第3話 蛍光
未だに、あなたの顔が消えないのです。
それは、日本がアメリカと戦争をしている最中。昭和20年の春の事になります。
私はその時、親に無理やり連れていかれた見合いの席で、私と同じように、どこか恥ずかし気に見合い相手から目を反らす、海軍の服をまとったあなたと出逢ったのです。
歳は同じ程で、帽子を胡座をかいた脚に立てかけ、七三に分けた濡れ羽色の髪の先が、風に揺れておりました。見遣った料亭の中庭の木立は、生き生きと枝葉を伸ばし始めていました。
「ほら、秋乃。ご挨拶なさい」
母はそう言って、私の牡丹をあしらった帯を押しました。
「は、はい」
私はまとった振袖の裾を掴み、
「佐藤秋乃と申します」
やっとのことで声を絞り出しました。それはあなたも同じだった様子で、
「川端と申します」
と、少し緊張気味に言葉を吐きました。
その時、私は改めてあなたを見ました。
凛々しい眉、その下の二重瞼。長いまつ毛に包まれた瞳は黒曜石のように煌めき、通った鼻筋と、唇はほのかに赤いものでした。私は吸い込まれるように、その美貌に見入ってしまったのです。
「そ、そんなに見ないで頂きたい……」
と、あなたはおっしゃいました。
「あ、すみません」
「いいえいいえ、良いのですよ。うちの忍が奥手で恥ずかしがっているだけですから」
「だから、嫌だと言ったのです、母上」
あなたはお母様に訴えました。
「俺は、お国の為に死ぬ覚悟ができております。こうやって華やかに見合いをしている間にも、外地で戦って散って逝く者たちがおります。俺は、はっきりと言いますが、見合いは反対したはずです」
忍。私はあなたの名前を、心の中で繰り返しておりました。
こんな素敵な殿方が、私の夫になるなど、どんなに誇らしい事だろう。女学院の学友にも、見合いの事は話しておりましたから、きっと月曜日にでも自慢ができる。そう、私は思いました。
「あとは、ご両人だけで……」
私が夢想している間に、母親たちはそれぞれ立ち上がり、部屋を去って行きました。私は母の袖を一度掴みましたが、それは直ぐにあしらわれてしまいました。
さて、残されたのは若い男女。それも、男の方は見合いに反対ときました。これは恐らく失敗に終るだろう。私がそう思った時でした。
「に、庭に、出ましょうか」
あなたが、立ち上がり、私に歩み寄って言葉を紡いだのです。
「宜しいのですか?」
私はあなたを見上げました。しかし、手は勝手に差し出された手を取っておりました。少し温かいあなたの手に、心臓の音が高鳴るのが判りました。
「なに、母上も、あなたのお母様も、この見合いを成功させたいと思っているようです。ならば、だましてやろうではありませんか」
この言葉は、私の心に、小さな針を刺しました。だます。つまり、あなたは私には興味がない。そう悟ったのです。
「お庭になど出たくありませんわ」
私は言いました。
「見合いにご興味がございませんのなら、そのまま帰られてはいかがでしょう? 忍様」
すると、あなたは一瞬押し黙り、
「名前を、覚えて頂いたのですか」
そう、おっしゃりました。
「しかし、あなたは私の名など、覚えてはいらっしゃらないでしょう?」
「いえ、秋乃さん。しっかりと、覚えていましたよ」
「……え?」
私は、恥ずかしくなって握った手を離していました。そうして、袖で顔を覆うと、
「は、恥ずかしいですわ、忍様」
「お互い様です。さあ、お庭に出ましょう」
あなたは豪快に笑うと、再び手を差し出しました。
私は、恐る恐るその手を取っていました。まるで、猛獣を前にした子ウサギのように。
しかし、手が重なった途端、それは甘やかな恋情というものに変わっていました。それはあなたも同じであったようで、頬を染めて、思わずであったのでしょう。真昼の太陽が見守る中で、私を抱き寄せ、唇を重ねたのです。
そうして私の腰に手を回すと、
「戦争は、もうすぐ終ります。そうしたら、結婚いたしましょう」
と、言ったのです。
見合いをしてから数週間後。不意にあなたからの手紙が私の元に舞い込みました。なんの頼りだろう。私は少し期待して、封を切りました。その中には、一枚の手紙が添えられておりました。
この度、神風特攻隊として空に散る身となりました。この手紙が届く頃には、俺は靖国の桜と……いや、これは友人からの受け売りですが、蛍になってあなたの元に帰ります。秋乃さん、約束が果たせず、申し訳ございません。どうか、俺の為になど、泣かないで頂きたい。むしろ、太陽のような笑顔で笑っていて下さい。あなたには、それができるはずです。
「……できる訳、無いでしょうが……」
私は倒れ込んで、母が驚く程に大声で泣きました。
やがて、8月に戦争は終わりを告げました。そして、天皇陛下の放送を聞いたその日の晩に、夕涼みをする私の元に、おぼろげな光と共に、蛍が舞い降りました。
「しのぶ……様?」
私は呟きました。すると、季節外れの蛍は、私の手に止まると、満足したかのように動かなくなりました。私は“あなた”を抱え、一度胸に抱いてから、庭の木の下に埋めました。頬に涙が、伝って落ちました。
77年経ってなお、私は、見合いの時に見た、あなたの顔が頭から消えないのです。
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