第1章 玲と真輝
うだるような8月の夏。空調もろくに効いてないような暑苦しい部屋の中で、二人の少女が和卓を囲んで座っていた。二人の間にはたくさんの教科書やノートが開かれていて勉強をしているようである。
「違うよ玲ちゃん! また片方だけしか代入してない! この時は両辺にマイナスを掛けるんだよ!」
根神真輝は、シャーペンを振り回しながら出来の悪い妹に対して問題点を指摘する。何度教えてもこの子は同じ間違いを繰り返す。
根神玲は、そんな姉の指摘に対して不服そうに抗議の声を上げる。
「変じゃないですか。なんで不等号が両辺にマイナス掛けただけで入れ替わるんですか! どう考えてもバランスが崩れるじゃないですか!」
真輝はめんどくさそうにシャーペンの尻で頭を掻く。玲は地頭は決して悪くないのだ。ただ、数学のように公式に当てはめて概念を操作するという思考に慣れていないのだ。最初から自分の頭で全部考えて解決してしまおうとしてしまうので、時としてその答えはトンチンカンな方向に突っ走っていく。
ふー、と真輝はため息をついた。
「そろそろ休憩にしようか、玲ちゃん。もう1時間も経ったよ」
玲はシャーペンを放り出し、ばったりと後ろに倒れ込む。真輝は氷が溶けかかったグラスに入った麦茶を一口、口にする。玲は、蒸し暑い和室の中に置かれた唯一の空調装置である扇風機に向かってズルズルと這い進んでいく。
真輝は玲に声を掛ける。
「数学は嫌い? 玲ちゃん」
ノースリーブのワンピースの胸元から冷風を服の中に送り込んでる玲は、そんな姉の声を聞いて振り返った。
「嫌いですね。抽象概念だけで全てを操作しようという試みが嫌いです。私は手に取れるもの以外は信用できません」
真輝は腕を組んで首を傾げてしまった。これは無理やり公式を教え込むというよりは、数学的概念の理解から進めた方が良いかもしれない。
真輝は、玲が夏休みに入る直前に持ってきた通信簿を見て仰天した。体育以外がオール1などという通信簿は漫画以外で初めて見た。
驚いて保護者であるおばあちゃんにすぐさま報告をしたのだが、おばあちゃんは特に驚きもせず、「あの子はあの子の役割があるから学校の成績は程々でいいんだ」との答え。
どうもあの子は学校以外のお役目ばかりに熱心で、学校では常に居眠りばかりして勉強してないようだ。このままではまずいと真輝は、玲の家庭教師を買って出た。
玲は元々の理解力や分析力は優れているようで、教えたことに対して応用して答えを出すような問題には目覚しい答えを出すのだが、地道な努力が必要な科目についてはすぐに投げ出そうとする。真輝は、それでも辛抱強く教え込もうとしているのだが、何かあると玲はすぐに口答えする。
真輝は苛々した。この子は頑固で自分の信じてること以外は信用しないのだ。つい嫌味でも言いたくなる。
「知ってる玲ちゃん? 人間って馬鹿すぎると死んじゃうんだよ」
扇風機の前で目を細めていた玲は、そんな姉の言葉を背中越しで即座に返す。
「そうですね、お姉ちゃんは死んでますもんね」
当意即妙で言い返されるとは思ってなかった真輝は、言葉の含意を理解するまでに時間が掛かった。
真輝は無言で消しゴムを玲の後頭部にぶつける。玲は和机の下にだらーんと伸びている足で、思いっ切り真輝の太ももを蹴った。
二人はしばらく無言で黙り込んでいたが、ついに堪えきれなくなった真輝が、玲に飛びかかり背中から組み伏せた。
おばあちゃんが和室の襖を開けた時、二人は取っ組み合いの喧嘩をしていた。
「おやおや、どうしたんだい二人とも?」
「あ、おばあちゃん! 玲ちゃんがひどいんです!」
「貴方から始めたことじゃないですか!」
「まぁまぁ、二人とも仲が良いのはいいから、ちょっと仕事部屋まで来なさい」
起き上がった玲は真輝にぐしゃぐしゃにされた髪を手櫛で溶かし、のしかかってる真輝を押し返した。
真輝は尻餅をついて、捲れ上がってへそが見えていたTシャツの裾を直す。
「……なんでしょうね。あの様子だとまた仕事ですね。」
「帰ってきたらちゃんと勉強の続きするからね。玲ちゃん」
うんざりという風に顔を顰めた玲は、勢いをつけて立ち上がった。
「来ましたよ。おばあちゃん」
二人はおばあちゃんの仕事場の襖を開けて中に入る。この部屋は冷房が効いている。奥の間には鏡と祭壇が置かれている。二人たちが勉強していた部屋と比べると随分と広くて立派だ。
「で、話ってなんですか?」
玲は来客用の座布団を取って敷く。真輝の方にも一枚放る。
「座りなさい」
二人は座布団を敷いて畳間に座り込んだ。
おばあちゃんは机の上の陶器のたばこ入れを開くと、中から安タバコを取り出した。話をするときのいつもの癖だ。卓上のマッチを擦ってタバコに火をつける。
旨そうにタバコを吹かすと、大きな灰皿に火のついたタバコを置く。
「真輝や、あのお守りは大事にしてるかね?」
真輝は目をぱちくりと瞬かせて、首から下げているお守りを取り出す。
「はい。びっくりしますよね。他の人からも実体として見えているし、なんか生きてる時とそんなに変わりない感じです!」
おばあちゃんはニコニコと微笑んだ。
