8月28日(日)思い過ごし
近頃は夜も涼しげなのに、昨夜はよく眠れなかった。
母はいつもの時間に起こしてくれたが、俺は起きることを拒否してそのまま昼間でベッドで過ごしてしまった。
なにもやる気が起こらなかった。気分がどうしようもなく落ちていた。眠気のせいもある。思考はない。今の俺は呼吸をしているだけの死人だった。とにかくどうしようもない状態だった。
うら若き少年がせっかくの日曜日を無駄にしていいわけがなかった。泥のような頭の中でも、それくらいは理解できた。午後十二時、ようやく俺は息を吹き返しつつあった。ベッドと言う名の棺桶から身を起こす決心を固めた。
それからたっぷり一時間かけて、俺はベッドから起き上がることに成功した。少年の決心は脆いのだ。朽ちた灌木よりはるかに崩れやすく、頼りにならない。朝起きられない少年の決心は特に。
とりあえずは起きて身を整えた。それらを終えると……またやることがなくなった。さすがにベッドで再び死体になるつもりはなかったが、今度は椅子にかけたマネキンになってしまった。
そんなボーっとした時間を、気がつけば二時間も過ごしていた。時計の短針は三を指していた。俺の感覚ではまだ午前十時なのに。時間の神ときたらなんて残酷なのだろう。少年老い易く学成り難し、と言ったのははるか昔の人間だが、俺含め多くの人間がそれを完全に理解していないのは間違いない。少年のところを人類に変えても成り立つのではないだろうか?
時間を無駄にすべきではない、そんなことは賢い幼稚園児でもわかっている。愚かな老人にはわからないし、ここにいる一人の愚かな男子高校生は今ようやくそれを悟ったばかりだ。悟ったからにはそれにふさわしい行動をすべきだ。俺は外にでることにした。このまま家にいても腐るだけだ。今の俺にとって家全体が棺桶のようなものだ。死体でなければ新鮮な空気を肺と頭に循環させる必要がある。それが生きるということだ。
一歩外に出ると、日がやけに眩しく感じた。しかし心地よかった。暗く冷たい棺桶の中よりは、明るく暖かく、風の流れが全身で感じられる外の方が断然人間にとって優しい世界だ。意外にもそれほど暑くはない。日が優しく肌を温めるのを感じながら、横になりすぎて未だ重い四肢に鞭打って散歩へと繰り出した。
散歩は気持ちが良すぎた。死体だって再活性すれば、きっとそう感じるだろう。どん底から這い上がるときが一番楽しい、と、なにかの漫画でも言っていた。だから調子にのって一時間以上散歩してしまった。それほど暑くないとはいえ、まだ夏、全身が爽やかな汗に包まれていた。喉が渇いたので、昨日行ったスーパーに寄って、昨日タツミが勧めたジュースを買った。それをちびちび飲みながら家に帰った。
家の前で一人の女の子が待ち構えていた。
タツミだ。
夏にしか似合わない短めのスカートと夏でなければならない薄いキャミソールという出で立ちで、薄汗を滲ませた顔に恨めしそうな目で俺を見ていた。
目があっても俺たちは互いに無言だった。いつもはタツミから声をかけてくるのだが、今日は違った。彼女はまだ恨めしそうに、そして少しだけ不機嫌そうにしているままだった。
なんでお前が不機嫌そうなんだ! それは俺の態度だろ! と、俺は言ってやりたかった。でも言わなかった。そんなことを言う資格はなかったし、タツミからすれば意味不明に違いない。いや、俺だって厳密に言えば俺のこの感情がわからなかった。
なぜ俺は今タツミに対して、不快とは言えないまでもなんとも微妙な気分になってしまっているんだろう? それは間違いなく昨日のことだ。タツミの空色のキャミソールを見ていると、なぜか昨日のポルポルくんの目の覚めるような赤が思い浮かんだ。爽やかで清純そうに見えるタツミが、情熱の赤いポルシェに乗り込むのは、俺にとっては許しがたいことだった。なんとなく腹が立つ。認めたくないし、意味のわかりたくない感情が俺の中に渦巻いていた。
唯一確かなことは、今の俺はとってもダサいということだけだ。
「遅い」
タツミが言った。
「遅いよ。一時間も待ったぞ」
タツミがにっこりと笑った。相変わらず可愛らしい笑顔をしてやがる。いつもは眩しい笑顔が、今日に限っては目に刺さる。なんとなく見るのが辛かった。
「約束なんてしてないだろ」
自分でも驚くほどぶっきらぼうな声が出た。取り付く島もない嫌な言い方に自己嫌悪した。きっと今の俺は苦虫を噛み潰したような顔をしているに違いない。それを見せまいと、俺は敢えて家を通り過ぎて歩きだした。
「あれ? 帰ってきたんじゃないの?」
「散歩の途中なんだよ」
「じゃ、私も行く。その前に……」
タツミは俺の手からジュースをぶんどると、一気に半分以上も飲んでしまった。タツミはそのまま俺の隣に並んで歩き出した。
