《リンカーネイション》10 Escape
硬い廊下に吸い込まれるように、曇った足音が微かに響く。
日も沈みかけた頃、リラはカミルに呼び出された。
(何かしら……)
いい話ではないだろう、というのは直感的に勘づいていた。普段の彼はわざわざ人を呼びだすようなことはしない男だ。それにここは《リンカーネイション》。ルドルフ達ならいざ知らず、カミルやリラにとっての前向きな話などどこにあろうか。
「カミル」
奥の小さな部屋の戸が開く。彼はリラの存在を確認すると、微かに辺りを見回してから手招きした。
「カミル、用は何?」
「……」
彼女の言葉に答えることなく、カミルは更に奥へと誘導する。不審に思いつつも手招きに従うと、小さな机に行き当ったところでようやく彼は口を開いた。
「これを見てくれないか」
彼が差し出した手に握られていたのは、
「紙……?」
そういえば紙なんて見たのは久しぶりかもしれない。外の世界では紙は高級品。そう簡単に触れられるものではないし、《リンカーネイション》内での記録やなんかは皆デジタルに置き換わっている。どうして、と尋ねる前に、彼女はそこに書かれていた文字に気付いた。
『内密の話がある。記録に残っては困るから、紙上でやり取りしてほしい。あまりに無言の時間が続いては怪しまれるだろう、口頭では違う話をしてくれないか』
とくん、と心臓が跳ねる。鉛筆を受け取って、
『わかった』
とだけ記した。
「……リラ」
「なあに?」
違う話、違う話……。いざそういう状況になると何も思いつかない。そういえば、最後に任務に関係ない話をしたのはいつだっただろう。
そんな中でもカミルは微かに右手を震わせながら何かを書いている。少しだけ悩んで、小さく頭を傾けて、それでも首を横に振って。リラの方に寄越したその紙には。
『逃げろ』
息を飲む。その音が、やけに大きい。
どうして、なんで、どうやって? 頭を駆け巡る沢山の疑問符。その間を縫うように、突然思いついた話題。
「ねえ、……カミルは小さい頃、何になりたかった?」
面食らった彼の顔を見ながら、強く強く握った鉛筆を走らせる。
『どういうこと?』
「……俺は、……人を救いたかった。……父さんみたいに」
そう言うと、鉛筆を持ったままカミルはリラの大きな瞳から視線を逸らして俯いた。
父さん。何年ぶりに口にした言葉だろうか。
『このままではお前の命が危ない。頼む、逃げてくれ。方法は俺がどうにかする』
人を救う、それどころか。
(……俺は、何人殺した?)
そんな男が目の前の彼女を、好きな人だけでも救いたいなんて、虫が良すぎるだろうか。
「……でも、今は違う。やり直したい。やり直したいんだ、全部」
かける言葉が見つからない。何もわからない。
『私、なにかしたの』
逃げるように鉛筆を走らせる。その文にカミルは戸惑ったようだった。
『なにって、ステラの記憶を持ち出したのはリラじゃないのか』
(……そういうこと)
リラはようやく合点がいった。通信機が入れ替わっていた時間中に自分の弟が何をしたのか、賢い彼女にはおおよそ想像がついた。それに、彼女の首元の印。知ってしまったからにはきっと、同罪なのだろう。
『それは、』
テームが、と書きかけて彼女の腕が止まる。もしその名を書いたら。
(……《リンカーネイション》はテームを消して、それで終わりにするかもしれない)
そもそも、リラからすればカミルの立場もはっきりしない。元々リラを助けるつもりでこんな話をしたのか、或いは探りを入れるよう命じられた中で情が湧いてしまったのか。
もし後者だとすれば。
(カミルがテームの命を助けてくれる保証なんてない)
鉛筆を握りしめる。そのまま、一息で。
『私がやったの』
そうするしかなかった。なにかが、ほんの小さななにかが、変わる可能性を信じるしかなかった。
息を吸う。逃げるように、口を開く。
「……私も、やり直したい。もっと違う家に生まれて、もっと強い人になりたい」
もっと、もっと。決して自分の手ではかなえられない願い。それが強欲なのか悲願なのか、カミルにはわからなかった。
