幕間

それは、ある冬の日の話

 朝、いつもより早く目が覚めてしまった。

 もう一つの寝台で、ジルは軽くいびきをかいている。しかし、なんとなく再び目を閉じる気にもなれなくて、そっと布団から出た。夜の間に冷え込んだ空気が、寝巻の隙間から肌に染み込んできて、思わず身震いをした。

 カーテンの隙間からは、昇り始めたばかりの朝日が差し込んでいる。足音を立てないように気を付けて、窓辺に寄った。

 少しだけカーテンを持ち上げて、旅の途中で取った宿の二階から外を見ると、辺りは一面、真っ白になっていた。


 昨夜、寝る前まではあった灰色の石畳や、赤や青色だった屋根も、全部白く変わっている。それは朝日を反射してきらきらと銀色に輝いていて、彼女はその光景に目を奪われてしまった。

 もっと近くで見てみよう。

 そう思って、まだ寝ているジルを起こさないように、足音を忍ばせて部屋を抜け出す。部屋の中は火鉢の熱で多少暖かかったが、廊下に出ると一層ひんやりとした空気が全身を包んだ。


 まだ早い時間のせいか、他の部屋も寝静まっている。足音を立てないように、そろりそろりと階段を下りた。

 一階まで降りると、厨房の方からは朝食の準備をしている最中だろうか、人が動き回る気配と、かちゃかちゃと硬いものがぶつかるような音――それが包丁や鍋といった調理器具の触れ合う音だと、今の彼女は理解している――がした。それと共に、温かい湯気といい匂いが漂ってきて、きゅう、とおなかが鳴る。しかし、それはまた後のお楽しみだ。慌てなくてもちゃんとご飯はもらえるから、大丈夫。


 宿屋の表玄関の扉を細く開けて、そこから外に滑り出る。頬にしびれるくらい冷たい風が当たって、吐く息が白くなった。

 しかし、そんなことが気にならないほど、彼女は初めて目にする光景に魅入られていた。

 その白く輝くものは、地面や屋根の上を覆っているようだった。近くで見るとふかふかして柔らかそうだった。


 試しに足先でちょっと触れてみる。さくりと軽い感触と共に、光が散った。

 次に思い切って一歩足を踏み出す。すると、足がずぼっと、その白いものの中に沈み、革のブーツの中に入り込んできた。それは驚くほど冷たくて、足が濡れる感覚がした。

 しゃがんで、手でそれを少しすくってみる。やはり冷たくて、けれど手に触れるとほどなく水に変わっていった。

 指の間から零れ落ちていくそれを不思議に思って眺めていると、背後の扉が開く音がした。


「エディ。部屋にいないから心配したぞ」


 少しざらついた低い声がして、背後からふわりと何かに包まれた。毛皮の外套だった。寒さが少し和らぐ。


「そんな格好じゃ寒いだろうに。何をしていたんだ?」


 首だけで振り返ると、ジルが同じように毛皮の外套を羽織って立っていた。


「これ、何?」


 彼女は地面を指差して尋ねる。寒さよりも何よりも、今は目の前の未知のものが気になって仕方がないのだった。


「ああ、雪を見るのは初めてか?」

「ゆき?」


 そうか、これは雪というのか。新しく記憶に刻まれた言葉を、胸の中で反芻する。


「昨日はなかったのに」

「寒いときに空から降ってくるんだ。夜のうちに積もったんだろう。昨夜は冷えたからな」


 そう言っているうちに、空から白くてひらひらした、小さな塵のようなものが舞い落ちてきた。


「ああ、また降ってきたな」


 ジルは灰色の空を見上げる。エディリーンは小さな手のひらを上に向けて、その白いものを受け止めた。それはほんの一瞬だけひんやりとした感触を残して、僅かな水滴となって手の上に残った。


「これが、ゆき……」


 空から降ってくるのは雨だけではないのか。どういう仕組みなのだろう。


「あー……ベアトリクスならどうやって雪が降るのか知ってるかな。今度会った時に聞いてみるか」


 ジルは好奇心旺盛な子どもの胸に浮かんだ疑問を察して先回りしたように言うが、彼女はやや困ったように口の端を曲げる。あの人は色々なことを教えてくれるけれど、ちょっと怖いと彼女は認識しているのだった。


「ほら、もう中へ入ろう。俺も寒い」


 ジルは大袈裟に震えてみせてから、しゃがんでエディリーンに視線を合わせる。その濡れて冷えた手を、大きなごつごつした手で包み込み、こすり合わせた。

 少しくすぐったいけれど熱が生まれて、指先が冷え切っていたことをようやく自覚する。


「まったく、お前は……。動き回るのはいいが、もう少しな、何と言うか……自分を大事にする方法を覚えろ」


 言われた意味がよくわからず、エディリーンは首を傾げる。

 そんな様子にジルは苦笑しつつ、彼女を抱き上げた。


 視線が高くなって、見える景色が変わる。記憶の底にある、あの薄暗くて冷たい部屋からは想像もつかなかった光景を、毎日見ることができる。自分を取り囲むものの名前をひとつひとつ教えてもらう度、世界が鮮やかに色付いていく。

 エディリーンは自分を守ってくれるその人の首に、ぎゅっとしがみつく。ジルはその頭を、ぽんぽんと撫でた。


「朝飯までまだ時間があるな。もうひと眠りするか」


 エディリーンがこくりと頷いたのを見ると、ジルは彼女を抱えたまま宿屋の扉を開けて中に戻った。

 胸の奥が温かくなって、不思議と寒さは感じなかった。

 ここにいれば――この人といれば、大丈夫。寒かったり、怖かったりしても、きっと平気だ。

 歩くのに合わせて揺れるのが心地よくて、目が冴えてしまったと思っていたけれど、いつの間にかうとうとと再び夢の中に微睡んでいた。

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