《リンカーネイション》3 A little tale, a little “science”(4)


「おい、奥に逃げたぞ!」

「扉は壊せ、引きずりだせ! 化け物を逃がすな!」

 翌日の午後、学校から帰ってきた俺が見たのは地獄のような光景だった。

 小さな家を取り囲む村の人々。

 毎朝卵をくれる隣の家のおじさん、よく遊んでくれるはす向かいのお兄さん。遠巻きから見ているのは角の宿屋のおかみさんに、時々お菓子をくれる雑貨屋のお姉さん。

 村の人達皆が、よく見知った皆が、俺の家に押し入って怒鳴っている。

 わけがわからなかった。頭が真っ白になって、足が動かない。不気味なほど響く鼓動が、呼吸が、自分のものではないみたいで。

 人々は家の方に夢中で、呆然と騒動を見つめている俺のことには気づいていないみたいだった。少しして引きずり出されてきたのは母だった。途端、皆が寄ってたかって母に罵声を浴びせる。

「欲も騙したな、この性悪女め! お前の夫は魔導士だと偽って、おかしな薬を売りつけていたそうじゃないか!」

「そうだそうだ! 俺の娘はお前の息子に科学とかいうやつで足を縛られて帰ってきたんだぞ!」

 あの子が約束を破ったんだとすぐにわかった。話してしまった俺も、我慢できずに大人に話してしまった彼女も、子供だったのだ。

 輪の中の母と一瞬目が合う。

 逃げて。

 そう言っているように見えた。それでも、固められてしまったように足が動かない。

 続いて父と弟も引き出されてきた。更なる罵倒と小石が、二人に降りかかる。

「……落ち着いてくれ。私はただ、人を助けたかっただけなんだ」

 声を荒げることなく真っ直ぐ前を見る父。だがその態度は逆に人々の神経を逆なでしたようだった。

「黙れ! 何が科学だ、何が科学者だ! 俺達を殺そうとしていたんだろう!」

 その会話すら、意味をなさない怒声と人を叩くような音にかき消されていく。泣き叫ぶ弟は、俺に気付いたようだった。

「嫌だ、……嫌だよ……死にたくないよ……! 兄ちゃん、いるんでしょ! 助けてよ……!」

 一斉に村人達が振り返る。俺に注がれる数多の視線。

「おい、いたぞ! 捕まえろ!」

 誰かがしゃがれ声で叫んだ。

 殺される。

 直感的に俺は悟った。

「カミル!」

 ざわめきの中で確かに聞こえた父の声。

「逃げろ。お前だけでも……生きなさい」

 それが、最後に聞いた家族の言葉。

 俺は反射的に鞄を投げ捨てた。

 逃げろ。その三音に背中を押されるまま、無我夢中で走る。

 なんで、どうして。わからない。

 科学者が、父が殺人を企てているなんて結論に、彼らだけでたどり着いたとはとてもではないが思えなかった。誰かが吹き込んだ? でも、誰が? それとも。

『人間は自分と違うものを遠ざけたい生き物なんだ』

 あの日の父の言葉が、俺を追い立てる。認めたくなかった。俺の短い半生も、ちっぽけな心も何もかも壊してしまうようで。

 逃げろ。彼らから、或いはあの言葉から。

 あの時の父の寂しげな顔。それを作り出すのが未来の自分だなんて、どうしても。

 そのまま息を切らして森へ逃げ込む。すばしっこさと小ささは、大人達では敵わない。夕暮れも相まって彼らはしばらくすると俺を見失ったようだった。

「……どうしよう」

 やっと、僅かに目尻が湿った。元来た道もわからない。家族はどうなるのだろう。

 不意に木の根に足を取られて転ぶ。そうだ、あの時、あの子が転ばなければ。今頃はいつも通り家族で食卓を囲っていたのだろうか。

「……どうして」

 気付けば両目からはとめどなく涙が溢れ出していた。あらゆるものからの恐怖と不安と、その他の不明瞭な何か。ただ生ぬるい雫だけが、俺に生を実感させる。

 このまま死ぬんだ。心のどこかで思った。それでもいい、とも。

「……少年」

 どれ程経った頃だろう、突然誰かが俺に話しかけた。若い男の声。

「や……やめてください……殺さないで……」

 嗚咽交じりで命乞いをする一方で、俺は頭の中でその男の声を村人の声一人一人に当てはめて考えていた。だが、どれだけ考えても聞いたことのない声だという確信が崩れることはなかった。

「大丈夫、僕は村人ではない。旅の者だ。そして……科学者でもある」

「え……?」

 男は俺に目線を合わせてしゃがみ込んだ。深い緑の髪に片目眼鏡をかけた茶色の瞳。手に抱えていたのは電灯のようだった。それも、父が持っていたものよりもずっと小さくて明るいもの。