「……私とテームはね、デストジュレームの北の貧しい農家の生まれなの」
初めて話す出生のこと。きっと、カミルとゆっくり話せるのは今日が最後だろう。何となくそんな気がしていた。
「十年くらい前に北の一帯で飢饉があったでしょう。……私達はその時に口減らしのために森へ捨てられたの」
「……」
彼は何も言わない。肯定も否定も、同情も慰めもないその沈黙がリラにはむしろ有難かった。
「子供心にも、私達はこのまま死を待つだけなんだって思っていたの。でも、孤児院の人に拾われて……」
微かに息を吸って、椅子に座り直す。
「知っているかしら。孤児院はね、毎月王室から一人の子供につき金貨一枚が支給されるの。だから、その金貨一枚のために孤児院を運営するような輩もいるわ。……私とテームが引き取られたのはそういう場所だった」
「……」
カミルは口をつぐんだままだった。元々あまり表情が変わらない人だけれど、彼の頭の中は今どんな言葉が渦巻いているのだろう。
「……いっそあのまま死んでいたら、って何度も思ったわ。身も心もボロボロにされて、気付けば子供がいなくなっていて、そんな環境だった。……でも、できなかった。死ねなかったの。……テームがいたから」
泣きそうになった時はお腹に力を入れること。生き抜いて見つけた小さな知恵。
「少しして、今度は《リンカーネイション》に売られたの。ここに来たら何かが変わるかと思ったのだけれど……」
そこまで言って彼女はようやく息をついた。恐らくこの会話も録音されているのだろう、《リンカーネイション》に関する話はやめておいた方が良さそうだ。
その代わりに、リラはいつもより少しだけ弱くなってみる。姉でも幹部でもない、一人の人間に。
「……ねえ、このままここで生きていて、何になるのかしら。これから何が変わるのかしら。きっと死んだって墓標もないのよ」
ようやくカミルは手を動かした。
『逃げてくれ。テームもステラも、お前の大切な人達を連れて』
少しだけ躊躇して、それでも彼は書ききる。丁寧に、丁寧に。
『生きてくれ』
「……!」
生。
目を背けていたその文字が、リラには鮮やかに色づいて見えた。
「……お前は幸せになるべき人だ。毎日笑って、誰かと恋をして、しわしわになるまで生きて、最期まで家族に囲まれて目を閉じるような、そんな人生が似合う人だ。だから……」
「カミルだって……カミルだって、そうじゃない……」
視界が歪む。文字が滲む。
最期まで隣にいてくれるのは、あなたがいいのに。
「カミル」
『一緒に生きて』
「……すまない」
顔を上げる。
彼は笑っていた。いや、笑っていないわけではなかったと言う方が適切だろうか。自虐的な笑みではなく、かといって楽しげだというのでもない。壁のようだ、と思う。涙を、零れそうな感情をせき止めるための。
それでも、綺麗だった。初めて見る表情だからなのだろうか。或いは、散る花のようだからとでも言うべきなのだろうか。
「……違う場所で出会いたかった」
カミルはそっと椅子を立った。動いていなければ、どうにかなってしまう。
「一緒に学校へ行って、子供っぽい遊びに真剣になって、つまらないことで笑いあって、そんな日々をリラと送ってみたかった。でも……」
それは叶わないらしい、とは言わない。彼なりの最後の抵抗だった。
「一つだけ頼みがある。……笑ってくれないか」
彼の気持ちは痛いほどわかった。少し腫れた瞼を閉じる。無理矢理口角を押し上げた。
「こんな感じ?」
「ああ。……ありがとう」
どれほど不器用な笑顔だっただろう。それでも、つられてカミルも微笑んだ。ずっとこのままならいいのに。時が止まってしまえばいいのに。
「……お前がこれから幸せなら、俺も幸せだ。それでいい。それで充分だ」
それが彼の本心なのだ。そう思わなければ、あまりにも残酷すぎるから。
終わってしまう。幕が下りてしまう。好きの二文字も言えないまま。
朝は暮れていく。
新しい夜のせいで。
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