影裏⑪
アリアが返事をすると、静かに扉を開けて入ってきたのは、ノクトだった。
アーネストの姿を認めた途端、ノクトはぱあっと顔を輝かせた。
「アーネストさん! お久しぶりです! 会えてよかった!」
ノクトは思わず少し大きな声を出してしまったようだが、はっとしたように奥の部屋をうかがって、声を落とした。
「ノクトも、元気そうだね。よかった」
アーネストが言うと、ノクトははにかんだように微笑む。それから、アリアに向かって、小さな包みを差し出した。
「はい、これ。いつもの薬」
「ああ、ありがと」
アリアは受け取った包みを持って、隣室との境をくぐり、そしてすぐに戻ってくる。
「お父さんの具合、どう?」
「いつもと変わんない」
「そっか」
心配そうなノクトの言葉に、アリアは素っ気なく返事を返す。それから部屋の隅に置いてある小さな箪笥の奥をごそごそとやって、取り出した何かをノクトに差し出した。それは、何枚かの銅貨だった。
けれどノクトは、少し困ったような、悲しそうな顔をして、手を出すのをためらっているようだった。
「ん」
早くしろと言うように、アリアはずいっと銅貨をノクトに押し付ける。しぶしぶと言う様子で、ノクトはそれを懐に入れた。
「アリア、無理しないでよ?」
「無理なんかしてねーよ」
アリアはぷいとそっぽを向きながら、椅子に戻る。ノクトもそっとその隣に座った。
アーネストはその様子を戸惑いを覚えつつ見ていたが、それに気付いたアリアが視線を険しくする。
「別に盗んだ金じゃねえよ。あたしがちゃんと働いて稼いだ」
言われたアーネストは、はっと姿勢を正す。
「その……ごめん」
決して、そんなつもりではなかった。けれど、無意識のうちに心のどこかで、貧民街の人間なら……と考えなかったと言い切れるだろうか。
「いいよ、別に」
アリアの答えは、変わらず素っ気ない。本当に何とも思っていないのかはわからないが、アーネストは己の考えを恥じた。そして、自分より年下の女の子が働かなければならない世界があるということを、想像すらできなかったことにも。
「働くって……どこで?」
「食堂の皿洗いとか、掃除とか。あとは、ノクトんちの手伝いとか」
その言葉に、アーネストは首を傾げる。すると、ノクトが困ったように、アリアに目配せした。
「大体の事情は話したから、お前も言っていいよ」
アリアが言うと、ノクトは少し逡巡する様子を見せてから、口を開いた。
「僕の家は、薬屋なんです。伯父が王宮お抱えの薬師で、それで王宮とも少し繋がりがあったりするんですけど。それで、アリアの事情も何となく聞かされてて。……その、黙っていてすみませんでした」
ノクトが頭を下げる。それを見たアーネストは、慌てて首を横に振った。
「いや、僕の方こそ、何も知らなくて……。ごめん」
自分は貴族の家に生まれて、少なくとも衣食住には困らずに暮らせた。だけど、それすらままならない人々もいるのだということを、知識としては知っていても、こうして肌で感じることはなかった。その人たちが、決して怠惰からそのような生活をしているのではないということも。ここに来ることがなければ、きっと気付けなかったことだ。
「別に。あたしたちだって言わなかったし」
アリアの言葉は、きっと素っ気ないというよりも、達観しているのだと、アーネストは思った。
「……早く、大人になりたいな」
アリアがぼそりと呟く。
「そしたら、もっとお金稼いでさ。自分のことも自分で決められるのに」
それを聞いて、アーネストもノクトも、そっと目を伏せた。
自分たちは、まだ子供で、大人の助けがなければ、できることは限られている。大人の助けを得られない子供もいる。普通から零れ落ちてしまった人たちに、この世界は冷淡だ。それでも歯を食いしばって生きている人々に、救いの手があればいいのにと思った。
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