはなかった。自制が効いていた。大きな声を出すと他クラスに迷惑になる自覚を教室内の全員が持っているらしく、音量的には普段の授業とそう変わりなさそうだった。
こちらでも小さな花が咲いた。
「ねぇ、タツミさんと付き合ってるの?」
そう俺に言ったのは、高原にひっそりと咲く小さな花のような女の子だった。隣の席 (席同士がくっつくほど隣ではない)のトキさんだ。トキは名字で、下の名前は知らない。今までほとんど話したことがなかったのだ。大きく真面目そうに見えるメガネを掛けていて、その奥の瞳もメガネに負けないほど大きかった。それ以外は不思議なほど小さな作りだった。鼻も口も、肩も胸も、全身が小ぶりだった。それでいて声は割と低く抑揚が抑えられていて、クールな印象を受ける。今こちらを見つめる表情も、ほとんど窓の外の風景を眺めるのと変わらないような感情が希薄な感じだった。
「付き合ってないよ」
俺は言った。
「じゃあ、さっきのは何?」
トキさんは俺のカバンを指さした。中にはさっきのジュースが入った紙袋がある。きっとそのことだ。
「ジュース」
俺の答えに、トキさんは笑った。ハムスターかなにかそんな小動物が、小さく鼻を鳴らすような可愛らしい笑いだった。
「そうじゃなくって……」
トキさんはまだ笑っている。たしかに俺は少しだけボケたが、だからといってそんな面白いことを言ったつもりもない。どうやら彼女はゲラらしい。
「面白い人よね、タツミさん」
トキさんはメガネの奥の涙をハンカチでぬぐいながら言った。
「おかしいところも……おかしいところばかりだけどな」
「たしかに不思議な人でもあるわね」
「不思議というか不可思議というか。ちょっとイカレたところがある。冗談ならもっと冗談らしく言えばいいのに、本気なのか区別がつかないような微妙な雰囲気を出すんだよな。で、こっちもツッコミにくいってなる」
「たしかに、今日のタツミさんはとびっきりおかしかったわね。でもお似合いじゃない?」
「今となっては、それがタツミにお似合いのキャラとして定着しつつあるな」
「そうじゃなくって、マツザキくんとお似合いってこと」
「え゛っ」
どういうつもりで言ってるのか? 俺はトキさんの目をレンズ越しにまじまじと見てしまった。あんまり話したことのない女子に対して失礼だったかもしれない。でも、先に踏み込んできたのはトキさんのほうだ。向こうから来たのだから、多少こちらから近づいたっていいはずだ。
「でも付き合ってないんだっけ? なんで付き合わないの? 付き合ったら良いのに」
おそらく今この瞬間でさえ、トキさんとの会話の最長記録だ。記録はまだしばらく伸びるだろう。それくらい話をしたことの少ない関係なのに、今日のトキさんはやけに口数が多く、センシティブな話題を進めてくる。もしかしてトキさんは、あどけない雰囲気に似合わず、色ごとに興味が強いほうなのかもしれない。
「そんなこと言われてもなぁ。そんな話したこともないし、そんな雰囲気もないし、そんなニュアンスもないからねぇ」
少なくとも俺の方からは、タツミからの明確な好意のアピールを感じない。仲が良いとは自分でも思うが、だからといって安直にそれが恋愛感情に結びつくとは限らない。
「へぇ。じゃあ、ただ仲が良いだけなんだ。
「ち、ん……?」
「
「……急に下ネタ?」
「下ネタじゃないわよ」
トキさんはスマホを取り出し、なにやら入力した。そして画面を俺に見せた。
「じゃ、ただの
トキさんはなにやら真剣な顔をして、やけに早口で言った。
「芸人の男女コンビとはわけが違うと思うが……何にせよ恋愛関係にはないよ」
「そう。それはよかった」
「何が良いんだ?」
「なんでも」
そう言ってトキさんは嬉しそうに笑った。そんな嬉しそうなトキさんを俺は初めてみた。あんまり嬉しそうに笑うもんだから、俺もつられて笑ってしまった。
いつもなら気怠く眠気に満ちた午後の授業だが、今日はとても楽しく過ごせた。自習のおかげであり、トキさんのおかげだった。
ま、そのおかげで勉学は全くは捗らなかったのだが。
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