「やっぱりこれ美味しいね。マツザキくんも気に入ってくれた?」
「いや、全然」
「えぇ~? 気に入ったから、今日も買ったんでしょ?」
「……」
「なんか今日のマツザキくん変だよ? なんか怒ってる? 私、なんかしたかな?」
不思議そうな目で、俺を見てきた。タツミの目はあまりにもまっすぐで、俺は直視できず、なんと答えていいかもわからなかった。
「昨日のポルシェの人はただの叔父さんだよ?」
「えっ……!」
自分でもびっくりするくらい嬉しそうな声を出してしまった。俺はあまりにもわかりやすい男だった。馬鹿がつくほど正直な自分の態度に、顔から火が出そうなほど恥ずかしくなった。
「安心した? 昨日駐車場で、難しそうな顔してずっとこっち見てたでしょ? だからかなぁって」
俺は昨日の時点で既にわかりやすかったらしい。自分の単純さをつくづく思い知らされてしまった。
「あ、そう」
誤魔化すために敢えてそっけなく言ったが、それがタツミに通用しないことは自分でもわかりきっていた。それでも俺はそうしなければならなかった。単純な男にできることなんて、それくらいしかないのだから。
「ふふっ、マツザキくんってかわいー」
「かわいー、なんて言われて嬉しがる男子高校生って少ないと思うぜ?」
「別に喜ばせようなんて言ってません。ただの個人的見解であり感想です。かわいーって言われたくなかったらかわいーことしないでください」
「なんじゃそりゃ」
「そうそう、昨日は叔父さん家で親戚パーティだったんだ。お盆にできなかったからちょっとズラしてね。で、パーティ用のおでんの具材をスーパーで買ってたの」
「夏におでん!?」
結構イカレてるな、とはさすがに言わなかった。
「おでんいいでしょ? 美味しいよ~。叔父さんがおでん好きでね。オールシーズンおでんなんだよ、叔父さんは。その叔父さんなんだけど、叔父さんって色々凄いんだよ~。面白いし。何がすごいかって……」
タツミはポルポルおじさんのことを話したが、それが叔父さんだとわかってからは素直に彼女の話を聞くことができた。いつの間にか俺たちはいつもの俺たちに戻っていた。いや、最初からタツミはいつものタツミだった。俺がおかしかっただけだ。
「ねぇ、私たちもあと二年で免許が取れるじゃん? もし免許取ったらさ、二人でドライブしようよ。マツザキくんのポルシェで!」
「ポルシェなんて持ってねーよ」
「あはは、免許取ったら買いなよ」
「買いなよ、で買えるもんじゃねーよ。高校生の買い物じゃねーよ。いくらすると思ってんだ」
「大丈夫だって、マツザキくんなら不可能を可能にできるって!」
「不可能は不可能だから不可能なんだぜ?」
「なんか哲学的」
「どこがだよ」
「てゆーか、マツザキくんってポルシェ嫌い? ポルシェいいよ~。人は乗らないし、荷物ものらないけど、タイヤは四つあるし、ドアも二枚、エアバッグだってついてるし、ブレーキもある」
「フツーの車だなそれ」
「でもフツーの車よりよく走るよ。自然吸気V型六気筒エンジンがよく回るんだよ~」
「よく壊れるとも聞くけどな」
「あれ? やっぱりポルシェ嫌いなんだ?」
「別に嫌いじゃないけど」
「あ、そっか、マツザキくんはポルシェじゃなくて、叔父さんのことが嫌いなんだね?」
「もう嫌いじゃないよ」
「ふふっ、じゃあマツザキくんは……」
タツミは何かを言いかけて、口だけを動かした。口は空気をかすかに漏らすだけで、一音も発しなかった。ブラウンに近い黒目が、やけに深い色を伴って俺を見つめた。タツミの頬が急に赤く染まったように見えたが、それはたまたま近くのマンションから離れて、直射日光が当たる位置に出たためかもしれなかった。
「ううん、なんでもない! あ、私用事あるから、じゃ、またね!」
急にタツミは走り出した。俺はあっけにとられて走り去る彼女の背に手を振ることしかできなかった。
一体何が起こったのかよくわからなかった。タツミは何かを言おうとしていたような気がするが、それもわからなかった。女の子は謎が深い。あのブラウンの瞳にそれが現れているようだった。女心と秋の空、そんな言葉があるが、これも秋の気配なんだろうか?
とにかく、長い長い散歩はこうして終わりを告げた。
帰宅途中、手持ち無沙汰を感じたが、その正体はジュースだった。タツミは俺のジュースを持って行ってしまった。
なのでもう一度スーパーに寄ってジュースを買った。帰りながら一口飲む。よく冷えていて美味い。今度こそこいつが本心から好きになれそうだった。暮れかけた日をジュースに透かすと、とても綺麗だった。
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