イヌガミギフテッド
椎野樹
プロローグ 狗神と少年
蒸し暑い夏の夜、俺は一人で道祖神の前に立っていた。辺りには名も知らぬ羽虫が舞っており、血の匂いを嗅ぎつけたのかまとわりつく。
人通りのない県道では、遠くに小さな街灯の灯りが見えるのみで人通りは全くない。都合の良いことだ。まぁ、目撃者が居たとしても殺すだけだが。
背負っている背嚢から密封され袋を取り出し、中に詰められた豚の血と経血を混ぜたものを道祖神にぶちまける。腐臭にも似た鉄臭い血の匂いが広がった。胃液が喉元まで迫り上がってきて少しえずく。
あまりもの臭気に後ろへと後ずさり、少しよろけてしまった。
辺りにはなんなのか分からない虫の声が響いている。ガサガサと森の中で獣が逃げていく音が聞こえた。
気を取り直し、体勢を立て直して右手で印を切り、術式を開始する。
俺の喉から搾り出されるように呪詛の呪文が響いた。
薄暗闇の中に粘着質に響く呪詛の言葉。響いてくる言葉に呼応するように精神が高ぶった。
次から次へと呪いの言葉が口から出てくる。精神の中には、形を留めない黒々とした憎しみ。地獄の亡者の悲鳴にも似たビョウビョウという陰惨な悲風の声が鳴り響いている。
心臓がだくだくと音を立てているのが分かる。暗闇の中から何かが迫り出してくるような圧迫感を感じた。
「……もう少しだ」
結界を壊すための術式は発動寸前まで来ていた。遠くで怨霊の声が聞こえる。こちらの怨念に当てられて、近隣の地縛霊が呼応しているようだ。
まずまずと言ったところか。こちらの術式は近隣の報われぬものたちの怨念を一点に集中させ、結界を打ち崩す。いくら高名な弘法大師がその法力で現世と常世を分離した結界とは言えども、その死後1000年以上も放置されていたようならば俺にも破壊のしようがある。死者は常世で大人しくしていれば良いのだ。
「いい加減、しつこいんだよ!」
両手を組み、破砕のための印を切る。その瞬間、夫婦を模した道祖神の像は二つに割れた。
ようやく割れたか。これまでも幾つか道祖神を破壊してきたが、この結界は本当に強固だ。そうでもなければ、この呪われた地を調伏して人が暮らせるような場所にすることなどできないということか。
額を手の甲で拭う。気がつかなかったがいつの間にか水でも被ったように汗をびっしょりとかいている。精神を使いすぎてしまった。じんわりと頭が締め付けられるように痛む。それでも、仕事を一つやり終えた満足感で感情は高揚していた。
冷静になって周りを見渡してみたが、周囲は相変わらず遠くの街灯が照らすオレンジ色の光で茫洋としている。一つや二つ道祖神を破壊したところで簡単に世界は裏返らぬ。そんなものか。
苦労をして仕事をしても世界はちっとも応えてくれない。いつものことだ。そんな落胆の気持ちを苦々しく味わう。いつまでもこんな所に突っ立ってる訳にもいかないだろう。さっさと寝ぐらに帰って不貞寝でもするとする。
興奮して滾っている血の気をなんとか散らすことは出来ぬかと俺は思案するが、村の年長者がやるように酒や女で紛らわすことには興味がない。俺が興味があるのは拷問の犠牲者があげる悲鳴や報われぬ人生に対する繰言などつまらぬことばかりである。
親父の言葉を思い出して、憂鬱な気持ちが再びぶり返してくる。
この世界は終わりかけているのだという。しかも、俺の存在によって。
このくだらない世界が終焉してしまうことについては、別に俺も異存はない。醜く生に依存する人間という生き物をこの手で滅ぼしてやることができたのならば、さぞかし胸がすく思いがするだろう。
しかし、どうもこの俺がこの世界の理を犯す存在というのが具合が良くない。周囲にある生き物や人間は、俺の存在によって思考を狂わされて、次々と狂死していく。母親も俺の存在のために発狂して、座敷牢に押し込められたまま衰弱して死んでいった。親父はいまだにそのことで俺を恨んでいる。
この、めんどくさいお役目を押し付けられたのも、親父の俺に対する当てつけだろう。村の長老や役職者たちは、面倒臭いことは全部親父に押し付けた。その皺寄せとして俺は酔った親父に毎晩ぶん殴られることになる。
俺がやるこのお役目が世界を滅ぼすことになるのなら、俺は嬉々として勤め上げる。だが、それが親父や村の人間たちを喜ばせることになるのが気に食わない。どうせなら、世界を滅ぼす前に、あの村に閉じこもって旧弊なしきたりに縛られた連中を皆殺しにすることができたのならば、腹のうちに満ちている黒々とした汚泥を少しは薄めることができるだろうに。
何度となく思考の中で繰り返したくだらぬ繰言は、外界で起きた出来事によって打ち切られた。
遠くから来たヘッドライトが俺を照らし、乗用車が俺の近くに来て止まった。
乗用車の中から何人かの男たちが出てくる。その男たちはそれぞれ頭を剃り上げ、法衣を着けた僧形の者たちである。
その中でもまとめ役だと思われる僧が、崩れた道祖神を見て言った。
「これをやったのはお前か?」
俺はその僧たちを睨め付ける。最近は、俺がお役目をやろうとしても近隣の寺が警戒をしているらしく、妨害が入ることが度々ある。僧たちはそれぞれ武装をしているらしく、錫杖などをかざしている。
楽しくなってきた。たまにはこのような刺激がなければ。淡々とお役目をこなすだけなどつまらない。俺はにんまりと嗤う。
俺を僧形の者たちが取り囲む。袋叩きにでもしようという算段なのだろう。
俺は周りを確認して、「あれ」がいることを認識した。そして声を掛ける。
「狗神よ。在れ」
実体化した狗神が、僧の一人に襲い掛かる。あっという間に数メートルもの距離で人間を吹き飛ばし、その牙で血祭りに上げる。
驚いた他の僧たちが逃げ出そうとするが、逃がさない。狗神はあっという間に回り込み、次々と一人ずつその牙と爪で蹴散らしていく。
辺りはあっという間に血の海になった。狗神に襲われた僧たちはうずくまり、苦しそうに呻いている。
僧たちのまとめ役であろう僧侶が腰を抜かしたようにへたり込んでいる。
「な、なんなんだお前は……。子供!?」
俺はその生き残りの僧の元へ歩いていき、顔を間近から覗き込んだ。お楽しみはここまでか。なんだ、つまらない。
そうだ、いいことを思いついた。こいつらを生かして逃してやれば次々と仲間を呼んで来るんじゃないか? このまま寺を襲うことも考えたが、あまり警戒させてしまって逃げ出されるのも困る。
「仲間、呼べよ。このままだと四国が大変なことになるぜ」
若い僧侶の顔は恐怖で歪んでいる。気がつけば狗神が俺のそばに寄ってきて血で汚れた毛皮を舐めていた。
俺は立ち上がり、その僧侶に背を向けて歩き始めた。
これから面白いことになりそうだ。さて、退屈しなければ良いのだが。
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