#6
その瞬間、男が見たのは膨れ上がるマナの圧と、強烈な光だった。続いてその中から飛び出してきたのは、白く輝く獣だった。
馬のような体躯だが、その身体は新雪のような白で、神々しいほどに白銀の輝きを放つ
その神々しい獣が、背にあの小娘を乗せて駆け上がってくる。突然のことに男は反応しきれず、自身の周囲に展開した障壁ごと、弾き飛ばされる。
体制を立て直す前に、二撃目が来る。男は魔術書から黒い稲妻を放つが、獣の
獣は男の頭上に舞い上がり、返す勢いで男を地面に叩きつけようと飛び込んでくる。その鋭い角の一撃で、ガラスが割れるような音と共に、男を守っていた障壁は粉々に砕け散った。
そこに間髪入れず、エディリーンの剣が閃いた。右肩から胸を斜めに切り裂かれ、鮮血が雨と共に重く衣に染み込んでいく。
「くっ……」
男は傷口を抑えながらも黒の魔術書だけは取り落とすまいと、辛うじてそれを抱え直す。そして、エディリーンを一瞥すると、飛べる限りの速さでその場を離脱した。
エディリーンは息を整えながら、飛び去っていくその背中を目で追った。この天馬でなら追うことも容易いだろうと思ったが、精霊を制御するには膨大なマナを消耗するのか、そんな余裕はなかった。
男の気配を探査術で追いながら、その気配が術で追える範囲外に出たことを確かめる。戻ってくる様子はない。念のため探査術の発動は続けたまま、エディリーンは天馬と共に地上に降りた。
天馬の背から降り、書庫の中に足を踏み入れる。戦闘中も書庫は守られていて、あれ以上の被害は免れていた。これくらいなら、貴重な書物の多くを失わずにすむだろう。ほっと胸を撫で下ろしたところに、人の気配が近付いてきて、居間に残してきた王子たちが、入口から顔をのぞかせた。
「……終わった、のか?」
音がやんだのを察して、様子を見に来たのだろう。アーネストとユリウス、そして王女にグレイス婦人たち全員がやってきていた。戦えない人間までこの場にやってくるのは不用心にも思えたが、残った方が襲撃されないとも限らないし、彼らの判断は正しいかもしれないと、エディリーンは思った。
彼らはどうやら無事な様子のエディリーンを確かめてほっとした様子を見せ、それから書庫の惨状を見て憤り、あるいは沈痛な面持ちで息を呑んだ。
グレイス婦人はドレスが汚れるのも構わず床に膝を付き、散らばった本を拾ってそっと撫でる。その様子は、少し放心しているようにも見えたが、こちらが気遣って声をかける前に、夫人は気丈に顔を上げる。
「形あるものはいつか壊れるものよ。仕方のないことだわ。それより、あなたが無事でよかった」
そう言ってエディリーンの手をそっと握ろうとして、彼女の背後に佇むそれに気付いた。
「あれは……」
どう説明したものかと、エディリーンは逡巡する。とっさのこととはいえ、この家のものを許可なく無断で使ってしまったという事実に、今更ながら思い至ったのだ。
「その……申し訳ありません。ここにあった魔術書が……」
呼ばれた気がして、その力を使ってしまったなど、なんて適当な言い訳だろうと、自分でも思う。エディリーンにとっては事実だが、それを他者に説明して納得してもらえるかは、まだ別の問題だ。
しかし、グレイス夫人は放心したように天馬を見つめており、エディリーンの言葉にはっと我に返ったようで、視線を彼女に向けた。
「ああ、気にしないで。欲しいものがあったら持っていって構わないと、前に言ったでしょう? それに、誰かに使ってもらった方が、あの精霊もきっと喜ぶと思うわ」
魔術を扱えない人間でも、マナが寄り集まって実体化した精霊は、その目に移すことができる。
「……あの天馬は、昔、エリオットと契約していたものだわ。エリオットがいなくなった後は、ずっと本の中にいるのか、何も反応がなかったのだけれど……」
それまでじっと佇んでいた天馬は、とことことこちらに歩み寄ってきて、エディリーンの頬に鼻先を擦り付ける。そして、紅玉のような瞳でじっとグレイス夫人を見つめたかと思うと、彼女にも同じような仕草をしてみせたのだった。
契約者を失った精霊は、大地に還るか、そうでなければマナが滞って周囲に呪いを振りまく存在になってしまう。そのどちらにもならず、ここで眠り続けていたこの天馬は、何を思っているのだろう。
「あなたを新しい主に選んだのね。それなら、どうかその子によくしてあげてちょうだい」
夫人は優しく微笑む。大事な息子の形見が赤の他人の手に渡ってしまうことなど、まるで気にしていないようだ。
その言葉に甘えてしまっていいのか、エディリーンは逡巡する。しかし、その迷いを晴らすように、かの天馬は嬉しそうに軽く嘶くのだった。
ひとまず、眼前の危機は去った。しかし、まだやらなければならないことが残っている。
いつまでも精霊を顕現させておくのも負担が大きいことを、今もって実感している最中だが、残る事柄に当たるには、この天馬の力が、おそらく必要なのだ。
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