「名乗っていなかったね、僕はオリヴェル=スカンツェ。事情はわかっているとも。僕は君の味方だ」

 それが俺とオリヴェルの出会いだった。

 味方だと言った彼は、いかにも紳士的で都会的な好青年といった風に見えた。そのまま強く俺を抱きしめる。

「……可哀そうに。科学者だからと迫害された者を、僕は何度も見てきた。……僕も、もうここにはいられそうにない」

 温もりの中で、俺はやっと声をあげて泣いた。ほんの一瞬、彼を親みたいだと思った。

「……父さんは……み、皆が言うような人じゃない……ほんとに……本当に、人の役に立ちたいって、そう言って……そういう人で……」

「そうだ、君の言うとおりだ」

 優しく背中をさする彼に俺はすっかり心を許していた。

「……だが、君にも非はある」

「え」

 だから、彼が突然冷たい声でそう言ったのも、信じられなかった。いや、信じたくなかったのだ。

 泣くことも忘れて呆然と座り込む俺に、オリヴェルは耳元で更に囁いた。

「君が迂闊に『自分は科学者の家の者だ』と口にしなければ、こんなことにはならなかったのに。自分でもわかっているだろう?」

「……あ……う……」

 放心したように声にならない声をあげる俺を、完全に突き放したのはその後の一言だった。

「君の家族が死んだのは、君のせいだ」

 家族が死んだ。俺のせいで。

 脳を刺された、と思った。彼の低い声を、拒絶したかった。

「……死、んだ……?」

「そうだ。広場に連れていかれて、散々棒で叩かれて死んだよ。弟さんなんて顔もわからないくらいにね」

 いつか見た光景を思い出す。罠を乗り越えて向かいの畑に入り込んだ鹿が退治された時。新芽を食べられたからって家の人達は怒って、瀕死の小鹿の顔をボロボロになるまで叩いたんだ。妙にはっきり覚えているあの死体の顔が、泣き叫ぶ弟の顔と重なって。そうだ、あの日の夜はその小鹿の肉を貰ってきて食べたんだった。

「う……ぅ……」

 反射的に俺は嘔吐していた。

 罪悪感と絶望感が胃の腑からこみ上げる。内側から囁かれるみたいに。『お前が殺したんだ』って。口と鼻孔を支配する酸っぱい味。贖罪の味。内臓に巣食う何かが、心臓を掴んで無理矢理吐き出させているような。

「……ご……ごめんなさい、ごめんなさ、い…………俺が、……俺の、せい、で……」

 何を言っても無駄だと頭ではわかっていた。許してくれる人はもういない。

 あの時、俺が。科学の話なんてしなければ。きっと、ずっと。

 半ば過呼吸を起こす俺を、オリヴェルは助けようとはしなかった。それどころか、硬い靴で俺の背中を蹴ったのだ。もはや彼に対しては何の感情も湧かなかった。絶望も恐怖もなにも。ただ空っぽな人形があるだけ。

「……今更遅い。どれだけ悔やんだって、君の家族は戻ってこない。……だが、せめて罪滅ぼしの方法くらいは教えようか」

 ようやく泣き止んだ俺に、彼は袋のようなものを握らせた。

「……これは……?」

「毒だ」

「ど、く……?」

「そうだ。これを村の水場という水場に投げ入れてきたまえ」

 耳元で囁く彼は、先程の優しい態度からは想像できないほど冷たかった。

「で、でも! そんなことしたら、……」

「どうせ君は人殺しだ。今更躊躇したところで真人間には戻れまい。それならせめて、親兄弟の仇くらい取ったらどうかね」

 人殺し。その言葉は僅かに残った心のヒビの隙間から蔓のように入り込んで、いとも容易く俺をバラバラにしてしまった。そのまままた繋ぎ合わせて、壊して。歪なまま。

「……はい」

 袋を掴んで、俺はよろよろと立ち上がった。その毒入りの袋は、俺を地面に引きずり込みそうなほどに重く感じられた。

「……ああ、そうだ」

 彼は俺の後ろ姿に向かって言葉を付け足した。まるで、なんでもないことのように。

「君、村に帰ったらお父さんの仕事部屋から科学に関する文書や設計図を持ってきたまえ。一つ残らずだ。わかったね」

 今ならわかる。彼の本当の目的はこちらだったのだ。俺が逃げようが殺されようがどうだっていいことで。もし俺が助からなかったとして、そうなれば彼は自分で俺の家を物色しに行ったのだろう。

 オリヴェルが欲しかったのは、パヴラート家の持つ技術だけ。

 あの時そのことに気付いていたら、と今でも思う。

 俺の人生の分岐点は三つ。

 科学者だと打ち明けてしまったこと、生き残ってしまったこと。


 そして、この時彼の言葉に従ってしまったこと。

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