#4
寮は女子寮と男子寮に分かれている。女子は数が少ない――というかほとんどいない――ので、男子寮に比べるとこぢんまりしている。だが、住み込みで働く下働きの女たちもここで暮らしているので、それなりににぎやかだった。
寮の扉を開けて中に入ると、管理人が待ち構えていたように話しかけてきた。
「エディリーンさん。アーネスト様がお待ちですよ」
それを聞いたエディリーンは、苦いものを飲み込んだような顔をした。双子の妹はまたしても好奇心と羨望の混じったような視線をエディリーンに向け、姉は幼子を見守るような慈愛に満ちた顔で、そっと微笑む。
「では、わたしたちはこれで」
どうぞごゆっくり、と二人は言い置いて、居室のある上の階に上がっていく。
こういうことはむきになって訂正しようとするほど逆効果だと、エディリーンは悟った。なるべく話題に上らないように気を付けようと思いつつ、管理人室の向かい側にある扉の前に立つ。
寮の入り口を入ってすぐ左側には管理人室があり、常に人が詰めている。その向かい側には談話室が設けられており、寮で暮らす者との面会は、取り次ぎを通してそこで行われることになっていた。寮生同士で互いの部屋を行き来することまでは制限されていないが、女子が男子寮に入ることはできないし、逆も然りである。外部の者は、家族でも居室までは入れない決まりになっている。
エディリーンは心を落ち着けるように深呼吸し、その扉を開けた。
中は中央に円卓が置かれ、窓辺には花が生けられている。寮の個室も研究室なども、華美な装飾などはなく実用一辺倒に作られているが、ここだけは来客用に整えられていた。
窓辺で外を眺めていた金髪の貴公子が、エディリーンの入室に気付いてにこやかに振り返った。これまで戦場や旅先で会った時よりも、上等そうな細かな刺繍の入った服を着ている。
「やあ、変わりないか?」
「……別に」
エディリーンはにこりともせずに応じると、椅子に腰かけた。アーネストも向かい側に座る。
円卓の上には管理人の配慮だろう飲み物が用意されていて、エディリーンはそれを自分の手でグラスに注ぎ、口を付けた。
透き通るガラスでできた細い瓶には水滴が付いていて、中は果汁で風味を付けた冷たい水で満たされていた。暑くなってくるこの時期、王都では氷室から出した氷を使い、冷やした茶や果物が出されることがあるらしかった。院生の暮らしは華美なものではないが、外部からの客人にはこうしたもてなしをする。乾いた喉にはありがたいが、まったく贅沢なことだと、エディリーンは内心で呆れていた。
アーネストも自分の手で自分の分を注いだ。この男に給仕をしてやるつもりなど、エディリーンにはない。身分はあちらが上だが、自分はこの男の召使いではないのだ。アーネストもそんなことは気にせず、自分のことは自分でやる主義だったのが、双方にとって幸いだった。
この男、週に一回は必ず現れている。研究院の勤めが終わる夕刻か、休日の昼間のいずれか、滞在時間は長くないが、こちらの暮らしには慣れたか、困っていることはないかなど、他愛のない話をして帰っていく。わざわざ外で会うような間柄でもないから、こうして寮にやってくるのだが、それが却って目立ってしまい、余計な噂を生む原因になっているのだった。
「そうそう、海の向こうから伝わった、珍しい菓子が手に入ったんだ。知ってる?」
アーネストは持参していたらしい、手のひらに乗るくらいの紙包みを開ける。中には、色とりどりの、小さな粒状のものが入っていた。
「……何、これ」
「
そして、毎回何かしら手土産を持ってくる。それらは、エディリーンがこれまで食べたことのないような、甘くてきらきらした、食欲をそそる魅惑的な菓子だった。
さすが交易の盛んな王都である。珍しい果物を使ったものや、味だけでなく見た目にもこだわった芸術作品のようなものまで、これまでの生活ではお目にかかれないようなものにたくさん出会った。菓子職人という仕事まであるらしい。
しかし、様々なその手土産がほんのちょっぴり楽しみであるなどと、矜持にかけて絶対に悟られてはいけないと思うのだった。
砂糖は高級品だ。庶民の生活では、たまに保存食を作るのに使うくらいで、砂糖をたっぷり使った甘い菓子など、日常的に口にできるものではない。年に数回、祝いの席で出されたりする程度だ。
だから、幼い頃に初めて口にした甘いものにいたく感激し、子どもの頃はたまにジルに買ってもらえる菓子が何より楽しみだった。けれど、今でも甘いものに目がないのは、我ながら子供っぽいのではないかと思うが、やっぱり好みは人それぞれ、別にとやかく言われる筋合いはないのだと思う。だが、そんな葛藤をこの男に知られるのは、どうにも癪だった。
