第4話 たとえ時計の針を戻しても
それは、酷く晴れ渡った真昼の事だった。
「好きです。付き合ってください」
と、僕は勇気を出して初めて他人に宛てたラヴレターを君に差し出した。
「え、私……?」
君は少し戸惑った様に言葉を濁すと、その手紙を受け取った。
「はい、秋乃さん」
汗が背中を滴って行くのが判る。
「本当に、私なんかで良いの?」
手紙の封を切り、その内容を読み、君は首を傾げた。
「なんか、などで自らをけなさないで下さい! 僕は、君の全てが愛おしいと思っています」
端から見れば、何という拙い告白だろうか。すると君は言った。
「じゃあ、今からデートしよっか!」
「午後の授業は?」
突然の誘いに、覚悟すらしていなかった僕は困惑した。
「それはなし。動物園の近くの遊園地に行こうよ!」
これが、秘密を持つ第一歩だった。
「佐藤、川端。授業欠席の理由は?」
次の日、案の定担当教師に僕らはこっぴどく怒られた。君は僕を横目で見遣り、それから視線を教師へと移した。
「私から誘いました。動物園の近くにある遊園地に行ってきました。学生割引で無料で入れるので」
すると教師はあきれたようにため息をついた。
「学年の単位の一位二位を争う生徒が授業をさぼるなんて……まぁ良い。目撃者もいないようだ。教室に戻れ」
「はーい」
僕らは声を合わせて答えた。
「秋乃、はっきり言ってたけど、大丈夫なのか?」
教室へ向かう道すがら、僕は言った。
「大丈夫、大丈夫。ほら、先生も許してくれたでしょ?」
「そんなもんか?」
「そんなもんよ」
と、君は口角を引き上げた。まるで無邪気な子供のように。
君……つまるところ川端秋乃は、高校から一緒になった。元々中高一貫の女子高に通っていたが、どうやら何らかの理由でこの高校を来たのだと、クラスメイトの誰かが教えてくれた。二年目に同じクラスになって、恥ずかしいけれど、まずはその美しさに心を奪われていた。ポニーテールに結った、黒曜石のように煌めく艶やかな髪。長いまつ毛。鼻筋は通っていて、紅葉のような紅い唇。うちの学校はある程度の規律を守れば、後は好きにさせてくれる。風紀委員にも、目を付けられる事はない。
それから、君の喜ぶ顔や、くるくると変わる表情に夢中になってゆく僕がいた。
そうして、手紙をしたためる事に至ったのだ。
僕の、初恋だった。
僕らの交際は思春期に属するような清いもので、口づけすらした事がなかった。
それが、僕の人生で一番の失態になるとは、この時思ってもみなかった。
季節が冬に変わる頃、君は急によそよそしくなった。
「どうしたんだよ、秋乃」
公園のベンチ。こそに座りながら、僕は君に声をかけた。
「ううん、何でもないよ」
君は頬笑む。
「強いて言えば……最近物覚えが悪くなったことかな。学年の中間テストの答えが中々浮かばなくて……親に怒られた」
確かに、中間テストは、君はクラスから半分以下の成績だった。
「それに、最近私、なんかおかしいんだぁ……」
君はそう言って、僕の手を掴んだ。
「物事も覚えられなくなるし、注意力も散漫で、中々生きていくのが辛い」
「お父さんやお母さんにはっきり僕が言ってやるよ」
半ば強がりで、僕は言った。君は苦く笑って、
「有難う、嬉しいよ」
君が、高校に来なくなる前日の会話だった。
「川端さんはどうしたんですか?」
僕は教師に詰め寄った。しかし返ってくる言葉は、具合が悪いそうだ、の一点張り。僕は我慢ができずに、君の家を訪ねた。すると、君の母親が出てきて、
「ごめんなさい? 佐藤君。秋乃は今体調が良くないの」
そう言った。
「恋人の僕にも話せない事なのですか?!」
玄関先で、僕は珍しく声を張り上げていた。
その言葉が二階にある君の部屋まで届いたのか、からりと扉が開く音がした。君の母親は少し焦ったように、
「秋乃! 安静にってお医者様から言われているでしょう!」
そう言った。
「私だってたろちゃんに逢いたい!」
急いで階段を下りる音と共に、少し痩せた、寝巻姿の君が顔を出した。君は僕を見るなり、
「久しぶり、たろちゃん!」
と、笑った。
「久しぶり」
僕は片手を上げた。
「心配したぞ? たちの悪い風邪かと思った」
「佐藤さん」
僕たちの会話をさえぎったのは、君の母親だった。
「ちょっと居間まで来てくれますか? 秋乃は部屋に戻っていなさい」
「嫌だよ、私だってたろちゃんともっといたいよ」
「お話が終わったら、佐藤さんが大丈夫な限り一緒にいて良いから」
その言葉に、君は少しはにかんで、
「そっか。それならいいや」
そう言って二階へと上がって行った。
「若年性アルツハイマー……ご存知ですか?」
