第16話

軽い力で漕ぎながら、コースを遡っていき体をクールダウンさせていく。

さっきまで漕いでいたレーンに目を向けるとレースのことが浮かんできた。でも思い出せるところとそうじゃないところがある。開始直後と最後。特に記憶が曖昧だ。最後の瞬間なんかは、いつゴールしたのかも分からない。良い感じで漕げているところの記憶はきちんとあるのに、それ以外のバタバタ漕いでいた箇所は曖昧だ。

特にゴール付近で、体が急に重たくなってからは、横の相手の位置を気にする余裕もなかった。

勝ちを意識して、無駄な力が入ってしまったのかもしれない。呼吸も急に苦しくなって全身の筋肉が硬くなっていた気がする。艇をターンさせる時、剛田さんと友永さんの姿も見えたけど、喜んでもないし、悔しがってもなかった。剛田さんたちもどちらが勝ったか分かっていないのだろう。いつもはさっさと陸に上がって、休みたいとしか思わない。

でも今は少しでも長く水上にいたい。翔太さんと漕いでいたいと思った。

あの後半の漕ぎ、艇との一体感。今までにない感覚を掴むことができた。結果がどうあれ、この試合はいい試合だったと言える。


でもそれは、”俺個人として”の場合だけだ。

翔太さんの最後の六甲戦だ。”勝敗は置いといて”という訳にはいかない。


お隣の大学との一騎打ち。”全日本” みたいな大仰な名前がついているわけではない。そして勝てば次のステージに進めるという種類のレースでもない。でもなぜだろう。この試合には、独特の緊張感がある。六甲戦には初めて出たけど、声援が他の大会とは明らかに違う。伝統の一戦。少し大袈裟かもしれないが、そんな言葉を思い浮かべた。外から見れば日本の片隅で行われた、マイナースポーツだ。でも誰がなんと言おうと、この試合は一生忘れないような気がした。


艇を陸につけると、川田さんや辰巳さんが迎えてくれた。艇置き場までオールや自分達の飲み物とか直前まで身につけていたシャツなんかを運ぶのを手伝ってくれた。

「翔太も、杉本も本当お疲れ様」

川田さんが労ってくれる。

「次はお前らだ。エイトは任せたぞ、川田」

翔太さんからそう言われ、川田さんは頷いた。四回生がそんな声を掛け合っていると、周りの下級生は何も言えず圧倒されてしまう雰囲気がある。


ペアを翔太さんと二人で担いで運んでいく。浜寺は海水のコースなので、特に丁寧に艇を洗い流す必要がある。艇置き場へ向かうその短い道中でも、いろんなOBさんが、「桂ー!!」と声援を送っている。翔太さんはものすごい有名人だ。自分までなんだか誇らしい気持ちになる。

杉本ー!の声がないのは残念だけど、これからだ。そして「これから」と思ってる自分がボートを続けることを決意していることに気が付く。このレースで最後にしようかとも考えていたくせに、そんなこと最近では一切考えていない。そうだ、続けるんだ。ボートを続けたい。まだまだ自分は上達できる。ひとり心の中で決意を固めていると、レース結果が張り出されるボートの前から、大きな歓声が上がった。たくさんの人が、腰をかがめて小さなA4の紙に視線を寄せている。ここからでは少し離れていて、どちらの大学のメンバーが喜んでいるのか、判別がつかない。艇を洗い場に置く。先に白い六甲大の艇が隣に置いてあった。きっと結果を見にいったんだ。俺もボートまで行こうかと思っていると人だかりの中から、一際大きな体の剛田さんが出てきた。そしてそのまま歩いて俺たちの方へ歩いてきた。

ゆっくりとした歩みだった。


目の前まで、剛田さんは近づいてきている。

「俺たちは最高のレースをした」

堂々と声を発している剛田さん。すでに結果を知っているのだろう。

「杉本くん、見事だ。本当に、よくここまで」

レース前に挨拶した時のように、差し出された剛田さんの手は豆だらけだった。俺には何か神々しく感じられた。体中が汗だらけであまり意味はないのだが、失礼にならないように太ももで拭ってから、剛田さんの手を握った。


