第5話 ある奇跡

 愛しているよ。

 顔につけられた酸素マスク越しに、あなたは唇を動かした。

「私だって」

 私は答える。白い壁の病院。その更に奥の、白い壁のICU。硝子窓越しの面会。

 本当は、そんな言葉をかけていないのかもしれない。そんな不安を抱えながら、私はあなたと私を隔てる硝子窓に張り付いていた。


 始まりは、ほんの些細な事。頭が焼けるように痛い。リビングに起きてくるなり、あなたは言った。

「大丈夫?」

 キッチンで朝食を作っていた私は振り返る。青ざめたあなたの顔に、思わず何かを悟った。

「病院行こうよ」

 すぐにコンロの火を消して、私は提案した。

「大丈夫だよ」

 あなたは答える。

「不安だから。タロちゃん、私が祖母を亡くした時の話、覚えているでしょう?」

「呂律は回ってるって」

「だから、心配なのよ。今救急車呼ぶよ?」

 私はそう言って、スマートフォンを手に取った。


 やがて、すぐに救急車が駆けつけ、私とあなたを連れて病院へと運んで行った。

 救急車は祖母の死んだ病院への道をたどる。どうか、最悪な結果にしないでください、神様。無神論者の私が、初めて神という存在に願った言葉がそれだった。

 病院に着くなり、すぐにあなたはMRIにかけられた。残された私は、指を組んで、狭い廊下の椅子に座り、祈る事しかできなかった。

 しばらくして、お医者さんが姿を見せる。私は立ち上がり、その肩を掴んだ。

「先生、主人の、様態は」

 するとお医者さんの表情に影が差し、

「脳梗塞です。もしかしたら、転移するかもしれません」

 やはりそうだ。祖母の時と同じだ。

「何とかならないんですか!?」

 私は必死になって医師にすがった。

「我々としても、辛いところです。幸い意識はありますから、硝子窓越しとなりますが、ご主人の姿を見てください」

「……わかりました」

 私は頷いてあなたが運ばれたICUに歩を向けた。あなたは一番手前に寝かされていて、腕には点滴、口には酸素マスクが取り付けられていた。

 私の存在に気が付くなり、あなたは目を細めた。そうして、その唇が動いた。

 愛しているよ。大丈夫さ。

「私だって……」

 私は硝子窓に手をやった。それはあなたにも伝わったようで、その細い目が、更に細められた。

「とにかく奥さん。ご主人の入院の手続きと、必要な荷物を持って来てください」

「はい」

 私は答えて、あなたに背を向けた。

 暗い気持ちの中で、何をどうしたのか余り良く覚えていない。気が付けば、私はあなたのいない部屋の中で、脱け殻のように座っていた。

 巡るのは楽しかったあなたとの想い出ばかりだ。それに付随するのは、高校生の時に同じ脳梗塞で死んだ祖母の事だった。


 真夜中にスマートフォンが鳴き、私は目を覚ました。嫌な予感がして、心は震えていた。案の定、病院からの電話。恐る恐る、画面をタップした。

「──もしもし」

 私は震える声で尋ねる。

「今から来られますか、奥さん」

 それは昼間にあなたを診てくれたお医者さんの声で、少し慌てているようにも見えた。

「わかりました」

 私は寝巻きから着替え、病院を目指した。


 そこには虚ろな目をして、電気ショックを受ける、チューブに繋がれたあなたの姿があった。

「左の脳に転移してしまいました。蘇生処置を行い、一命を取り留めましたが、出来て視線を向けられるだけでしょう」

 医師は残酷な現実を告げる。

「しばらくしたら、二人部屋に移ります。奥さん、辛いでしょうが……何と言うか、お心お察しします」

「それが医師の言葉ですか!」

 私は声を張り上げた。深夜の病棟に、私の声だけが響く。

「兎も角、今はお帰りください」

 嫌です。私は言おうと思ったが、お医者さんの言葉には逆らえない。私は静かに病院を後にして、自宅に帰った。

