#4

 耳元で風が唸る。

 空を飛ぶなど、初めての経験だった。常人では体験し得ないことだ。しかし、そこに喜びなどはなく、驚愕のうちに全てが流れ去っていく。傷の痛みさえ忘れていた。

 どれくらい飛んでいたのかわからない。長い時間だったような気もするし、ほんの一瞬だったかもしれない。


「見つけたぁっ!」


 少女は叫ぶと、降下を始める。下の木立の中に、一つの人影が見えた。狙撃してきた魔術師に間違いない。

 腹の底がぞわぞわする。空を飛べる鳥を羨ましいと思ったこともあるが、冗談じゃない。情けない話だが、景色を楽しむ余裕も何もあったものではなかった。

 魔術師もこちらの接近に気付き、驚愕と焦燥の入り混じったような表情を見せた。腕をこちらに向けて掲げると、光の矢が無数に放たれる。

 少女は軌道を変えてそれを躱すと、攻撃に転じる。アーネストは着地と同時に放り投げられた。かろうじて受け身を取って衝撃を逃がすが、傷に響いた。雑な扱いに抗議したいところだが、そんな余裕もない。

 少女は剣を振るい魔術師に向かっていくが、敵も逃げ足が速い。肉薄する少女を魔術で攻撃し、寸前で逃げることを繰り返している。しかし、魔術は発動するのに詠唱の隙ができる。連続して撃つことはできないようだった。


が引き付けるから、隙を見て奴を倒せ!」


 アーネストに向かって叫ぶ。


「了解した!」


 怪我の痛みをおして、木立の中へ身を隠す。魔術師は少女の攻撃に対処するので精一杯のようで、アーネストのことは見失ったようだ。相手は武器での戦いは得意ではないらしい。

 しかし、彼女の攻撃の勢いなら一人で倒せるのではないかと思うのだが、相手も防御魔法を駆使して、なかなか決定打にならない。


 アーネストは魔術師の移動先を予測し、上手く背後に回ることに成功した。

 魔術師がこちらに近付いてくる。機会を見計らい、アーネストは木陰から飛び出した。魔術師がアーネストに気付くが、遅い。袈裟懸けに切りつけ、鮮血が飛んだ。

 わずかな時を数えた後、聞こえるのは自分の呼吸と鼓動だけだった。

 アーネストは肩で大きく息を吐いた。少女の攻撃も容赦がなく、流れ弾に当たりそうだったが、上手く切り抜けることができた。

 少女が草を踏み分けて近付いてくる。彼女もだいぶ呼吸が乱れていた。

 相手の魔術師が動かないのを確認すると、


「……疲れた」


 ぼそりと呟いて、剣を鞘に収める。

 しばらくその場に留まったが、先の暗殺者のような二人が追ってくる気配はなかった。逃げたと思われる。アーネストも剣の露を払い、鞘に収める。


「飛べるのなら、最初からそうすればよかったのではないか?」


 軽い抗議を込めて言ってみたが、少女はじろりと厳しい視線をアーネストに向けた。


「簡単に言うな。疲れるんだからな!」


 少女はすとんとその場に座り込む。本当に疲れているようで、大きく息を吐く。しかし、いつまでもそうしているわけにもいかない。

 適当なところに移動して、野営しなければなるまい。怪我の手当もしたいところだった。

 せっかく宿を取ったのに、とんだ災難だ。暖かい季節で野宿でもさほど苦にならないことが、せめてもの救いだった。


 月明かりである程度周りの様子を見ることはできるが、十分ではない。少女が軽く手を振ると、その指先に明かりが灯った。それを頼りに闇の中を歩く。二人は疲労の残る身体を動かして、小さな川を見つけた。

 少女は枯れ枝を集めて火を熾し始めた。

 野営の準備は彼女に任せることにして、アーネストは少女の視界から外れ、上着をはだけて川の水で傷口を洗い始めた。服は血で汚れており、どこかで替えを手に入れたい。そんなことを考えていると、


「見せろ」


 背後から少女の声がかかった。

 いちいち狼狽えるほど初心ではないが、若い女性に診てもらうのはやはり気が引ける。


「自分でできる。大丈夫だ」

「いいから見せろ。これでも多少の医術の心得はある」


 少女は皮袋に水を汲むと、アーネストの肩と脇腹の傷口にざばざばとかける。十分に洗うと、荷物の中から薬草と清潔な布を取り出した。薬草を軽くすり潰して布と共に傷口に当てると、手早く巻き付けて固定する。


「ったく、こんな怪我でよく動き回ったもんだな」

「君のお陰だ。助かった」


 少女はふんと鼻を鳴らす。そのまま離れようとしたが、何か思い直したのか手を止めた。


「少しじっとしてろ」


 何かと思うと、少女は肩の傷に手を添え、口の中で何やらぶつぶつと唱える。すると、その指先にあたたかな光が灯り、徐々に痛みが薄らいでいった。

 光が消えると、少女は大きく息を吐き出し、座り込んだ。


「……やっぱり疲れる」


 傷は完全に塞がったわけではないが、出血は止まり、動かしても痛みはほとんどなかった。


「魔術とは、便利なものだな」


 感嘆の声を漏らすが、少女は憮然と言い返す。


「こっちは消耗するんだからな。あまり当てにするな」


 そして、ずるずると焚火の向こう側に移動すると、身体を横たえた。どうやら戦闘での直接的な疲労より、魔術を使うことの方が消耗が激しいらしい。


「ありがとう」


 少女は顔を伏せたまま、何も答えない。


「ところで、一つ聞きたいのだが」

「なんだ」


 少女は億劫そうに首だけ微かに動かし、視線を上げる。


「君の名前を教えてもらいたい。エドワードというのは、本名ではないのだろう?」

「…………エディリーン」


 少女は面倒くさそうに短く答えた。

 なるほど。では「エディ」というのは、少なくとも嘘ではなかったわけか。


「どうして男のふりをしているんだ?」

「……その方が色々便利なんだよ。旅をするにも、傭兵の仕事をするにも、女ってだけで色々と面倒だし」


 言われてみれば納得の理由だった。気付かないふりをしていた方がよかっただろうかとも思うが、一緒に行動するのにそれはやり辛いと思い直す。


「言っておくが、妙な気を起こしたらただじゃおかないからな」


 その視線に、殺気が混じる。思わず、背筋がぞくりとした。下手な敵と対峙するよりも恐ろしい。まるで、毒蛇にでも睨まれたような。

 彼女はそれだけ言うと、腕を枕にして反対側を向いてしまった。その背中は「もう話しかけるな」と言っているようだった。アーネストも疲労感に負けそうだったので休むことにした。

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