第15話
レースは間も無く佳境を迎える。レースを見守っていた岡本たちの目にも、姿が捉えられる位置に両校ともに差し掛かっていた。
「見えてきましたよ。意外と並んでないですか。これいけるかも」
岡本が興奮している。
アナウンスがレースの途中経過を告げる。
『1500m。六甲大5分16秒。阪和大5分23秒』
1000m地点で11秒あった差は7秒に縮まっていた。
岡本が言ったように、差が縮まってきている。レースを見守っている観衆がざわめいている。
観衆の中のひとりが誰からともなく、声援を発した。それに呼応してまたひとり声を発する。そこから最初の1羽がに続いて群れが飛び立つように、歓声は一気に広がっていった。今では誰もが身を迫り出して、水上の選手たちにぶつけるように声を発している。もはやこのレースは水上の四人のものだけではなかった。日本においてボート競技というのは、マイナースポーツである。その存在を生涯意識しない人だって多くいるだろう。
それでも今この会場には、ひっそりとそして切実に燃える何かがあることは確かだった。
*****
ミドルスパートは200mと決めていたが、その距離を通過しても俺は同じレートを維持した。練習ならここでもう一度コンスタントに戻すのだが、今は艇が進みたいと言っている気がして、そのままのペースを維持した。なんだろうこれ。今まで感じたことがない。
いつもなら頭の中で、いちいち体の動きを意識して漕いでいた。「肩は脱力」とか「ドライブ中はオールにぶら下がる意識」とか「きちんとフィニッシュで押し出してからオールを返す」とか。あげればキリがない俺の課題が頭を巡っていた。その山ほどある課題の箇所に差し掛かるたびに、グルグル頭の中で修正点を反芻していた。練習中もレース序盤もその繰り返しだった。でも今はそうじゃない。いま俺は何も考えていない。とにかく艇を感じること。それだけに意識を集中していた。頭より先に体が反応してくれる。そして艇速がどんどん上がっているのを感じていた。
「杉本、そのままいけ」
微かに発された翔太さんの声は苦し気だった。でもその言葉を信じてこのままいこう。それにこの感覚を手放したくない。今これをやめたら、しばらくここには戻ってこれないだろう。そんな予感がした。
艇への意識が増す一方で、外界からの刺激には酷く散漫な意識しか向けられない。「そのままいけ」の後にも何か翔太さんに何か声をかけられている気がする。聞き返そうか。いや、今はいい。艇が進んでいる。今のままでいいはずだ。水中にいるみたいに、耳から入ってくる刺激はぼやけている。ジャッという水を掴む音、ボンッという水を離す音が心地いい。
もしかしたら、これがボートなのかもしれない。どんどんと更新される。今までボートだと思っていたものが、次の漕ぎでそうじゃないと気がつく。この試合の中でも、何回かそんな感覚が自分に訪れている。そういえば練習中に、”艇とひとつになれ。”と翔太さんが言っていた。もしかしたら、これがそうなのかもしれない。自分の手とオールとか、足とストレッチャーとか、自分の体と道具との境目が曖昧で、ボートに乗っているのに自分の体を操っているような感覚だった。どうやって動けばいいか、その全てが理解できた。
うまく漕げているという感覚のおかげで、全身から力が湧いてくる。普段ならレース後半、必ずバテて速度を落としてしまう箇所がある。でも今日はどんどんと速度が上がっていく。もっと速く艇を進められると思った。
1500m地点のアナウンス。六甲大との差は、7秒に縮まっている。必要な情報だけが体に入ってくる。インカレ優勝クルーまで7秒。
"勝ってもいいんだぞ"
翔太さんの言葉が頭の中に響いた。そうだ、勝ってもいい。勝ちたい。全身に力を込める。
それからラストスパートに入った。
残り500mでのスパートはかなりのロングスパートになる。でも全然苦しいとは思わない。溜めていた力を解放するだけでいい。体の中にはまだまだ力が残っている。
翔太さんが叫んでいる。
「相手、近いぞ。杉本、暴れろ!!」
1700m地点でもう一段階加速させた。
一体自分のどこにこんな力があったのか。体の中に無尽蔵とも思える余力を感じた。いくらでも漕ぎ続けられる気がする。でももう終わってしまう。いつもエルゴとかだと、早く0mになれと残りの距離を睨むように見ていたのに、今日はゴールが近づいていることが名残惜しくもあった。
こうなったらとことん加速させられるだけ艇を加速させよう。多少強引だが俺はレートをさらに上げた。一瞬艇が重くなったように感じるが、全身の筋肉を使って、足の裏でストレッチャーを押す。体幹を通じてその力は手元のグリップまで。オールがしなっている。そのまま勢いよく押し切るとまた体が加速する。加速した艇に素直に従うと、素早くエントリーのポジションまで体勢を移行することができる。レートがどんどん上がって、艇速もそれに伴って加速している。そうやって艇を加速させるとまた軽くなった。
岸を見る。1850m地点。もう終わってしまう。もっと漕いでいたいのに。
その時、視界の逆側に白い艇が見えた。六甲大のペアだ。
このレースでずっと追い続けていた姿が初めて視界に入った途端、全身の血が沸騰するがわかった。
抜いた!
