14章 Signpost
「おや、アナン殿。寝付けなかったのであるか?」
仕方なく部屋に戻ろうとしたアナンを呼び止めたのはサナだった。こんな夜更けに何か用事でもあるのか、きちんと着物を着込んでいる。
「サナか。……まあ、そんなところだ」
「すまぬ、もしや布団が合わなかったのでは……」
「いや、そういうわけではない。むしろ快適だ、ありがとう」
そこで会話は途切れる。アナンは先程のラーシュやノスタシオンとのやり取りに話が及ぶことを無意識に避けようとしていた。消化不良の正義を、どろどろのまま彼女に見せてしまうのが怖かったのだ。誰かの正解に触れれば触れるほど、わからなくなっていくから。
「それならば良いのであるが。眠れぬ時は白湯でも飲むと良いぞ」
アナンの思案を知らないサナは屈託のない笑顔を見せた。何がどうというわけでもないのに、どういうわけか申し訳ないような気持ちになる。妙な気分のまま、彼は会話を切り上げるという選択を取り下げた。
「……随分ちゃんとした支度をしているようだが、何か用でもあるのか?」
「ああ。我は毎晩町の見回りをしているのであるよ。と言っても、こんな時間に一人で出向くことはまれであるが。昼間の混乱に乗じて良からぬ賊が侵入していても不思議ではないのでな、念には念を入れて回数を増やしておるのだ」
なるほど確かに彼女の左手には松明が握られている。
「そうなのか、お前は勤勉なんだな。それも、一人で……」
「いや、普段はヒューゴーが共に参るのである。ただ、あやつがまだ任務から戻ってこぬ故、仕方がないのであるよ。まったく、いつ帰ってくるのやら……」
礼儀正しい彼女だが、ヒューゴーに対しての扱いは少し雑なようである。もっとも、初めて会った時のことを考えればそう不思議ではないのかもしれない。アナンもつられて苦笑した。
「というか、見回りも傭兵がやるのか。大変だな」
「いや、これは我らが勝手にやっていることである」
彼女はきっぱりそう言い切った。アナンは碧眼をしばたたかせる。報酬外の仕事をする傭兵なんて聞いたことがない。
「……傭兵として生きていくには、個人感情の外にいるべきなのだ」
ぽつりぽつりとサナは薄い唇を動かす。松明の火が絶え間なく形を変え、頬に影を落としていく。
「以前の雇い主が敵になることもある、犯罪組織に雇われる者もいる。どちらが善かとか誰が悪かとか、そんな思考は捨てて、より待遇のよい場所へ行くのが賢い生き方なのだろう。……だが、我はそういうことができなかった。不器用なのだ、自覚はしておるよ」
サナは琥珀のような瞳をこちらへ向けた。月の光を吸ってきらめく黒髪は、遠い国の花を思わせる。凛とした、という形容がよく似合う人だ。
「正しき者、弱き者につく。易しいようで難しい。誰が、何が正しいのかなんて考えれば考えるほどわからなくなる。弱き者は傭兵に多額の報酬を払うことはできない。物理的な面でも、そういう信条を掲げての傭兵稼業は難しいのである。それでもなんとかやってきていたのであるが……」
僅かに視線を外して、彼女は自嘲気味に笑ってみせた。だが、瞳の奥の黄金の炎は依然静かに燃えている。
「ここに来る前、我は雇い主と揉め事を起こしてしまってな。商人の警護をしてほしいという話は建前で、実際は盗品を運ぶ際の見張りをするという内容だったのだ。……我は依頼を放棄した。そんなことに手を貸すなんて御免だと、受け取っていた報酬も返して」
彼女が絶対に意志を曲げない人だということには薄々気付いていた。それにしてもそこまでするとは。不器用だ、と自称する意味もわかる気がした。
「だが、その話に尾ひれがついて広まってしまってな。我は仕事を怠って報酬を持ち逃げした傭兵ということにされたようで、めっきり仕事が減ってしまった」
「そんな……」
正直者が馬鹿を見る。学校で習ったのか、父から教わったのかは忘れてしまったけれど、どこかでそんな言葉を聞いたことがあった。
「……それでも、この町の人々は我を信頼して雇ってくれた。だから、我はその信頼に報いたいのだ。報酬にならないのは百も承知であるし、それで構わない。人は金が無ければ生きていけないけれど、金のために生きたいわけではないのだ。我が今まで苦労もなく生きていられたのは、知らないところで誰かが支えてくれていたからである。今度は我が誰かの日常を支える側になれる。それはどんな見返りより尊いものであると、我は思うのであるよ」
綺麗だ。そう言う彼女は、月に照らされる彼女は。綺麗事だと言われても、この世に心から綺麗なものがあってもいいじゃないかと言い返せる気がした。
「……あのさ」
アナンは考えるより前に切り出していた。
日常を失う恐怖は誰よりもわかっている。ちっぽけな力では届かないこともわかっている。
でも。
(俺とイスフィのたった二人でも、逃げのびて生きていることには意味がある。どんなに小さなことでも、何もないこととは絶対に違う)
だから。
「俺にも見回りをやらせてくれないか」
今回の事件の原因を作ったアナン達を、それでも受け入れてくれたこの町に。見知らぬ誰かの毎日のために。
「もちろんである。……そなたの心意気、気に入った」
彼女は不器用に微笑み、松明の火をわけた。微かに吹いていた風も今は凪いでいる。
サナは気付かない。
彼の決断は運命的なものだということを。
アナンは知らない。
この世界は、必然でできていることを。
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