7章 Thunder(1)


「ごめんください」

厚い戸の向こうからは柔らかな男の声が聞こえる。もしかして少年が言っていた人物とは彼のことかもしれない。

「どちら様でしょう?……えっ」

――だが、戸を開けたユリアの淡い期待は一瞬で打ち砕かれた。

百人を超える鎧を着こんだ兵士が視界を埋め尽くす。その先頭に立つのは目つきの悪い長身の男。彼は呆然としているユリアを一瞬で外へ引きずり出す。

「応答せよ、こちらカミル。聖女、騎士を確認。BかCでいく。捕縛の後再び連絡する」

『こちらはリラ。……了解』

通信を切るや否や、彼はユリアを無理矢理抱きかかえた。

「や……やめて! やめてください!」

「騒ぐな。生体サンプルに傷をつけるわけにはいかないんだ。……リラ、捕縛は完了した。後は焼き払って構わな……ん」

最も捕獲が簡単な個体――この場合はユリアだが――を安全に捕縛し次第諸共焼き払う、というのが全てが順調に進んだ場合のプランBだったわけだが、やはり現実というのはそう上手くはいかないもので。妹の悲鳴を聞きつけたキケが愛刀を手にそこまで迫っていた。

「な……ユリア!」

「……来たか」

今カミルがすべきことはキケとの交戦ではない。『サンプル』の確保と退避、それだけだ。後は操縦士として腕の立つリラに任せればいい。

(だが……『印』には気を付けるか)

こちらへと駆け出してきたキケの右足には薄緑の印が光っていた。彼もまた妹を奪われた手負いの獣、おまけに印の力が発動している状態だ。手に持つものがすべて、名刀を遥かに凌ぐ剣と化す彼の力。油断はできない。

一方で、キケはユリアの元へ飛ぶように走りながらも小さな違和感を察知していた。

(こいつら……デストジュレームの兵だよな? 他国を襲う余裕なんてあるのか?)

彼らが背負う空色と白の旗は、キケの記憶が正しければデストジュレームの旗だったはずだ。だがそれは焼け焦げたり破れたりしていて、どこか妙な感じがした。

その感覚が確信に変わったのは剣を振り下ろしたその瞬間だった。

(血が……出ない?)

口に広がることを覚悟していた鉄錆の味。肩透かしを食らった、と思ったのも一瞬だった。

動き出した。

首を掻き切ったはずの、息の根を止めたはずの、彼らが。いや、それらが。

赤黒く固まった傷口を気にするそぶりも見せず、鎧を鳴らして一心にキケの方を目指して近づいてくる。無造作に転がった首の虚ろな目は、睨むようにキケを見ていた。むしろキケの一撃が合図になってしまったような感じだ。

(……このままじゃ埒が明かねぇ……)

恐らく奴らは生者ではない。そしてカミルにとっての戦力でもない。言ってしまえば囮だ。ユリアを連れ去る時間を稼ぐための。

そうしているうちにも、ユリアを抱えたカミルは戦闘機から垂れ下がった縄梯子のようなものを器用に登っていく。

(俺が今やるべきはユリアを取り戻すことだけだ)

相手との交戦を避けたいという点で、二人は奇妙な一致を見せていた。尤も、お互いそのことに気付いてはいなかったわけだが。

「……てめぇ!」

出来る限りの大声を出して、カミルの注意を引き付ける。フェイントにしてはわかりやすすぎるかと思ったが、やはり戦闘慣れしているが故の瞬発力は理性とは切り離されて発揮されたようだった。カミルは懐から小さな金属製の武器を――キケは後にそれを『銃』と呼ぶと知ったのだが――を取り出してこちらへ向けた。

(――そうだ、それでいい。だって、)

キケの狙いは『縄梯子の方なのだから』。

全力で刃を振り下ろす。醜い音を立てて、細い紐同士が連鎖的に千切れていく。

「なっ……」

片方の支えを失った梯子は頼りない振り子のように揺れる。

まさかユリアの身までも危険に晒すその行為に及ぶとは、カミルも想像していなかったのだろう。彼の表情に微かな焦りが見えた。とはいえ、ユリアを取り落とすのではないかというキケの予想は外れたのだけれど。

