11章 Dragons(3)
突然アナンの視界が暗く淀んだ。否、頭上を通り過ぎた何かが彼の視界に影を落としたのだ。顔を上げてその正体を認識するより前にイスフィが彼の袖を引く。
「逃げてっ!」
「え?」
発光した額の印。それだけで全てがわかる。咄嗟にアナンは後ろに跳んだ。
途端、何か黒いものが地面に突き刺さる。先程アナンがいた場所に。
「……なんだ、これ……」
思考のエネルギーは足へ回して、イスフィの手を掴んで駆け出す。
なにが? どうして? どこへ。どこへ?
渦巻く炎に追われるような感覚に体中が支配されていく。砕、壊、破、呑、喰、恐怖を色付るもの全て。石造りの道が崩れていく音に老いも若きも悲鳴をあげる。火事の最中の故郷の村もこんなだっただろうか、なんてアナンは考えてしまう。迫りくる何かに追われるまま、人々は広場へ追い詰められていく。
「……そうカ……お前ガ、アナン=アイオン」
轟音の中で誰かが呼びかける音だけは嫌にはっきり聞こえた。子供のようで大人のようで、生きているようで生きていないようで。直感的にわかることはただ一つ。
(……こいつ、人間じゃない)
逃げなければとわかっているのに、心と身体が分離していくような感覚に襲われる。そもそも初めから対峙するという選択肢は奪われていたのだけれど。
錆びついた人形のように、細い糸で操られるように、ゆっくり首を回す。
その先に広がっていたのは異様な光景だった。
血のように赤い目、目、目。狂ったように飛び回る五匹の黒い石竜。尾が、爪が、固い石となって崩れ、人々を狙って地面に突き刺さっていく。零れ落ちた尾や爪は何度も何度も再生して、また何事もなかったかのように竜の影を形作る。
そしてその中心で竜達を束ねる黒い髪の少女。彼女もまた、血のように赤い目をして黒い翼で飛んでいた。恐らく人の形をとった石竜なのだろう。
「……なんだ、誰だ、お前……」
何かに頭を、思考を砕かれていく。逃げなければならないのに、彼女と対話を試みてしまう。
「誰? 知らなイ。……あの子ハ、イノって呼ぶけド」
一瞬イノと名乗った彼女は幼い子供のような表情を見せた。このまま、もしかしたら。だがその淡い期待は一瞬で裏切られた。
「……アタシのことハどうだっていイ。お前ハ,、アタシがここデ……」
ぷつりと響く、耳に障る人工的な音。瞳の奥の勘がアナンを突き動かす。
「……殺ス」
イノの言葉が聞こえるより前に、アナンはイスフィを抱えて思い切り前へ走り出した。視界の隅で隕石のような岩が飛び交い、石畳や民家が崩れていく。
限界まで地面に近づいたイノの長い爪が、アナンの顔すれすれに届く。先程の幼さを感じさせるような態度はどこへ行ったのやら、赤い目を爛々と光らせた彼女は獣そのものである。
(……どうする、どうすればいい?)
空を飛ぶ彼らには遠距離から弓で対応するしかない。だが、今立ち止まればたちまちイノの爪と牙の餌食だ。近距離武器は遠距離武器の弱点を、遠距離武器は近距離武器の弱点を互いに補い合っている。獰猛に、本能のまま突き進んでいるように見えて、その布陣は計算しつくされていた。
「やっ……!」
イスフィの小さな悲鳴に思わず足が止まりそうになる。だが、彼女は手に入れたばかりの杖でなんとかイノを振り払ったようだった。
「大丈夫か」
「うん。……でも……」
「……わかっている。このまま逃げ続けていてもいつか……限界が来る」
イノは明らかに一般的な石竜ではない。本来は竜の形態に戻って魔法を使って戦うのが竜の戦闘としては最善のはずなのに、彼女は人型のまま近接攻撃を続けている。五匹の竜も一向に攻撃の手を緩める様子はない。崩れ落盤か土砂のように放たれ続ける尾は無尽蔵に再生を続けている。
はたして彼らの目的が何なのか、アナンにはよくわからなかった。命を狙われるというとクルーヴァディア絡みだろうが、それにしてはやり口がカミル達とはどうにも違う。
異常と無限。抗えないもの、壊すもの。
(心臓に一撃、というのが理想だが石竜の固い皮膚を考えればそうもいくまい。……それなら、まず狙うは瞳……)
なんとか呼吸を整え、狩人として頭を回す。アナンとイスフィがイノに追われている今の状況は、言い換えれば彼らが囮になっているということだ。今この瞬間、キケ達が攻撃に回ってくれれば。
(頼む……!)
人ごみの中、見慣れた緑と目が合う。
いける。
頷く。
跳ぶ。
振り下ろす。
キン。
刃がぶつかるような冷たく短い音。
そう、刃が。
(……え?)
アナンは確かにキケの剣がやや軌道をそれて当たるのを見た。イノの無防備な肘に。
彼女の肘は一瞬黒く染まり、傷一つつかず元に戻った。
(硬化した……のか……?)
彼女の腕はどうにも石のように見えた。だが石竜のそんな特性は聞いたことがない。呆然とする間もなくキケは後方に吹き飛ばされた。
「お兄様!」
ユリアの悲鳴が遠くに聞こえる。五匹の石竜はキケとユリア、ラーシュを見つけ出したようだった。黒い影が三人を目掛けて飛んでいく。
「……自ら姿を現すとハ、愚か者メ。まあいイ、まとめテ葬り去ってやル」
ぴくりとも表情を変えず、冷たい目でイノは二人を睨む。鋭い爪が眼球のすぐ傍まで迫る。想像していたよりもずっとあっけなくて黒くて鋭い死が。思わず目を瞑る。思い出す。大切な人たちの顔、隣の温もり。
だが、覚悟したその時はいつまで経ってもこなかった。代わりに肺に飛び込む冷気。イノの気配が遠ざかる。二人は恐る恐る目を開けた。
「……仕方ありませんね、貴様らも助けてあげます。感謝しなさい、アナン=アイオン」
見上げた空には銀色の翼を持った男が浮かんでいた。
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