 誰もいない部屋。思えば、猫を飼おうかとも、あなたと話していた。それももうできないのか。深夜の部屋でひとしきり、私は大声で泣いた。


 やがて、あなたが二人部屋に移された時。私がタオルや色々なものを持って見舞いに訪ねると、あなたは永続点滴をして、少し視線をわたしに向けてくれた。

 看護師さんの話では、脳の思考回路がたまに良くなり、その時は、意識が戻るという。私はそれを信じて、毎日のように見舞いに通った。


 変化が訪れたのは、あなたが倒れて半年ほど経った時だった。もう季節も夏から寒い冬に変わり、あなたの寝巻も、長袖になっていた。

 いつものように、椅子に座ってあなたの姿を見ていた時、幽かに、ほんの幽かに、あなたの口元が、笑みを浮かべたように見えた。

「たろちゃん?!」

 私は慌ててあなたの手を握った。すると、わずかに指が動き、軽く私の手を握り返した。そうして、

「あ……き、の」

 呂律の回らない下で言葉を生み出した。

「看護師さん、看護師さん」

 と、ナースコールを鳴らす。すぐに看護師さんが駆けつけてきた。

「どうされましたか?!」

「夫が、夫が……」

 ぼろぼろと涙を流す私と、あなたのその姿を見て、看護師さんは全てを理解したように、私を一度抱きしめると、

「よく頑張りましたね。今、先生をお呼びしますね」

 お医者さんはすぐにやってきて、笑顔を浮かべた。

「一般病棟に移りましょう。それから、リハビリを」

「ありがとうございます……」

 私は再び泣いてしまった。

 

 あなたは日を追うごとに快方に向かい、間も無く私の言葉に、答えを出してくれるようになった。呂律が回らないのは、脳梗塞の後遺症だという。それに、右半身も、動かすことができないという事も。

「帰ってきたら、窓際にベッドを置かない? 朝の日差しで目覚めるように」

「いいね」

 あなたは言う。

「でも、俺は寝たきりだよ?」

「良いの良いの。それに、サイドテーブルも置こうよ。ベッドの上でも食事ができるように」

「気持ちだけで、大丈夫だよ」

 と、あなたははにかんだ。


 それから間も無く、あなたのリハビリのプログラムが始まった。私はリハビリが終わるのと同じくして、見舞いに訪れる。汗拭き用のタオルなどを持って。それは幸せな事で、心の奥に抱えていた亡き祖母の思い出を、塗り替えるように思えた。

 今まで、もし祖母が生きていれば。そんな事を考えてしまう事が多かったのに対して、あなたとの想い出は、何処か甘い砂糖菓子のように私の中に租借されていった。

 麻痺していた右半身も、驚く程に回復していて、杖を使えば歩けるほどにまでなった。


 やがて、退院の日が近づいてくる。私は買ったベッドをあなたの部屋の窓際に置いて、新たな主を待つそれを眺めていた。

「良かったよ、おばあちゃん。たろちゃん、大丈夫だって」

 私はそう言って、仏壇に手を合わせた。写真の中の祖母が笑っているような。そんな気がした。


「とうとう明日退院ですね。しかし、本当に奇跡的な事です」

 と、お医者さんは言った。一般病棟の窓際の、雲が良く見える場所だった。

「退院されてからも、色々大変な事もあるでしょう。その時は、いつでもお待ちしていますよ」

「ありがとうございました、先生」

 私とあなたは、二人してお医者さんに頭を下げた。

 翌日、私に付き添われ、あなたは退院した。持つと言ったら聞かないので、今までの服をナップザックに入れて背負って。

 

 家には、夕方ごろについた。私は鍵を開けて、中に入るなり、一番言いたかった事を言った。

「おかえりなさい、たろちゃん。大好きだよ」

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武田図鑑 武田武蔵 @musasitakeda

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