「常世の国の特注品だよ。私があちらの神様と話をつけて、特別に作ってもらった。真輝が良い子だからね、向こうの神様も喜んでいるよ」
玲はちょっと不満げに唇を尖らせる。
「ちょっと一人を特別扱いしすぎじゃないですか? 彼岸の川を渡る前だとは言っても、
おばあちゃんは玲に対しても微笑みを絶やさず、水を向ける。
「お前の守護霊だからだよ。お前は向こうの神様にも気に入られてるからね。お前を守るためだったら一人ぐらいは良いって言ってるんだ」
「なら良いんですけど……」
でも理が……、などと玲はブツブツと不満げに呟いていたようだが、おばあちゃんは話を継いだ。
「さて、本題に入ろうか。ちょっと玲と真輝に仕事のお願いが来てる」
思案顔だった玲の表情が引き締まる。真輝も姿勢をしゃんとさせた。
おばあちゃんは淡々と表情を変えずに話し始める。
「四国の高知の山奥にある寺社の住職さんが困りごとを解決してほしいそうだ。近頃、寺の近くにある道祖神や祠が何者かに壊されているということだ」
玲は特に色を交えずにおばあちゃんに問う。
「子供のいたずらじゃないですか?」
おばあちゃんはそんな玲を優しい目で見つめて答える。
「四国にはその地を封印するための寺や道祖神などがたくさん置かれているのだけど、今回壊されているのは『本物』だそうだ。しかも、わざわざ呪詛を使って結界破りをしようとしているらしい」
玲の顔が目に見えて険悪になる。
「四国に張られてる結界破ろうとしてるんですか!? 元々、あの土地は瘴気が強すぎて、空海が調伏するまではまともな人間が住めなかった場所じゃないですか!」
「そうらしいね」
おばあちゃんは灰皿に乗せられていたタバコを取ると、一息だけ吹かした。
「とてもじゃないけどそんなことは看過できない。結界が破られて現世と常世が裏返ると大災害が起こりかねない。常世の神様を通じて私らのところまで知らせが来てるんだよ」
真輝は深刻そうな表情の玲と、おばあちゃんの顔色を伺いながらおずおずと質問した。
「あの……その、私よく分からないんだけど結界破りってそんなに危ないことなんですか?」
おばあちゃんはそんな真輝を見て玲に目配せをした。
「玲、説明してやりなさい」
「……この世界の理から話さないとならないのですけど、手短に済ませましょう。実は現世と常世、彼岸と此岸というのはそれほど大きな違いがある場所じゃないんです。死者が行くのは常世という根の国ですけど、そこを管理しているのは私と同じようなちょっとだけ力を持った生きた人間です」
真輝はほうほうと頷く。
「常世の国も、大っぴらではないですけど日本の行政が管理してるんですよね。おばあちゃんは常世の神様なんて言ってますけど、実際は常世を管理してる行政のお偉いさんと電話してるだけですよ」
「え? そうなの!?」
おばあちゃんはニコニコと笑っている。玲はつまらなそうな顔で続ける。
「話を続けますよ。この現世と常世の間で、元の貴方のように迷って彷徨ってしまうような人たちがいます。そういう迷っている人たちを導くための、霊媒を生業としてる家系の者たちがいます。その血筋の者たちというのは、在野に散っていて、いろんなところで有償なりボランティアなりで迷える人たちを導く仕事をしてるんですよ。ゆくゆくは私たちもそのお役目につく予定です」
「まぁ、玲と真輝は修行中の身だね」
おばあちゃんは一言だけ口を挟むと、灰皿に灰を落とした。
「元々、この国の歴史というのは、常世に潜む魑魅魍魎と人間との領地争いでした。歴史の教科書に載ってるような、聖徳太子とか空海みたいな著名な宗教家というのは、現世に人間の住む領土を広げたような人たちですね。彼らが現れるまでは、日本というのは魑魅魍魎がはびこる荒れ果てた荒地だったんですよ」
「へー、そんなことなんて私は全然知らなかったよ」
「この魑魅魍魎と人間の領土争いというのは今でも続いていて、その領地を守る結界のバランスが崩れたところは大規模な災害が起きるんですよ。大地震や大規模な山崩れとか、人命が失われるような大災害というのは、霊的なバランスの崩れによって発生します。なので、今回なようなことがあれば国から要請を受けて私たちがその原因究明・問題解決へ向かうんですよ」
真輝はふむふむと頷く。
「私たちがやる仕事ってそんな風なことだったんだね。なんか難しそう……」
玲は真輝のそんな様子をみて気もなく返す。
「まぁ、今回私たちがやる事って言ったら、四国の現場に行って結界を張り直すぐらいじゃないですかね」
おばあちゃんは玲の話に補足を継ぎ足した。
「向こうのほうでは現地の寺の住職さんが助けてくれる。二人の宿泊先として宿坊も用意してくれるんだってさ」
真輝は満開のひまわりのような笑顔を見せた。
「本当ですか!? やった! 玲ちゃん! 夏休みのいい思い出になるよ!」
「私たちは遊びに行くんじゃないですよ? あくまでも本題はお役目です」
真輝は不満げに頬を膨らませる。そんな真輝を見ながらも玲は冷めた表情を崩さない。
おばあちゃんはそんな二人の孫をニコニコと眺めているのだった。
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