穏やかな風が吹いた。コースから潮の香りがする。握手をしながらほっと息をつく。体から力が抜けていく。闘いは終わったんだなと、結果を聞く前にまずはそう感じた。剛田さんも大きく息を吐きだしている。剛田さんは一度俯いて、それから遠く空に視線を向ける。

「両校の差は0.15秒だった。勝ったのは君たち阪和大だ」

空を見る剛田さんは、晴れやかに泣いていた。

「申し訳ない。自分でもよく分からん。なぜ泣いているのか。悔しいわけじゃないのに、涙が止まらん」

泣きながら顔を綻ばせている。俺もなんとなく気持ちがわかる気がして手を握ったままにしていた。レース前は俺たちの握手を笑っていた翔太さんと友永さんも今は笑っていない。神妙な面持ちで俺たちを見守ってくれていた。

「杉本くん、とにかく見事だった」

そう言って手を離すと、一礼した。

「またな、杉本くん。オールをとってくる」

剛田さんはごしごしと顔を拭って爽やかに笑い、その場を去っていった。

そうか、勝った。俺たちが勝ったんだ。

俺は剛田さんの背中に向かって一礼してから翔太さんの顔を見る。翔太さんが真っ直ぐ見つめ返しうなずいてくれる。

周りにいた川田さんたちも歓声を上げて喜んでくれた。

「すげーー!」とはしゃいでいる岡本が「タイム見に行こうぜ!」と言って、頷いた井上と一緒にボードの前に向かって走っていった。川田さんたちもそろそろレースの準備がある。翔太さんと視線を交わすと、ガッツポーズをしてその場を離れていった。


船台から歩いてきた友永さんは剛田さんとすれ違う時に短く何か言葉を交わした。手元に持っていたオールを剛田さんへ手渡すと、俺と翔太さんの元へ歩いてきた。

「良いレースだったね、杉本くん。完敗だ」

友永さんにも握手を求められた。慌てて会釈しながら手を握り返した。剛田さんとは違って、友永さんの手は柔らかくレース直後なのにどこかひんやりとしていた。そして剛田さんとは違ってすぐに手を離した。友永さんは、その後で翔太さんに向き直って。

「翔太、今からインカレが楽しみなんじゃないか」

翔太さんは友永さんのその言葉を聞いて「なんでもお見通しかよ」と笑っている。

「杉本くん、インカレでも良いレースをしようね」

そう言うと、後ろ手に手をヒラヒラさせながら去っていった。

ふたりきりになると翔太さんは照れくさそうに俺に言った。

「杉本、お疲れ様。本当によく頑張ってくれた」

翔太さんに労ってもらうと、それまでの苦労が一気に吹き飛ぶ感じがしたし、嬉しさが一気に込み上げてきた。

「それから試合直後に言うことじゃないかもしれんが、杉本にはインカレではエイトに乗ってほしい。もう少し力を貸してくれ」

その言葉を聞くと、俺は川田さんがやっていたみたいに片手をグーにして前に出してガッツポーズをして見せた。翔太さんも同じポーズをして笑っている。

これから大変なこともあるだろう。でもとにかくまだもう少し翔太さんとボートを漕げることが嬉しい。今感じるのはそのことだけだった。

艇を綺麗に片付けると、漕艇場のシャワールームで汗を流した。エイトのレースを応援するためにコース沿いのテントに帰った。梅雨の明けた夏の空。気温はぐんぐん上がっていたが、それよりも爽やかな気持ちの方が優っている。真っ直ぐに伸びるコースを見る。瞬に勝利の報告がしたくなった。

「レース勝った。それから、飛びたいと思ったから飛んだよ」

答えになっているか分からない。でも伝わるだろう。そんな気がした。

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