大地に穴が空いたかと思うほどの音を立てて、キケは何事もなかったかのように着地した。穏やかな薄緑の瞳が侵略者を鋭く睨む。

「……わかった、お前の妹は返してやる」

意外にも彼はあっさりその言葉を口にした。

「その代わり、……王子を差し出せ」

「……え?」

一瞬、キケは思考に頭を回してしまう。カミルはキケのその一瞬の緩みを見逃さなかった。

「……二流だ。頭で考えているうちは、な」

刹那、キケの太ももに鈍い痛みが走る。撃たれたのだ。幸い致命傷にはなりそうもないが、見慣れない武器に牙城を崩されたという事実は想像以上に彼の心を乱していた。

「お兄様……!」

「俺なら大丈夫だ、ユリア」

口ではそう言ったものの、事態はますます良くない方向へ向かっていた。首のない兵士達がこちらを取り囲むせいで身動きがとりにくい。囮とはいえ数が多ければそれだけでかなり厄介なのだ。右足の痣もいつの間にか発光をやめている。

「……『印』を失った英雄などただの人間。悪いがここで死んでもらおう」

再び銃口がこちらに向いた。黒い黒い死が、鉛で縁取られた死が、キケを見ている。

「いや! やめて、やめて……! お兄様を、お兄様を……!」

妹の悲鳴すら遠のいていく。

(……俺は……)

終わりを覚悟したその瞬間。

「……それを下ろせ。僕ならここだ」

冷たく、それでいて品のある声が響いた。

最後の音が届くより早く、一瞬で周囲の温度が下がる。上手くキケの周りだけを避けるように首無し兵達が凍り付いていた。

その攻撃の主は奥で寝ていたはずのあの少年だった。一瞬見えた左手にはあの薄葡萄色の痣がぼんやりと光っている。

その手にはしっかりとあの槍のようなものが握られていた。ただ一つ、先程と違うのは刃がついて完全な形の武器になっているということだ。発光する刃は魔法で作られたもののようだから、恐らく魔力を固形化して扱う魔導槍という武器だろう。

「……まずい、こちらの予想よりも……。リラ、機体を上げてくれ。撤収を……」

「そうはさせないよ」

逃げに入る彼らを紫の瞳が捉える。鋭く尖った氷の刃がカミルを目掛けて飛んでいく。カミルはなんとか梯子に肘を掛け、銃を盾にして防いだものの、一度距離を詰められてしまったことで完全に態勢を崩していた。一方的に攻撃できる状況でなければ、距離を詰められた遠距離武器は攻撃手段になり得ない。まして彼はユリアを抱えている状態である。

大きく地面を蹴って鳥のように舞い上がった少年は縄梯子を掴むと一気に距離を詰めた。ただ鉄と氷がぶつかる音だけが響く。カミルは少年を振り落とす必要がある一方、少年は何としてもユリアを奪還しなければならない。どちらも引くことができない緊張関係が続く。

「……今だ」

彼の一言で、不思議とそれぞれの頭の中が手に取るようにわかる。雑兵を薙ぎ払う手を止め、代わりに左腕を柔らかく曲げた。

「……お兄様! 参ります!」

「任せろ!」

僅かな隙をついて、ユリアはカミルの腕から飛び出した。

(大丈夫、いける)

確かな確信が二人にはあった。それはきっと、血よりも濃い絆が成せる技。

加速し落ちる彼女をキケは左腕でしっかりと受け止める。

「流石です、お兄様」

「ユリアも、な。その大胆さ、流石俺の妹だ」

横目で彼女の無事を確認し、少年は再びカミルを捉えた。ユリアを離したことでかえって自由が利くようになっているのだ。できることなら決着を着けたいが、流石に病み上がりの体では限界が近いようで、左手の甲の痣は光を失いかけている。

「……ちっ」

カミルの腕が少年を弾き飛ばす。これ以上しがみついていてはむしろこちらが倒されかねない。少年は抵抗せずに着地することにした。

一方カミルはその隙を縫って操縦室へ戻る。流石に縄梯子では無防備すぎる、と心の中でぼやきながら。

「……悪い、リラ。作戦は狂ったが、銃身から多少の皮膚片は採取できる。ステラにはそれで我慢してもらおう」

「ええ。……貴方が無事ならよかったわ。それじゃあ……」

サンプルを確保できれば後は諸共焼き払う。

幸いにも、或いは不幸にも、その作戦に支障はなさそうだった。キケと少年は無数に迫ってくる首無し兵の相手に手間取っている。今なら――。

「な……んだと……」

だが、リラの手はカミルの一言で止まった。家から駆けだしてくるその少年の名を、二人は嫌というほど知っているから。

「アナン=アイオン……」

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