《リンカーネイション》5 Misalignment


「テーム、まずは復習から。自分の名前を書いてみて」

「うん」

うららかな午後、テームはステラに字を習っていた。成長期の少年と幼い少女。教える側と教えられる側、一見反対に見える二人。

「……どう?」

「うん、上手。……テームは偉いよ」

機械仕掛けの固い手がテームの髪をくしゃくしゃと撫でる。姉のようで妹のようで、なんだか不思議な気持ち。

「ありがとう……でも、偉くないよ、僕は」

どうしてか彼女の前では素直な言葉で話すことができる気がするのだ。この偽りだらけの組織の中で。

「姉さんだって、僕と同じ環境で育ったはずなんだ。それなのに、姉さんは賢くて何でもできて……僕はずっと足を引っ張ってばかりで……」

努力が足りないからなのかな。その言葉を紡ぐより前に、ステラの手が彼の頬を撫でた。

「テームはテームなの。頑張ろうって思えたこと、こうやってステラのところに来たこと、それだけで偉いよ」

血の通っていないはずの手は、微かに温かく思えた。母親がいたらこういうものなのだろうか。物心もつかない頃に姉弟を捨てた実の母親とも、ディスプレイ越しの疑似的な『母』とも違うなにか。

「ありがとう」

どういうわけか熱くなる目頭から意識を逸らして、震えそうになる声を抑えて。いつも通りに戻らなきゃ。反射的にそう思うのは、ここで生きた時間が長すぎるから。

「ねえ、次はさ、」

リラの名前の書き方を教えて。

そう言いかけた口を閉じた。

「……ステラ?」

青い瞳を不自然に見開いた彼女がそこにいた。甲高いエラー音。鼓動の代わりの錆びた呻き。

彼女には、機械の身体を持った彼女にはよくあること。そうわかっているけれど。

それでも。

悲しいほどに、機械だった。

一本コードを切れば何もかも壊れてしまう古ぼけた機械。その冷たさに気付くのが、今であってほしくなかった。

「……ごめ、ん、ね、……ステラ、また、壊れちゃったみたい、だから……油、もらわなきゃ……だれか……リラか、カミルを……呼んで」

いつも通りに笑う彼女はいつになく人間みたいだった。なんて皮肉なんだろう。今、彼女の機械性を痛感させられているこの時に。

「……わかった。すぐに……」

手元の通信機に目をやる。とりあえずはリラに、彼女が忙しそうならカミルに。大丈夫、これはいつものことなんだ。

「……え」

程なくして彼は違和感に気付いた。手元の通信機に示された数字。

60221346。

リラの識別番号が、そこにはあった。

メンテナンスに出した時、どこかで取り違えられたのだろうということはわかった。恐らく滅多に起きない人為的なミス。科学で覆われたこの場所で。

(……っていうことは)

テームはふと気付いた。言うなればそう、出来心。

今手元にあるのは姉の通信機。ステラの油がしまわれている棟のセキュリティーは、今日メンテナンスの為に若干緩くなるはず。恐らく通信機があれば。

「……行ける」

姉やカミルの手を煩わせるより、ステラをこれ以上苦しませるより。

自分で行けばいい。できる、今なら。誰かに手を差し伸べられる。

胸を包む場違いな高揚感。藻掻くように、酔わされるように。

「……ちょっと待ってて」

嫌に大きな鼓動の音を連れて、通信機を握りしめて場を離れる。

小さな英雄になれると、小さな恩返しができると、そう思っていた。

――その決断が、僅かに《リンカーネイション》の歯車を狂わせたと知るまで、そう時間は掛からなかった。

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