六甲大のペアよりも、俺たちの方が先に進んでいる。六甲大を抜き去っている。勝てる、勝てる、勝てる。間違いない。俺の目は剛田さんと友永さんの姿をはっきりと捉えていた。
勝てる!
強烈にそう意識した瞬間に、急に水が重たくなった気がした。
あれ、なんだこれ、体に力が入らない。
さっきまで、軽々と押せていた艇に、急に重りが乗せられたみたいだ。
ヤバイ、このままだと負ける。
いや、焦るな、まだ俺たちの方が出てる。負けてない。
さっきまでの研ぎ澄まされた感覚が薄れていく。外からの声もどんどん耳に入ってきた。陸からほとんど怒号のような大歓声が響いている。艇とひとつになれていたはずなのに、今はバタバタと艇の上で暴れている自分がいた。何かを掴みかけていたのに、六甲大を抜かしたのに。翔太さんの最後の六甲戦なのに。頭が混乱している。誰かが叫んでいる。なんだ、わからない。
「杉本、ありがとう! ゴールだ、、、」
え、翔太さんの声だ。
”ありがとう”というのは、ボートでは漕ぎ終わる時の合図だった。
どういうことだ。あれ、勝敗は?
いつの間にか、両校ともにゴールラインを通過していた。
我に帰り横を向く。さっきまで見えていた六甲大のペアがいない。少し後ろを向くと俺らより先に六甲大のペアがいた。
後ろのシートに座る翔太さんは、俯いていた。
”明日からよろしく頼むな”
俯いている翔太さんをみて、いつの日か、頭を下げながら言われた言葉を思い出した。
勝ちたい。自分が強くそう思っていることを発見する。なぜゴールしてからなんだろう。なぜ今になってその気持ちがとめどなく湧き上がってくるのだろう。
ゴール地点。歓声は止み、皆がアナウンスの声を息を殺して待っている。
どっちだ。俺は勝敗が分からず、尋ねるように翔太さんの顔を見た。
翔太さんは首を振り、苦笑いしている。
首を振っているのは、負けたという意味ではなく、自分にも勝敗は分からないという意味だろう。
艇上で翔太さんは声を発さずに、手を差し出してきた。俺も手を差し出すと、その手をがっしりと握り返してくる。少し泣いているようにも見えた。
アナウンスの声は一向に聞こえてきそうにない。どうしようと迷っていると、陸から川田さんが声をかけてくれた。
「二人ともお疲れ様。ほぼ同時にゴールだったみたいで、今動画判定してるって。とにかくクールダウンしてから上がってきなよ」
翔太さんは手を挙げて、川田さんの声に応えた。
「杉本、1000地点まで流して戻ってこよう」
レース直後で当たり前だけど、翔太さんの声は憔悴して小さかった。それが勝敗の答えという訳ではないけれど不安になる。
「はい」とだけ小さく答えた。
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