第29話 横須賀の夜景
可愛らしい部屋に、全く不釣り合いな寄せ書きは、物を大事に扱う海軍文化にあって、とても嫌悪されるべきものであった。
しかしそれは、今となってはドグミズ日本隊の残した最後の言葉として「しなの」乗組員の間で、大切に保存されていたのである。
「兄のものが無いんですね」
そう言うと、清水は苦笑いしながら天井を指さした。
龍二は一瞬ドキッとした、兄が家でも見せない女性の悪友にだけ見せる一面にも思えた。
「「最後にお前に会えてよかった、オンナをみがけよ!」って、なんですかこれ、ルージュの伝言って女性がするものですよね。」
やはり苦笑いの龍二に、清水は優しく微笑み返す。
幸はそれを見て、少しだけ、素敵なメッセージだと、そして、何て切ないメッセージなんだろうと。
同じ女性として、清水は毎日どんな気持ちで、この天井を見上げているのだろうと考えると、少し涙腺が緩むのを感じていた。
そんな幸に気が付いた清水は、優しそうな瞳で、幸に「ありがとう」と訴えかけるのであった。
そんな静かな部屋の外から、微かに鼻をすするような声がしていた。
清水にはそれが北条であることが、容易に察することが出来た。
しかし、今は気付かないふりをしてやることが、一つの愛情だとも思った。
生徒会メンバーは、清水に丁寧にお礼を言うと、次回の訪問日時と人数、ブリーフィング内容を簡単に調整して、艦を降りた。
清水は生徒会のことが気になるらしく、何かあれば何時でも相談してくれと、一言付け加えて一行を見送った。
最後に清水は龍二に
「お前、海軍に来ないか?」
と誘ったが、龍二は少し笑っただけだった。
先ほどまで、あれほど激しい応酬を繰り広げていた北条は、すっかり大人しくなっていた。
そして、ばつの悪そうな表情で、清水に無言で会釈をしただけで、車を走らせて行ってしまった。
「・・・・おい、お前等、今日の事は絶対学内では内緒だからな。」
「もちろんですよ、こんなおいしい話、今後の生徒会の切り札ですからね!」
城島が、それはもう鬼の首を取ったように喜びつつ返した。
「・・それと、今日はオレ、行くところがあるから、学生室に戻ったら、すぐ帰るわ、お前等だけで残務整理してくれ。」
何となく寂しそうなその表情に、4人は「つき合いましょうか?」と言いたくなったが、彼らと北条の間には、どうにも越えられない太い線のようなものを感じていた。
大人と子供、それに等しい線である。
結局、そんなことすら告げる間もなく北条は帰宅してしまった。
「北条さん、大丈夫かなあ」
優が心配そうに呟く。
「あの人も大人だからな、大丈夫だろ。」
城島がそう言う側で、龍二も呟く。
「あの人の傷は、時間しか解決できないだろうな。多分、我々の出る幕ではないと思うが。」
本当にその通りであった。
彼らに出来ることは何もない。
北条自信が乗り越えなければならない傷である。
しかし幸だけは、そんな傷を癒せるのは、清水だけではないかと感じていた。
それもまた「大人の線」の向こうの話であるが、この時の自分と、清水が少し重なって思えて、それがまた一層、幸の心を締め付けるのである。
同じ三枝姓に思うところある二人の女性、それは兄と弟という違いはあれど。
その日の晩、それはかつて三枝1尉に連れられて行った横須賀の、思い出のバーに北条はいた。
グラスに注がれたバーボンウイスキーを見つめ、カウンターでひっそりと、グラスの氷を転がしながら考えに耽っていた。
あの日、死を決意した仲間達と、最後にバカをやろうと油性マジック片手に寄せ書きをしたあの日。
女性幹部の部屋に侵入するという悪戯少年のように、ときめいたあの日のことが鮮明に蘇る。
まだ1年も経過していないのだから無理もないが。
どうして自分だけ、そう思うと仲間の事を思いながら、それでも涙も出せないまま酒場での時間はゆっくりと流れてゆく。
そして突然、北条の隣に座った女性がハンカチを手渡す。
驚いてその女性を見ると、ふんわりとした、ゆとりのある白いニットの上衣にタイトなスカート、それは美しく、そしてちょっと可愛く、私服に身を包んだ清水大尉であった。
あの凛々しい女性士官の印象とは真逆の着こなし。
「大丈夫か、・・・さっきは殴って悪かったな、鼻、痛む?」
清水もこのバーは常連客であった。
一人になりたいと考えた北条であったが、その考えは浅かった。
なにしろこのバーの情報源は、考えてみれば同一人物によるものなのだから。
「・・・今、優しくするのは、卑怯ですよ」
そう言うと、思わず涙が出てくる瞬間を見せまいと、必死に反対方向を向く北条に対し、清水のサディスティックな性格が顔を出すのである。
北条の顔をのぞき込みながら、昼間の仕返しでもせんばかりに。
「ん?いいんだぞ、私の胸で思いっきり泣いても、うん、そうか、そうか、今日は私が朝まで慰めてやるぞ」
もう北条は、反対側を向いたまま、肩を震わせてグシャグシャに泣いていた。
・・・まるでケンカに負けて帰ってきた子供のように、傷ついた北条を前に、最初はサディスティックな部分から話しかけていたつもりが、本気で男泣きする目の前の男に、少なからぬ母性をもって相手せずにはいられなかった。
この男もまた、三枝啓一という男を偲び、辛い夜を幾重も過ごしてきた同志である。
二人は会話を交わさぬまま、黙ってそのまま過ぎる時間を共有した。
夜はただ更けてゆくだけなのに。
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