しかし、それを知ってか知らずが、毎回菓子を手土産に持って現れるこの男は、一体どういうつもりなのか。
エディリーンはその菓子を一粒つまみ、口に入れる。舌の上で転がすと、甘いだけではない、爽やかな花のような香りが口の中に広がった。その柔らかな味に、少しだけ心が和らぐ。
財力をひけらかしやがって、などと思わなくもないが、毒など入ってはいないだろうし、もらえるものはもらっておく。食べ物に罪はないのだ。
「……餌付けか?」
「うん?」
ぼそりと呟いた言葉は聞き取られることはなく、アーネストは首を傾げる。それに構わず、エディリーンは話題を変えた。
「あんた、しょっちゅうわたしの所に来るけど、王子の近衛騎士って暇なのか?」
「そんなことはないが」
苦笑するアーネストを、エディリーンは目を眇めてねめつける。
「……噂になってるぞ。エインズワースのご子息が、グレイス家のご令嬢のところに熱心にお通いあそばしてるって」
双子の姉妹が言っていたのも、こういうことだった。そればかりでなく、ならず者同然だった平民の娘をグレイス家の養子にしたのも、ゆくゆくは自分の伴侶として迎えるための布石ではないかと、一部でまことしやかに囁かれていた。
「ああ……それは、すまない」
未婚の女性にそのような浮ついた噂が複数立つのは外聞が良くないが、そんなことはどうでもいい。事実と全く異なる噂を立てられるのが、単純に不愉快だった。
まったく、暇な連中の想像力というものは、そのような明後日の方向に飛んでいくものなのかと忌々しく思う。
誓って言うが、何もやましいことはない。日が出ているうちに来て帰っていくし、会うのも寮の談話室だ。それどころか、エディリーンはアーネストを別に友人とも思っていない。かろうじて仲間か戦友くらいには思わなくもないが、それが友情というような親しみのある感情かと言われれば、否である。これは互いの利益のみで繋がった一時的な契約であり、ここにいる間は力を貸してやる。それだけのことだった。
だから、ご機嫌伺いのつもりだろうが、好物を持ってくるからといって
それに、エディリーンは自分が常識的な女ではないことくらいわかっている。だから、この男が自分をそういう目で見ることはないだろうし、見られたいとも思わない。
「あんた、伯爵家の長男なら、婚約者くらいいるだろう? 他の女のところに出入りするのはよくないんじゃないか?」
それがおよそ一般的な女とはかけ離れているようなものでもだ。
王都に来てから知ったが、彼の生家、エインズワース家は伯爵の位を持っていた。序列で言えば中の中から上くらいだが、王子の近衛騎士を務めるだけあって、宮廷内でそれなりに力はあるようだった。
「そういう相手はいないから、気にしなくていい」
こんなに頻繁に来るなと暗に言ったつもりだが、通じなかったのかあえて無視しているのか、アーネストはふわりと微笑む。
実のところ、アーネストは自分と繋がりがあれば、周りも彼女を下手に扱ったりしないだろうという思惑があって、ちょくちょく顔を出していたのだが、エディリーンはそんなことには思い至らないのだった。
それからいつものように少し話して(正確には、アーネストが話すのにエディリーンが適当に相槌を打って)、別れた。残った糖花は、日持ちするから後で食べるといいと言われ、持たされた。
だけど、一人になると、それの魅力も失せたように感じられてしまうのは、何故だろう。
エディリーンは自室に戻り、糖花の包みを机の上に置くと、寝台に身を投げた。肌触りの良い上質な綿でできた布団が、彼女の身体を受け止める。
部屋は個室が与えられ、自由にできる時間もある。食事は一日三回、決まった時間に出来立てのものを摂ることのでき、温かい寝床が与えられ、雨風をしのぐ心配もしなくていい。生活に不自由はしていないが、こんなものが欲しかったわけではない。
それに。
ここには、ジルもベアトリクスもいない。
これまでも一人で行動することはあったけれど、あの人たちのいるところが帰る場所だった。
今日はどんなことがあったと他愛ないことを話して笑い合えば、疲れていたり、嫌なことがあったりしても平気でいられた。
けれど、今は一人きりだ。それがこんなにも、胸に穴が空いたような心地がするなんて。
その気持ちを押し込めるように、固く目を瞑った。
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