居間に通され、座るように催促され、正座したと共に、君の母親はこう切り出した。聞き覚えのない病名に、僕は未知の不安を感じた。
「余命、持って5年だそうです」
君の母親は残酷な現実を突きつける。そう言っている間にも、彼女の目尻には涙が溜まってゆくのが見えた。
「なんで、なんであの子が……」
と、君の母親は泣き崩れた。
「お母さん、秋乃の事は、僕が面倒をみます」
僕は言う。
「高校を卒業したら、娘さんを僕に下さい」
そうして一年後、僕と君は結婚をした。
君が患っている若年性アルツハイマーは、普通のアルツハイマーのように、段々と記憶が零れ落ちてゆく。そうして最後には、食べ物を噛んで粗食する事も忘れ、肺炎で死ぬという。君はどんなに恐ろしかっただろう。
なので、君は備忘録を付ける事にしたという。
「見て―、たろちゃんと私のラブラブノート!」
ソファに座る僕の膝に頭を乗せて、君は無邪気に笑う。
「ノートがいくら変わっても、一番始めにたろちゃんの事を書くの!」
「そうか」
俺は答えた。アルツハイマー病は、新しい記憶から消えている。どちらかといえば、君の心は未だに高校二年生のままではないのか。そんな疑問が浮かんだ。
結婚三年目。君はとうとう歩くことを忘れ、病院のベッドに眠るままになった。僕は毎日見舞いに行ったし、出来ることは手伝った。
「……誰?」
僕が病院の個室に見舞いの為に入ると、君は恐ろしげな眼差しで言った。そうして、慌てて備忘録を開き、
「なんだ、たろちゃんかー」
と、はにかんで笑った。
「最近はどう?」
僕は聞く。
「うん……あんまり、良くない」
これが君と交わした最後の言葉だった。
電話が掛かってきたのはその晩の事だった。発信元は君が入院している病院。家族もなるべく。電話越しに、看護師は言った。
僕はすぐに君の両親に電話をかけ、君の病室で待ち合わせることにした。僕は自転車で坂の上の病院へと向かい、昼間に訪れた君の個室に足を向けた。
君は、沢山のチューブに繋がれていた。
「旦那さん」
と、主治医が僕に言った。
「延命治療を、致しますか?」
「それは、それはどういうことですか?!」
僕は主治医に詰め寄った。
「秋乃さんは、もう食べ物を食べることができません。喉から管を通して、直接食道に繋ぎます。それが、延命治療です」
その時、君の家族がやってきた。
「太郎さん、秋乃の様態は?」
君の母親は、僕の肩を掴んだ。僕は俯き、
「延命治療をするかを迫られました」
そう言うことしか出来なかった。
「義母さん、義父さん、どうしますか?」
「秋乃が生きてくれるならば……いや、娘の悲しい姿を見ていたくない……」
君の父親はそう言った。僕は君の母親を見た。
「私も……綺麗なうちに楽にさせてあげたい」
そう答えた。
「わかりました」
僕はそう答えて、主治医に向かって言った。
「先生、延命治療は、望みません」
「わかりました」
主治医はそう言うと、看護師達に指示を出した。
「旦那さん、手を握っていてください。秋乃さんも、それが喜びでしょう」
そうして、僕が君の手を取って握った時、最後の抵抗のように、ぴくりと君の指が僕の親指に触れた。それと同じくするように、無機質な機械音が鳴って、君の心臓すら、動くことを忘れたようだった。
火葬場に伸びる煙突から出る煙を見ながら、僕は一人呆けたようにただ上を向いていた。君が火葬にかけられる前、君の母親は、娘を連れて行かないで! そう言って叫んでいた。僕も同じような気持ちだったが、喪主という手前、拳を握りしめていた。
晴れている筈なのに、頬に一筋の雨が落ちる。三年程の結婚生活だった。でも、案外楽しかった。
そう言えば、僕が今着ている喪服は、君がアイロン掛けをしていた。不意に内ポケットに手をやると、手紙が入っていた。
大好きなたろちゃんへ
いずれ、私は死んでしまうから、きっとたろちゃんが着るだろう喪服に、小さいお手紙を書かせて頂きました。もしかしたら、別の人の葬儀に一緒に参加して、笑い合っているかもしれないね。そうだと良いな。たろちゃん、大好きだよ。私も、実は高校の入学式でたろちゃんを見てから、ずっと好きだったんだ。告白された時は物凄く嬉しかった。
手紙が文字で埋まってしまっているから、最後に、一言。
私は、何度時計の針を戻しても、たろちゃんにまた恋をします。
佐藤秋乃
「なんで……」
俺は嗚咽を隠し得なかった。男のひとり泣きなんて馬鹿らしい。そう思いながら、双眸から溢れる涙を止めることは出来なかった。
やがて、君の母親が僕を見付けて駆けてくる。僕は君からの手紙をポケットにしまい込んで、骨となった君を迎えに行った。
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